【リハビリ】そのフェンリルは哭かない① 府中、秋、日常との別れ【プロローグ】 

 ハナ差。


 10cmにも満たない先着の差で、競走馬達とそれらを取り巻く様々な運命が一変することもある。


 例えば1着、2着、3着を当てる3連単。


 予想外に荒れて人気薄の馬が入ってくると、100円が何百万円という大金になって戻ってくることも有り得るのだ。


 だが、そんな偶然に出会う確率は極めて低く、ほとんどの人は願いもむなしく、定められた通りの未来を歩き続けている。



「くあー……、サトミエルドラン、あと少し残せていれば……。惜しかったなあ」



 端末に表示された勝ち馬投票券の着順と電光掲示板に点灯した着順を交互に見ながらため息をつく青年、前川健人よこかわけんともその一人だ。


 大学二回生になる彼は、土、日は専ら朝からレースを眺め、たまに細々とけるのがライフスタイルであった。



「しゃあない。大学行くかあ」



 土曜は講義こそ行われていないのだが、後期から急激に多忙になるのに備えて学科のメンバーで事前に予習をしておくことになっていた。


 駐輪場に行こうと西門から出ようとすると、一人の男から声を掛けられる。



「坊ちゃん、今日はもうお終いですか」


「ああ、ヨシさん。大学の集まりがあるんだ」


「へえ、そうですかい。……そういえば、お兄ちゃんは今日も勝ってますねえ」


「……ああ、凄いよ。は」



 第2レースと第4レース。


 一人の若きジョッキーを乗せた馬は、ゴール前を先頭で駆けていった。


 突然行方不明となった父の忘れ形見、ジョッキー界の最高傑作。


 それが、自分の腹違いの兄、前川雅人まえかわまさとである。


 その存在は、彼にとっては、絶対に越えられない壁そのものだ。


 だからこそ、どうしてもそこからは賭けまいと外していたのだが、当然、結果は見ての通り。うまくいくはずもない。



 ――どうしようもないなあ。



 芳三よしぞうに軽く手であいさつし、逃げるように駐輪場スペースに着いた健人は、愛車にまたがり大学への小道を進んでいく。


 しばらく進んでいくと、



「あれ」



 いつも通る大学までの道が、通行止めになっていた。


 少し先にはクレーンのついた中型のトラックが止まっており、自販機を吊り上げて乗せようとしている。


 自転車から降り、少しの間、その作業を見ていると、



「おにーさん。ここ通りたいですか?」

「うわっ?!」



 人気のなかったところから急に声をかけられたので、健人は驚いてそちらの方を見る。


 と、そこに居たのは、青の作業服を着た小柄な少女だった。


 目深に被った青のキャップから綺麗な金髪が零れ落ちていて、なんとも言えない不釣り合いな雰囲気をかもし出していた。



「通りたいですか?」

「ああ、うん……。近道だし」

「ふぅん。……ふふふ。では、どうぞ」



 少女に誘導され、自転車を手で押しながら先に進む。


 そこは、いつもと変わらない場所だ。


 マンションが左手にあり、そのすぐ手前に、どうやら今取り換えられたのだろう、新品の自販機が妙な重量感をもって鎮座ちんざしている。


 ちょうどその前に来たので、目新しい商品がないか確認する。


 その様子を、隣にいる少女はニコニコしながら見守っていたが、不意に健人に尋ねる。



「ところで、貴方にはこの自動販売機が見えるんですか?」

「え? もちろん見えるけど、どうして」

「……見えない人がほとんどだからです。なぜならば」



 目の前の自販機が音を立てずに”開かれていく”。


 そこからあふれ出た光が、あたり一面を白く染め上げていく。


 健人はあまりのまぶしさに目を閉じ、しばらくしてゆっくりと目を開くと。



「嘘だろ……」



 そこにあったのは、現代とは全く様相の違う、まるで西洋のどこかにあるような、美しい街並みだった。

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