二、
夕日の紅も、家々から立ち上る黒煙に覆われて、濁って見える。フェリシスは汚泥を跳ね上げる馬車の向こうから、一群の人々がやってくるのを見て、コートの襟に隠した口元で舌打ちをした。擦り切れた衣服を纏い、痩せた猫背を怒らせ、口々に罵声を吐き、今度は何処の店を襲うのか。止めることはできない。彼らはまともな武器など持ってはいないが、その絶望と憤怒は武器に勝る。遮ろうととでもすれば、裏切り者呼ばわりされて私刑に会う。物価の高騰と課税の重圧に耐えかねて、人々がパン屋に押し入るようになった数年前から、治安は悪化の一途を辿っている。最早見境ない略奪行為に等しいのだが、誰にも手立てが無い。
広場の方角からは金切声のような演説が響いてくる。どれだけ人が集まっているか知らないが、フェリシスはもう声で誰が演説しているか判る。そして、何人かを除いては、二番煎じだ。言っていることは同じ、内容が同じでも議論立て自体が上手い弁者もいるのだが、大衆受けしやすいような猥雑なジョークを飛ばす者もおり、駆け付けて聞いてやろうという気にはなれなかった。人民の指導者となるべき人々の間で、今度は派閥ができている。
一体こんな中途半端な気持ちで、体制変革など成し遂げられるのだろうかと考える。パリに出てきた時は、自由民権のために命を賭しても構わないと思っていたのだ。ところが現実は酷く矛盾している。貧困者同士が奪い合う。昨夜、ウィジェーヌとの約束の場所に戻ったところ、彼は随分遅れて姿を現した。別に待ち呆けになろうが構わなかったのだ。少年に無理を頼んだのは自分であったし、それでも少年を信じたのは、自分の僅かに残った誠意を証明したかったからである。ウィジェーヌは怒っているような泣いているような、微妙な顔でフェリシスを見上げていた。きっと自分のそんな欺瞞を見抜かれていたのだと思う。少年の顔には、真新しい殴られた痣が浮いていた。
言付けられた住所は高級住宅街の一角であるが、門口には身なりの賤しい男たちがたむろしている。煙草の煙がもやがかり、落ち窪んだ目がこちらを興味無さげに睨め付ける。重厚な扉を押し開けて顔を出したのは、ウィジェーヌよりも少し年上に見える少年だった。大人びて骨格は大きく、埃っぽいチャーコールの髪にぎらついた視線をしている。
「旦那、フェリシスかい?」
まだ点されていない門灯の影で所在無げに立ち竦んでいたフェリシスを見とめると、少年は顎をしゃくった。促されるまま、門の隙間から滑り込む。ホールウェイは広いが薄暗く、ヤニ臭い。奥の部屋から嬌声が響いてくる。フェリシスは、振り向きもせず前を歩く少年の、アンバランスに筋肉が付いた背中を曖昧に眺め、後に続く。彼がウィジェーヌを殴ったのだろう、そんな気がした。子供には子供の階級が存在する。言っていたように、同業仲間でパリのそれぞれの地区を担当しているのだ。元締めがいるということであり、アンブロワーズの一番近くに仕えるこの少年が、子供たちのリーダーなのだろう。
「君の名前を訊いてもいいか」
近付いてくる喧騒に負けじと、フェリシスは若干声を張り上げて尋ねた。少年は胡乱げに振り向く。灰色の瞳が暗がりで爛々と輝いている。
「ブンヤに教えるような馬鹿な真似するか。ウィジェーヌにも、これ以上近付くな」
「記事にはしない。君たちの力が必要だし、君たちの力になりたい」
少年は鼻先で笑ったようだった。年若いはずの口元に、歪んだ笑い皺が寄る。薄汚れた白い綿のシャツに、吊を掛けたズボン。袖から覗いた前腕は筋張っていて、刺青が浮いているようだった。騒音が最もかまびすしい大広間前で立ち止まると、扉を開け放つ。少年に意識を取られていたフェリシスは、シャンデリアに目が眩みそうになり、遅れて眼前に広がった乱痴気に呼吸も忘れて後ずさった。
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