火約

田辺すみ

第一章 青の舌

一、

燃やせ 燃やせ 燃やせ 全て燃えてしまえ



 風が出てきた。藍闇にランプの火が揺れ、頭上の洗濯物がばたばたと鳴る。摩耗した石畳に影がぐるりと回る。フェリシスは安酒と、先刻まで同僚たちが振るっていた弁舌に悪酔いしたような気持ちになって歩を止めた。


今こそ武装蜂起だ、武器を以て


 ヴェルサイユは国民議会を解体するために、手段を選ばなくなってきている。ネッケルが罷免されるとなれば、もう人々を止めることはできない。貧困と差別からの解放を求めて、民衆は暴動を起こすだろう。絶対王政は倒されなければならない。ブルボン家も貴族たちもその奢りを償わなければならない。今こそ人民のための人民による政治が実現される時なのだ。深呼吸をすれば悪臭が鼻をつく。一層気持ちが悪くなって、フェリシスは覚束ない足取りでセーヌを目指した。川べりに出れば少しはマシだろう。パリ育ちではないフェリシスにとって、パリの下町は熱気溢れる刺激的なアジトであったが、汚泥とその悪臭に慣れることは難しかった。


 フェリシスの父は裕福な貿易商、母は地方の小貴族から嫁してきた。大学を卒業し、記者を目指してパリにやってきたフェリシスにとって、己れの出自は呪わしいものだった。貴族の血を引き、この国を腐敗せしめた旧態の支配層に属することは、恥辱以外なにものでもなかった。またラファイエットやラメットのように軍を率いた経験も無く、ブリッソーやコンドルセのような学問の分野での実績も無く、弁論も冴えなければ、ミラボーやダントンのようなカリスマなども無い、己れの凡庸さを自覚していたため、その引け目とも鬱屈とも言えないものに、常に苛まれていた。


武器ならは廃兵院(アンヴァリット)に有る


 日がな一日議員たちの動向を追い回し、街角の些細な言い争いを煽るような記事を書いては、夜は酒場で半分以上愚痴のような、または卑猥な議論を闘わす同僚たちにもうんざりしていた。記者であるからには、人民の擁護者であり、中立公平な論調を規範とすべきではないのか。歪んだ煉瓦に足を取られながら進むフェリシスに、路地裏から娼婦たちが喉が潰れた甘ったるい声を掛けてくる。


問題は火薬だ。王は火薬を買い占めて、バスティーユに貯蔵している


 バスティーユは難攻不落の要塞であり、今は政治犯を収容する監獄となっている。武器を手に入れても、火薬が無ければ無用の長物である。火薬か、と息を詰めて早足で進みながらフェリシスは考える。俺の下手な文章なぞ書くより、火薬を手配できれば、その方が余程革命遂行に貢献できるのではないか。実家の金なら使っても構わないだろう、ブルジョワどもが貯めた金だし、どうせ将来自分のものになるのだ。フェリシスは自分の恵まれた立場を知っており、それを利用することで、罪悪感と責任を回避しようとしていた。自分自身には何も無いのか、と自嘲めいたものが込み上げる。


「旦那さま、ご慈悲を」


 疲れを拭いきれない、しなだれた声が呼び止めた。フェリシスは鳴るような頭痛で顔を顰めたまま振り向く。道端から、染み付いたような暗色のドレスの女が手招きした。白粉と香水が混じったすえた匂いが鼻先を掠める。顔は乱れ落ちた前髪に隠されてよく見えなかったが、年齢よりも引き締まった胸元がフェリシスの注意を引いた。長身に緩く巻いた青銅の髪、青い瞳、育ちの良さが一目で分かるフェリシスは、一概に言って女性には魅力的であるらしい。本人もそれなりに人肌を好むのだが、何分故郷の初恋相手との別離を今だに引きずっており、とても娼婦を買う気にはなれなかった。


「そのムッシューは記者だぜ。有ること無いこと書かれたくなかったら、止めときなァ」


 フェリシスが不快感に噛み締めた奥歯から言葉を発する前に、女の傍らで一回り小さな影が動いた。パリの街角ではどこでも目にする浮浪児だ。煤汚れた大人用のシャツを被り、腰紐でズボンを括り、底の抜けかけた靴を突っ掛けている。に、と笑った口元はすっぱだ。


「俺のことを知っているのか」

「酒場でたむろってる奴らなら大体知ってるよ。オレは“これ“が仕事だからさ」


 結いた小袋を取り出し、目の前で振って見せる。旦那もどう?ふわりと、父の書斎で親しんだ香が漂ってきた。


「煙草か」

「おうよ、品質保証とは言わねェけど、安くしとくぜ」


 空気が漏れたような笑い声を立てるのは、欠けた歯のせいかもしれないし、何か病気を持っているのかもしれなかった。女は客を取られて悪態を吐き、子供の頭を小突いてまた、ふらふらと河岸を変えるつもりなのか行ってしまった。虚ろな目は恐らく何かの中毒症状だ。珍しいことでもないが、フェリシスはやりきれない気持ちになる。


「お前、パリ中に客がいるのか」

「へへ、流石にオレ一人じゃ無理さ。同業仲間がいるんだ」


 ふん、とフェリシスは回らない頭で考える。先刻同僚たちが噂話のように言っていた。


パリで、火薬の裏売買を牛耳っている奴がいる


「煙草は要らん。だが、お前、“火薬売りのクロード“を知っているか」


 ざわり、と路地裏やアパルトマンの物陰の澱んだ気配が動いた。少年の落ち窪んだ大きな目が見開く。汚れた指先がかたかたと微かに震え出す。生唾を飲んで、フェリシスを見上げた。


「なんで」

「会って話がしてみたい。知っているなら、仲介を頼みたい。金は出す」

「止めときなってェ、興味本位だったらセーヌに沈められるぜ」


 少年の、元は麦穂色だったのだろう垢でべたついたような髪を、フェリシスは撫ぜた。子供にしてやれることは、このくらいしか知らなかった。パリの浮浪児たちは、地方からやってきた坊々よりも、余程この界隈に詳しいだろうから、目の前の少年が恐れをなすというのなら、近づかない方が良いのかもしれない。だが。


「お前が嫌なら別を当たる。記事にするためではない。火薬を買いたい。もうすぐパリは戦場になる」


 フェリシスの手を頭から引き剥がし、少年はしげしげと見つめた。パリで暴動が起こることについては、何の感傷も無いようだった。手を好き勝手されたまま、子供は分からない、とフェリシスは心中溜息を吐く。父母は紳士淑女だったが、子供の養育は乳母と家庭教師に任せきりだった。フェリシスには姉と弟がいるのだが、要領良く勝気な二人よりも内向的なフェリシスは、街の子供たちからも倦厭されがちだった。


「オレたちにとっちゃ、あんま変わんないだよ」


 眉根を微妙に顰め、少年は俯いたまま呟く。パリがどうなったって、国がどうなったって、オレたちに居場所なんてもともと無いんだ。フェリシスは言葉に詰まった。そんなことはない、俺が守ってみせる、と言えれば格好が付くのだろうが、それだけの決断力も甲斐性も自分にはないことは、嫌と言うほど知っている。大義のための自己犠牲なら、役に立てるかもしれないが、一人を幸せにする自信も実力も無い。滑稽である。


「余計なことを言ったな、忘れてくれていい」

「なんであんたがそんな情けない顔すんだよ。クロードに会いたいんならまず、“ヴィペール(毒蛇)“のアンブロワーズに話を通さなきゃ駄目だ」

「アンブロワーズだと?」


 “ヴィペール(毒蛇)“のアンブロワーズは、娼婦街の顔役だ。女も売る、子供も売る、土地も売る、怪しげな薬も、盗品も質流し品も売る。パリの闇経済の首魁である。フェリシスは何度もその名を記事に書いたが、本人に直接会ったことはなかった。視線を険しくしてその名を歯噛みするフェリシスに、少年は大人びた溜め息を吐いた。


「アンブロワーズの屋敷に手引きならしてやれると思うけど、それから先は知らねェよ」


 フェリシスの手をどこか名残惜しそうに離し、少年はじゃあ、と踵を返して路地裏の暗がりに消えていく。明後日、同じ時間にここで。頼りなげな声が闇から漏れてくる。


「俺はフェリシスだ、お前の名前は」


 フェリシスは我に還り、影に踏み込んで尋ねる。気配はもうその他大勢に紛れかけていたが、ぼんやりとした子供の声が耳に届いた。ウィジェーヌ。ざわめくような生暖かい風が耳朶を撫ぜて、フェリシスはぞわりと冷や汗を浮かせた。

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