第6話 ちょっとだけ
人狼たちが林の奥へと消えていくのを見送った後。
吸血鬼が、突然私にぱあっと晴れやかな笑顔を見せた。
「……で、ヒト! 約束だ、それを味わせろ!」
まあヒトなんだけど、もうちょっと言い方があるよね? 小町っていう美少女に相応しい名前があるんですけど。そう苛つきながらも、約束だし、それにやっぱりとんでもなく美形なこともあって、私はこくりと小さくだけど頷いて応える。
「吸うのはなしだからね」
近づきざまガブリとやられたら、人狼すら敵わなかった馬鹿力の持ち主だ。私なんかひとたまりもない。いくら美形とはいえ、食べられたくはなかった。
吸血鬼の瞳が、爛々と輝き始める。
「おう。さっきので腹は膨れたから、お前は食後のデザートだな!」
人食はあまりしない種族といっても、やっぱりヒトが食糧なことに違いはないみたいだ。
吸血鬼が、私の二の腕を大きな手で掴んだ。石をぶつけられてじんじん痛む右肩を食い入る様に見つめながら、薄い唇の隙間から赤い舌を出す。――え。
「ちょ、指に取るとかじゃないの? 痛いのは嫌なんだけど」
まさか、傷口に直接舌を付けるつもり? ばい菌が心配だし、それに絶対痛い。
身を捩って逃げる仕草を見て、吸血鬼は私の顔のすぐ横で薄く笑った。……近い、近いってば。
「ヒトは痛いのが苦手か? でも大丈夫だぞ。吸血鬼の唾液には、鎮痛作用があるからな」
「へ? そうなの?」
「だって、痛くて暴れられたら静かに食事が出来ないだろ」
そんなことも知らないのかよ、と常識知らずみたいな言い方をされたけど、知らないって。
「傷の治りも早くなるんだぞ。傷がすぐに塞がらないと、餌の保存が利かないからな」
やっぱり私は食糧か。正直イラッとしたけど、こいつの言葉が本当なら、痛みの軽減は有難い。
「いいからもう黙ってろ」
超絶美形にそんなことを言われたら、私だってうら若き乙女のひとり。思わず心臓がドキドキしちゃうのは、仕方ない。まあ、相手は亜人はだからそういうのはないんだけど。ない! 決してない!
吸血鬼の舌が、肩から二の腕に垂れていた血を、れーっと下から舐め始める。ひやああ! と心の中で叫んだ。
ザラザラしてるかなと思ったら、物凄く柔らかくて滑らかで、焦る。
舌が少しずつ上に移動していって、いよいよ傷口に到達した。
「――っ!」
痛みは減るとは言われたけど、どうせすぐじゃないだろうし、とある程度の痛みを覚悟していた私は、咄嗟に目を瞑る。
「何だこれ……あっまい……!」
舌が触れた部分が、じんわりと温かく少し痺れた様に感じ始めた。恐れていた痛みは、殆ど感じない。吸血鬼の温かい舌が、傷をほじくる様にぐりぐりと押し込んでいく。
「くう……っ!」
これは恥ずかしい。それによく考えたらとんでもない絵面だけど、相手は亜人とはいえ美形なのでまあ今回は許す。一応、命の恩人だし。
「やばいぞこれ……! ヒトって皆こんなに甘いのか?」
しばらくの間人の肩を舐め続けていた吸血鬼が、色気たっぷりの切なそうな声色で尋ねてきたので、瞑っていた瞼を開いた。
「……っ」
すぐ目の前には、余程私の血が美味しかったのか、顔を妖しく上気させている吸血鬼のアップの顔がある。
「こんな美味いの、初めてだ」
「そ、そう……? そりゃあよかった……」
ヒトの匂いは、亜人の食欲を促すらしい。そう授業で習ったけど、正直眉唾だった。でも、この感じを見ると本当らしい。
「もっと欲しい……っ」
吸血鬼の目が、鮮やかな黄金色に輝き始める。目が若干イッちゃってる気がする。これ、ヤバいよね?
「ちょっとだけ。吸わせて?」
小首を傾げて可愛らしくおねだりされても、駄目に決まってる。滅茶苦茶目の保養だけど、でも駄目。ということで、私は即座に断った。
「いや、吸わないって約束したでしょ」
「ちょっとだけ。殺さないから」
吸血鬼はしつこかった。懇願する様な目で見ないでってば。間違って「いいよ」とか言いそうになっちゃうじゃない。
「……無理。駄目。ないない」
「やだ。ちょっとだけ……」
吸血鬼が、駄目と言っているのに私の首筋に顔を近付けていった。頸動脈の辺りに鼻を近付ける。
「ここ……滅茶苦茶いい匂いするぞ……っ」
と怪しい薬でも飲んだみたいな顔で、熱い息を私の鎖骨に吹きかけた。とんでもない所に息が掛かって、ぞわわっと全身に鳥肌が立つ。
「堪んねえ……っ」
こいつ、人の話を聞かないタイプだ。
これまでの言動からも何となくそうかなーと思っていたけど、この様子からして恐らく間違いない。私は、ゆっくりと痛みがなくなった右手をホルスターへと伸ばした。
「ちょっとだけ。うはあ……っ」
男の牙の先端が、私の首に触れる。
「いただきま……」
「させるわけないでしょ!」
シュッ!
ホルスターから抜き取った小さなスプレーボトルから、透明の液体を噴射させた。それを顔面にモロに受けた吸血鬼は、「ぶへえええっ!」と情けない泣き声を上げて、私の足許に倒れ転げ回ったのだった。
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