第3話
結局その日は朝まで一睡も出来なかった。
8時になって次の24時間警備員の福山が出勤してきた。
着くなり、警備員にあてがわれている一番上の引き出しから太田胃散を出すと一匙口に含んで、キッチンコーナーに駆け込む。これは、夜勤明けと同時にアニメを見ながら次の出勤まで酒を飲むという生活をしているので二日酔いなのであった。
「福ちゃん、着替えたら見せたいものがあるから来て」
「んー」と寝ぼけた顔でこっちを見ながら、福山は、フロント側のドアから出て行った。ラウンジから裏口に続く廊下の途中に半地下のボイラー室があって、そこが警備員の更衣室になっていた。といっても、プラの収納ボックスが一個ずつあるだけだが。
福山が、警備服風作業着に着替えてくると、小川は彼を連れて玄関側の鉄扉からポーチに出た。
空模様はところどころ青空が透けて見えるものの全体としては雨雲に覆われていた。
「もう梅雨だな」と小川。
「うん」
左に旋回して、ゴミ箱置き場と自走式駐車場の入り口のシャッターを見やりながら、裏エントランスに通じる通路に入る。10メートル程度、駐輪ラックが設置してあって、その先は駐車場の壁面が露出していた。壁面緑化の効果は全く不十分で、砂漠でも枯れない草は、あちこちぼぞぼぞと生えている程度だった。壁面には足場が組んであって、下部には赤いカラーコーンとトラ柄のバーがあって、立ち入り禁止になっている。
「福ちゃん、ここ絶対に入らないでよ。一回倒壊して作業員がケガしているから。又何時崩れてくるか分からないからね」
「うん」
「分かったのかよ」
「分かったよ。でも、居住者は大丈夫なの?」
「だから、このトラ柄のバーで立ち入り禁止になっているんだよ。まあ、すぐに、あの緑化の草が撤去になって、足場もなくなるけれどもな」
「あの草なくなるんだ」
「ああ」
「じゃあもう水やりは無くなるね」
「ああ、仕事が減っていいや。しかしその前に」と言うと小川は足場に手をかけた。ぐらついて、カンカンと鉄パイプのぶつかる音が聞こえてくる。「俺が、足場の下敷きになって死ぬかもな」
「何で?」
「俺、死んでもいいやと思ってんだよ。お前、そう思う事ない?」
「ある訳ないじゃん」
「俺は時々思うよ。殉職するのは恰好いいとか。ずーっと「太陽にほえろ!」のマカロニの殉職の回を見ていたけど、夕べナルソックがきて思ったんだけど、オムニ社のロボコップみたいに、こういう鉄骨の下敷きになって死ぬのも恰好いいかなあと思って。つーか「ロボコップ」に似たシーンがあるんだよ」
「止めてくれよ。やるんだったら、俺のいない時にやってくれよ」
「まぁ、お前には迷惑かけないから」
管理室に帰ると、コンシェルジュの石松が3人前コーヒーを入れていた。福山のと小川のと自分のと。
主任管理員のは入れてあげない。意地悪からか。それとも、そもそもコーヒーなんて自分で勝手に入れるものだから、たまたま福山と小川が居るから一緒に入れただけで、主任管理員のはまだ出勤していないから入れないだけか。
(でも、何で俺にも入れてくれるんだろう。無視している癖に。福山と二人分じゃあ露骨すぎるからか)
石松は、コーヒーをスチールデスクの上に置きながら「おはようございます」とこっちに微笑してきた。
しかしあの微笑は福山にであって自分は無視されている、と小川は思っていた。
(今日こそシカトの動かぬ証拠を掴んでやる)
3人でコーヒーを飲むと、なんとなく世間話をする感じになった。
小川は見えない様に、手で隠しつつ、Apple WatchのボイスメモAppを開いてボタンをタップした。
「だんだん梅雨っぽくなってきたけれども、洗濯とかどうしてます?」と小川。
「福山さんは、洗濯、どうしているの?」と石松。
「部屋干しだな」
「IKKOが「おったまげー」とか言っているのが凄いらしいよ。でも梅雨なんてすぐ終わるよ。すぐに夏本番だよ。石松さん、サーフィンとか行くの?」
「福山さんは、オタクの夏休みは?」
「夏はコミケだよ」
「コミケに似ているけれども、レインボープライドっていうLGBTのイベントがあって、もうすぐ終わるって、ニュースでやっていた」と小川。
「「マツコの知らない世界」で、オタクが経済支えてるって言っていたわよ。「らき☆すた」の聖地巡礼で経済効果30億円とか」と石松。
「でも、オタクが聖地に殺到するのって、ウザいって言われているんだよね」と福山。
「旅行だって、LGBTの市場規模は20兆円とか言われているんだよね。LGBTにフレンドリーになれば、LGBTインバウンドが増えるよ」と小川。
「アキバのオタクツアーのインバウンドがすごいんですってね」と石松。
「あんまりグローバル化されても荒らされちゃうよ」と福山。
「そんな事ないよ。サンフランシスコみたいにオープンになればいいんだよ。あそここそLGBTの聖地だからなあ。♪夏には愛の集いがあるでしょう…」
「夏になったら、コミケだものね。コミケに行く人って、みんな単身者なの? 家族連れもいるの?」
「コミケなんてみんな独り者だよ」
「最近、Eテレの「バリバラ」でLGBTが好きな人と好きな場所で暮らしたいとかやっていたけれども、そういう系の番組が多いよ」と小川。
「福山さんは家族はいらないの? 生涯未婚だと67歳で死んじゃうんだよ。やっぱちゃんと家族をもった方がいいんじゃないの? 今度紹介してあげようか。ねえ、どう? その気ない?」
ここまで話したところで、主任管理員の蛯原が登場した。
真っ黒に日焼けしていて、肝臓でも悪いんじゃないかと思えるぐらいだ。
髪の毛がイノシシ並に濃くて、自分でカットするから、毛足が豚毛歯ブラシみたいになっている。
Yシャツのボタンを3つぐらい外して、ネクタイをぶら下げて、ニットのベストを全開にして、開店前のスナックのマスターみたいないでたち。
まずデスクにスマホとタバコを置く。俺の領土、みたいに。
石松と福山は監視カメラのモニタの下へ、小川はフロントへ、と、蜘蛛の子を散らす様に離れて行った。
蛯原は、キッチンコーナーでインスタントコーヒーを入れると持ってきて、タバコの横にどんと置いた。
(こぼさないかなあ)と小川は思った。(こぼせばいいのに。そうすればPCの裏から吸い込んでおシャカになる)
蛯原はスチールデスクに半けつを乗せると、ばさっと新聞を広げた。
(ありゃ何気取りだ)カウンターから眺めつつ小川は思う。(デカ部屋の刑事コジャックみたいな積もり? しかもタンソクだからつま先しか床に付いていないし)
「早く引き継ぎ、やってよ」と福山。
「じゃ、やっちゃいましょう」ネクタイを締めながら蛯原が集合を掛ける。
「おはようございます」と蛯原。「じゃあ、まず、コンシェルジュの石松さん、何かありますか」
「何もありませーん」
「じゃあ、警備員の小川さんは」
「何もありませーん」
「じゃあ、私の方から。まず大ニュース。本通リビングのフロントから連絡があって、管理会社が変わるかも知れないって」
「えっ。じゃあ俺らは」と福山
「まあまあ、経緯から聞いて。
管理組合に山田というマンション管理士が入り込んでいたろう。
あれが、管理会社を変えれば管理費が70%に抑えられるから、かわりに節約できた分の1年分の半分をよこせ、という提案をしていて、それを管理組合がのんだらしいんだよね。
それで、多分、本通リビングから四菱地所コミュニティというところに変わるらしい。
もっとも、四菱地所コミュニティだって正社員に管理員やコンシェルジュをやらせる訳じゃないので、どうせ派遣社員を採用するなら、今の主任管理員とコンシェルジュ、私と石松さんを採用するかも、っていう話です」
「警備員は?」と福山。
「それが、四菱地所コミュニティは西武系の警備会社を使っているっていうんだよねえ。だから、四菱地所コミュニティの口利きで、その西武系の警備会社のパートにでもなれれば、警備員も雇ってもらえるかも」
「ずりーな。管理員とコンシェルジュだけスライドして、警備員はお払い箱かよ」と福山。
「だから、警備員もスライドして採用されるかも、って」
「どうだか」
「とにかく、近々連絡があるって言っていたよ」
「ふん。又交通整理のバイトかなあ。あれ、夏場にやるとゴキブリみたいに焼けちゃうんだよなあ」
小川がボイラー室に着替えに行くと、これから1回目の定期巡回に行く福山もついてきた。
「やっぱり、石松はシカトこいていたな。今日は動かぬ証拠をつかんだから、お前にも聞かせてやるよ」
左腕を付き出してApple Watchを袖から露出させると、ボイスメモAppを操作して再生する。
「「だんだん梅雨っぽくなってきたけれども、洗濯とかどうしてます?」と俺が問いかけているだろう。だけれども無視してお前に、
「福山さんは、洗濯、どうしているの?」と聞く。
「IKKOが「おったまげー」とか言っているのが凄いらしいよ。でも梅雨なんてすぐ終わるよ。すぐに夏本番だよ。石松さん、サーフィンとか行くの?」
「福山さんは、オタクの夏休みは?」
な。俺が石松に問いかけているのに、シカトして、お前に話しかけているだろう」
「そんなの偶然だよ」
「偶然じゃない。」
更に再生。
「「サンフランシスコみたいにオープンになればいいんだよ。あそここそLGBTの聖地だからなあ。♪夏には愛の集いがあるでしょう…」
「夏になったら、コミケだものね。コミケに行く人って、みんな単身者なの? 家族連れもいるの?」
ほらな、俺が石松に問いかけているのにシカトしてお前に言うだろう」
「それはお前が、LGBTとか言うからだよ。そんなのセクハラだよ」
「あー、俺、LGBTになっちゃおうかなあ。そうすれば、職場での人間関係も、性的マイノリティの悩みであって、オスの悩みじゃないから、女々しくはない感じにならない?」
「へぇ?」
「お前、西武系の警備会社の話はどうするんだ」
「俺は、西武になるなら行くよ。ナルソックに威張れるかも知れないじゃない」
「俺は嫌だね。高校の時に居たんだよ、西武なんとか台に住んでいて、親が西武線で西武の会社に通っていて、買い物は西武で、野球も西武、休日の行楽は西武園、みたいなやつ。何でそこまで社畜にならないといけないのかって思っていたけど。
俺は実家が西武ひばりヶ丘だから、そんなのが多くてね。
あー、俺、警察官になればよかったな。桜田門なら西武より格上だろう?」
「分からないよ。でも、山口県の方には民間委託の刑務所もあるっていうし、その内ナルソックとかが警察を兼ねるんじゃないの? オムニ社みたいに」
「自衛隊はどうなんだよ。ワグネルとかになるんじゃないの」
「もう除隊したし」
「自衛隊にはLGBTっているのかよ」
「いないよ」
「韓国の軍隊でトランスジェンダーが自殺したよな。あれは可愛そうだと思ったよ。泣きながら記者会見する彼女を見て。それで思ったんだけど、ナショナリズムよりもLGBTの連帯の方が優先されるんだなーって。普段嫌韓、ネトウヨでも、LGBTなら連帯出来るんだよ。つまり、トラニーになれば、もう、石松は勿論、西武とも戦わなくていいってことだ。だって韓国と戦わなくていいんだから」
「トラニー?」
「お前、トラニーって知らないの?。女より可愛いんだぜ」
小川はスマホ取り出すと、porntubeで、Ellahollywood(エラハリウッド)の動画を見せてやった。
「すげーだろう。上半身はエマワトソン、そして下半身には白っぽいペニスが生えていて、いいと思わない?」
「…」
「お前には無理かもな。自衛隊員だものな。
あー。いっそのこと、女性ホルモンを飲むかな。トラニーになればもう戦わなくていいから。
でも、これトラニーに言うとすげー怒るんだよな。ホルモンを遊びに使うなって」
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