三、

 何人の男と女がいるのだろう、ある者は着飾り、ある者は半裸で、設えられた幾つのもテーブルにはワインの瓶と、元は豪勢な食事であろうが、食い散らかされそこかしこに飛び散っている。淫らに戯れる体臭と、さまざまな香水と、ワインと煮詰められたソースと、客にのし掛かられ泥酔している楽隊の演奏と、罵声と嬌声。シャンデリアがぐらりぐらりと頭上で揺れて、まだらの光を垂れ落としていく。およそ幼いフェリシスに、敬虔なクリスチャンであった家庭教師が教え込んだモラルとは相入れない、この葛藤に苛まれ続けているフェリシスは、吐きそうになった。


「今夜の余興が到着したようだぞ、各位」


 正面中央に一国の王のように鎮座した男がいる。皮張りの大きなカウチに背を預け、見るからに上等な生地を使った暗色のウェストコートが太い胴に巻きついている。白絹のシャツ、レースの袖、ずんぐりとした脚。巨体というほどではないが、カツラを着けずに縮れた強い黒髪と、濃い眉、鉛のように鈍く輝く眼、厚い肩幅に、獣が吠えるようながなり声は、この場の−悪魔の玉座に相応しい威容であった。樹皮のように皺ぶくれた肌には瘤斑、“イタリア病“の特徴が明らかだが、地獄の火さながら全身から気迫が吹き出しているようだ。


 フェリシスは蛇に睨まれた蛙のごとくそこに立っていたが、背丈が小さく禿頭の男が一人、人の群れから踊り出し、フェリシスを蹴飛ばした。周囲の者たちが下卑た笑い声を上げる。


「頭が高え!這いつくばれ!」

「止めろ止めろ、旦那はお貴族さまだぞ」


 何をされたのか把握できず、よろけた姿勢のまま呆然としていたフェリシスは、揶揄い半分のようなアンブロワーズの言葉に血の気が上がった。


「俺は貴族ではない」

「ほう、では貴族の嫁を貰った商人の息子かね。それが俺に何の用だ」


 面白くもなさそうに、アンブロワーズはワインの杯を呷った。青黒く弛んだ皮膚の下で、喉仏が上下する。毒の舌が、獲物を狙って蠢いている。


「火薬が欲しい」


 臭気を吸い込み、腹に力を入れて、フェリシスはアンブロワーズを見上げた。何をどう伝えるべきか、ウィジェーヌに会ってから、ここに来る道すがらもずっと考えていたのだが、上手い言葉が見つからなかった。


「ヴェルサイユは相当の金を積んだが、お前は?」


 爛れたような頬にガタついた歯は病のせいであろう、しかし眼光は轟く稲妻の如くだ。フェリシスを足蹴にした小男は、ひえっ、と悲鳴を上げて人混みに潜り込む。


「ルイの火薬は俺たちのものだ。誰の金だ」


 群衆はゆらゆらと揺れるシャンデリアの光の下で騒めく。アンブロワーズは喉の奥で、笑ったようだった。


「バスティーユを陥すための火薬が欲しい。有り金全て出す」

「旦那の記事はなかなか興味深かった。身分闘争は嫌いかね」


 フェリシスはぎくりとする。まさかアンブロワーズが自分の書いた記事を読んでいるとは思わなかった。新聞の花形記事は勿論政治とゴシップである。しかしフェリシスの書くものは人気が振るわず、今は経済記事の担当になっていた。真実を伝えるべき新聞記事が、センセーショナルで煽るような文言を使うことに抵抗があるのだが、読者はそれを期待しているらしい。口を噤んでしまったフェリシスを気にも留めず、ワインを舐め、アンブロワーズは続ける。


「ソキエタスとコンメンダだったか?組織規約の詳細が知りたい」


 フェリシスは改めて広間を見渡した。目が目が目がこちらを半ば冷ややかに、半ばつまらなそうに見ている。ソキエタスとコンメンダは、イタリアの都市国家で発達してきた産業組合組織である。組合員が共同出資するもの、出資者と組合員が異なるもの、損失補填の方法や福利の違いなどにより、さまざまな形態がある。フェリシスは紙面で、フランスにおける第二身分と第三身分が協働した産業組合の可能性を説いて、大いにひんしゅくを買ったばかりだった。この男は、とフェリシスはアンブロワーズの鱗が浮いたような顔に向き直る。もしかしてこんな街の浮浪者たちを集めて、産業組合でも作ろうと言うのだろうか。低賃金・悪環境労働に就くしかなかった者たちを組織化できれば、雇用者や政府を交渉に引き出し、組合員の相互扶助を促せるだろう。なんてこった、フェリシスは我を忘れそうになった。


「書式を取り寄せますよ。『法と風土』の関係で言えば、」

「あんたが手懐けたあの仔犬が言ってたが、旦那、“指が青い“そうだな」


 しかし、冷や水を浴びせられる。対等に話そうとした傲慢をへし折られる。“指が青い“、そうか、ウィジェーヌがあの時、手を見ていたのは、気付いたからだ。別に隠すつもりは無いのだが、辛い記憶と繋がっているために、フェリシスは汚れた床に這う己れの影に視線を落とした。頭上で揺れるシャンデリアの光が、幻惑を見せるようだ。エレーヌ、待ってくれ、何故。


「…父が染料を扱っていまして」

「その手は、実際に染め工程を繰り返していなければならないだろうが。地元の染色業者の手伝いでもしてたか。何のために」


 フランスで青物染めは伝統的に大青(ウォード)が使われてきたが、近年インドから輸入されるインディゴに取って代わられてきている。大青加工は臭いが酷く、水を汚染し、また皮膚を青く染めるため、青物染色業者は他の住民から嫌厭され、同業者で集住していた。エレーヌの一家も青物染めの染色業者だったが、ほそぼそと生産に従事する家族経営では、輸入インディゴは価格が高くて手が届かない。大学在学中だったフェリシスは、そんな小規模経営の染色業者たちを組合化し資金力を底上げして、輸入インディゴの使用を奨励することが、彼ら自身にも、父の事業にも役立つことだと考えた。エレーヌの家族に頼み込んで、仕事場にも連れていってもらった。現状を見て、作業に参加することで、懐疑的な業者たちを説得するきっかけになるかと思ったのだ。


 次第に、フェリシスはエレーヌと親しくなった。控えめだが、家族思いで、仕事熱心なエレーヌ。フェリシスの考えを支持してくれ、同業者や友人たちに働きかけてくれたエレーヌ。青く白んだ頬に、慎ましやかな笑みを浮かべるエレーヌ。だが、保守的な同業者の中には二人をよく思わない者たちがいた。また、フェリシスの家族も、フェリシスが染色業者の娘と親しくなることを厭った。ある日突然、エレーヌは川向こうの地主の後妻へやられてしまった。向こうの男は、買い付けに来た際にエレーヌを見かけたと言うが、エレーヌは見ず知らずの男に拐われるように、身受けされてしまったのである。それでも、男に資産が有り、エレーヌの生活を保証してくれるのならば、とフェリシスは理解しようとした。だがエレーヌは、フェリシスが落胆のまま大学に戻って暫くしてから、実家に追い返された。『汚らわしい』と言われたらしい。男は、新しい愛人ができて、エレーヌが邪魔になったのだ。その時にはもう、彼女はあの病に冒されていた。


「女か」


 空虚のように拳を握り締めるフェリシスの肩越しに、アンブロワーズは失笑とも憐憫ともつかない残り火のような息を吐いた。この毒蛇はどこまで知っているのだろう、それとも話術なのだろうか。対面してからというもの、酔ったように酷く感情が乱れる。ぎりぎりと大蛇の腹で締め上げられるように、心が軋む。今夜の余興と言っていた、俺はこの場の観客たちの前で、空虚な口上を述べる道化に過ぎないのだろうか。フェリシスは瞼にちらつく面影を振り払って、顔を上げた。


「どうしても、変えられないものがある。自由、平等、博愛などくそ喰らえだ、人は平等になど生まれない、俺はただ一人を愛せればいい、自由こそ金次第だ」


 病状が皮膚に現れ始めると、エレーヌと家族は人目を避けるように家の奥へ引き篭もってしまった。フェリシスが何度訪れても、会ってくれようとはしなくなった。集住地の他の業者たちは、エレーヌを悪魔憑きのように噂した。フェリシスとあの地主という金回りの良い男二人と関係したことへの嫉妬、組合組織づくりなどに熱を上げたことへの批判もあったのだろう。家族への嫌がらせや暴力も目に余るようになった。フェリシスが駆けつけた時、一家は夜陰に紛れてその地を去っていた。崩れかけた家屋のなかで一人、エレーヌはその痩せ細った首に縄を掛けていた。自ら選んだのか、強いられたのかは、分からない。


「火薬が欲しい、変えられないのならば、全て壊してやる」


 鎌首を持ち上げ、瞳孔が銀に光るような目をしならせて、アンブロワーズはフェリシスを見た。紫がかった唇が、獲物を呑むように吊り上がる。今度こそ袋叩きにあうのではないかと、フェリシスは身構える。


「帰れ。用は済んだ。ブレーズ、旦那がお帰りだ」


 冷えた無感情な声で吐き捨てる。ブレーズ、と呼ばれた先刻の小男がへいへい、と低頭して進み出ると、フェリシスを群衆の輪から押し出した。抵抗して話を続けようとするフェリシスの肋骨をしたたかに殴り上げる。小柄でせむし、脚も曲がった男だが、力は相当強いようだ。淫らなお喋りと音楽が再び始まった広間の扉が、背後で閉められる音がする。よろけて声も出せず咳き込んでいるフェリシスを、面倒臭そうに館から蹴り出すと、男は夜道をランプの光も無く歩き出した。フェリシスは何が起こったのか把握できず、呆然とアンブロワーズの屋敷を振り仰ぐ。夜の露が火照った頬に流れて涼を感じる。


「ついてこい。二度は無えぞ」


 アンブロワーズの前とは打って変わって居丈高にしゃがれ声が言う。フェリシスはおさまらないものを感じたが、他にどうすることもできないので、男に続いた。男は厳つい肩を揺らして、早足に入り組んだ路地裏を進む。筋力の有る重そうな上体と煤汚れた衣服は、鍛治職人だからなのかもしれない、とフェリシスは考える。まったく、タダ酒飲みっぱぐれたじゃねえか、とぶつぶつ言う禿頭に、太く白髪の混じった眉、ぐりぐりと良く動く目、潰れた鼻、厚い唇。そして黒ずんた皮膚の硬そうな太い指。


「クロードの火薬はなあ、金だけじゃ買えねえぞ」


 足場の悪さに気を取られていたフェリシスの耳に、男の投げやりな声が届く。川べりの貧民街区に入り、汚泥と鼠を避けるのも一苦労だ。またあの腐臭に包まれる。嘲笑うような啜り泣くような恨み言のような人々の会話とも生活音とも解らないものが溢れ出してくる。どこからか、暴動を煽り立てるような言葉が聞こえるような気がして、フェリシスの動悸は速くなる。まだだ、まだ尚早だ。


「お前に運が有るかどうかだ。火ってえのは、扱う人間を選ぶ」


 鍛治職人が言うのならば、そういうものなのかもしれない。フェリシスには実戦経験が無いので黙るしかない。アパルトマンのせめぎ合った一角、灰色の堅牢な外壁の前で、ブレーズは立ち止まる。打ち直したのであろう厚い木戸を開け、ささくれ立った階段を軋ませながら登る。月が出たようだった。排気で澱んだパリの夜空だが、窓辺が白く仄かに照らし出される。ブレーズは、上階の部屋の扉を叩いた。

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