【頭出し】海遣いのアレルヤ 昼下がり、ジェノヴァにて【プロローグ】

 1588年9月下旬げじゅん――。


 西地中海最大の港として名をせる昼下がりのジェノヴァは、普段通りの喧騒けんそうと活気に満ちている。


 船荷ふなにを待ち構える人夫達は入港待ちの帆船はんせんやガレー船をながめ、気持ちのはやる商人達は入荷を待たず、契約を結び始めている。


 そんな中、荷下ろし中のキャラック船からひときわ大きな怒声が上がる。


 帽子ぼうし目深まぶかかぶり少年の服装をした小柄な影が、桟橋さんばしを勢いよく駆け抜けていき、それを数人の男達があわてた様子で追いかけている。


「このクソガキ! 待てや、このっ!」


 この国際色豊かな港町で、それは日常茶飯事にちじょうさはんじの出来事だった。

 スリや食い逃げなど、人によって理由は様々さまざまであるが、追いかける男達の焼けた肌とたくましい肉体を見れば、船から下りて逃げる者の罪状ざいじょうおのずと分かる。


「タダで船を乗ろうなんてのはぜってぇ許さねえからな! 大人しく捕まれ!」


 ——すなわち、密航者である。


 小柄な密航者は思いのほか足が速く、一方の筋骨隆々きんこつりゅうりゅうとした海の男達は、直前の航海で強い酒でもあおっていたためか、足元がおぼつかない。


 そのせいか、すぐ手が届くというところでうまくかわされたり、街の入り組んだ勾配こうばいのある細い路地をうまく駆け回り、時折、道端に置かれているたるを倒して転がされたりで、なかなか捕まえられずにいた。


 とはいえ、多勢に無勢。


 所詮しょせんは大人と子供である。


 走るうちにいもめてきた男達により囲まれ、逃げ場を失った密航者は、リーダー格と思われるいたんでほつれた短い黒髪に黒ひげを豊かにたくわえた、まるで剣闘士けんとうしのような図体ずうたいをした大男にあっさりと抱え上げられる。


「ふう、手間取てまどらせやがって、ん? ……小僧こぞう、おめぇ」

「離してくだ……、離せよっ!」

「ふーむ。ま、とりあえず話は商館で聞こうか。申し開きはあねさんにしな」


 そう言って大男は両腕でやや丁寧ていねいに抱え上げ直し、肩に乗せる。


 密航者はじたばたと手足をばたつかせ暴れるが、上手く関節を押さえられているためかびくともせず、船乗り一行はそのまま港の近くから、オレンジ色の屋根をした豪奢ごうしゃ美麗びれいな建物が立ち並ぶ一角へ悠然ゆうぜんとした足取りで歩いていく。


 野次馬やじうまとしてその一部始終を眺めていた街の人々も、何事も無かったかのように普段の仕事に戻っていく。


 そう、何度も言うように、この街ではさしてめずらしいことではない。


 よく見慣れた日常風景の一幕でしかなかった。

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