第3話


 書斎の本棚を調べていると、本の後ろに隠れて大学ノートの日記帳が数十冊出てきた。小学生の夏休みの絵日記が一冊、中学、高校の日記が合計六冊含まれていた。開いてを読むと、中学二年生の夏休みまでは、すべて私の記憶している内容と同じだったが、夏休み明けの日記は、私が付けていた内容と変化し始めていた。

「九月〇〇日 日曜日 快晴

 関西から転校生してきた黒田から『家が近くやし、一緒に勉強せえへんか』と誘われた。今日は山川の草野球チームの一員として、へたくそながらもライトの守備を任されているのでそこに行った。黒田は面白いやつだけど、押しつけがましいので苦手だ。野球の結果は残念にも、自分の三度のエラーで惨敗した」と書かれている。

 記憶を遡ると、私は黒田に誘われて、勉強だけではなく「ミドリガメを飼ってるのやけどな。カメが動いてるとこ、見たらおもろいで。こんな風になあ、ククッと首を引っ込めるねん」と身振り手振りで説明され、山川に誘われた野球の方をすっぽかしたのを覚えている。

 中学時代の黒田は、いつも関西弁で照れながら話していた。これを契機にして、黒田と競うように猛勉強をして、高校は有名進学校に合格したのを思い出した。

 翌日の日記の内容は凄まじい。

「九月〇〇日 月曜日 雨

 昨日の野球の試合で、自分の三度のエラーが原因で負けた。しかも、全打席で三振するというふがいない結果だ。学校に行くのが恥ずかしく、恐ろしい感じがした。けれども、母親に背中を押されしぶしぶ登校した。俺の失態はクラスの全員が知っていた。

 教室にいると、クラスメイトが自分の方をジロジロ見る。廊下を歩いていると、後ろの生徒がクスクス笑うので、トイレの鏡で背中を見てみたら『三振王、失策王の二冠を達成したのはこいつです』と書いた紙が貼り付けられていた。

 今まで仲良くしていた連中では、転校生の黒田以外の全員が俺を無視する。中には『あんな、馬鹿と友達とは思われたくない』と、俺に聞こえるように話す奴までいる。

『たった一日の草野球の試合で負けたからって、偉そうにするなよ』と反論すると、体の大きい四番バッターの山川が俺の胸倉をつかみ『俺に恥をかかせる気か? お前がエラーしなければ、勝てた試合だし、俺のホームランが帳消しになった』と殴ろうとした。

 近くの席の女子生徒に非難されたので、山川は俺を殴らなかった。あいつは『もう、お前とは絶交だ。チームから永久追放する』と断言した」

「十二月〇〇日 金曜日 曇り

 最近、学校に行くのがおっくうになった。九月以来、ずる休みを数回した。両親が『せめて、中学の授業をちゃんと受けて、高校に進学してくれ』と諭されて、地獄のような学校にも、しぶしぶ登校している。黒田は相変わらずいいやつだ。あいつは『小さい事、気にせんと、一緒に勉強せえへんか?』としょっちゅう話しかけてくる。でも、そんな気がしない」

 恐る恐る高校入学のときの日記帳を開いた。すると、都内の工業高校へ進学した動向が記述されていた。しかも、読み進めて分かったが、大学へは進学していなかった。職も転々と変えながら、苦労の毎日を送ってきた状況が読み取れる。

 私の脳裏には、大学時代のキャンパスの様子や淡い恋愛の思い出、夢中で読んだ小説や映画の内容まで、鮮明に存在していた。お世話になった教授や、ゼミで意見交換した仲間の様子も、昨日の出来事のように思い出せる。

 しかし、部屋の中を探したところ、高校生時代から後のものはすべて、記憶の世界とは違っていた。

 高校の卒業アルバムに映る生徒も、見覚えのない顔ばかりだ。目を凝らして、よく見直すと中学時代の同級生が三人いる。いずれも、出来の悪い生徒ばかりだ。中学生のころは、三人が次元の違うところにいるボンクラに思えたので、そばに近寄らないようにしていた。

 私の娘は驚くべきことに、私の記憶していた国立大学をまったく同じ年度に入学し、無事に卒業もしていた。国が教育費への分厚い保障をまだ始めていない時期に、記憶の中の豊かな私も、現実の私も家族のために同じ目標に向かって努力していた。

 私には、こうした日常の出来事で記憶と現実とが一致した場合に、驚きと喜びを感じるほど、こちらの世界が異質なもののように思える。

 私は自分の記憶と現実とのブレをどうすれば修正できるのかと毎日、思案に明け暮れた。

 不安を埋めるために、毎週二日の休みの一日は図書館へ行き、自分の状況を調べるため、本を読み漁った。

 まず、私は自分が多重人格障害ではないかと疑った。図書館のいくつもの資料を読み込むと、多重人格障害は、精神医学では解離性同一性障害という。解離性障害になると、トラウマなどの嫌な記憶や感情が分離する。この段階は内在性解離といって、まだ記憶は途切れていない。そこから、病状が進行すると、記憶が途切れ始め、別人格が登場する。

 さらに、別人格が本来の人格を押しのけて乗っ取る。この病気は、記憶の健忘症状、別人格が顕在化しているのが特徴だ。あくまでも、一般的なケースに当てはめて考えると、私のケースは多重人格によるものではない。

 次に、何者かが意図的に私の記憶をコントロールして、現実とは異質なものを見せているのではないかという疑問だ。図書館でマインドコントロール、催眠術について調べてみた。マインドコントロールとは、禁欲、拷問、薬物使用などで相手にプレッシャーをかけて思想や信条を変化させる。これは、私の現状に当てはまらない。

 では、催眠術はどうか? 心理学では、催眠術は変性意識状態を意味する。これは、日常の表層意識にではなく潜在意識に働きかけて、催眠時の行動を変化させる。私のように記憶が断片的に異なるような暗示は不可能だ。

 さらに、周りを巻き込んだ大仕掛けの陰謀ではないかと考えた。国内最大手の建設会社の社長候補と言われた私を追い落とす動静で得するものは多い。可能性を考えているうちに、体が熱くなり脂汗が出てきた。

 どう考えても辻褄が合わない。家族や周囲の人間が、遭難して傷を負い困惑している一人の男を総がかりで陥れるものなのか?

 これまでの経験してきた様態を振り返ると、人を欺くための装置としてはスケールが大きすぎる。テレビのドッキリ番組と、私の体験を比較したとしても、予算枠の範囲をかなり大きく超えているのが分かる。

 記憶の錯誤だと、一言で片づけるにはあまりにも、現実の自分とのギャップが大きい。何かの心霊現象かとも考えてみた。例えば別人の霊魂が私に憑依し、幻覚を見せている……という状況だ。

 もし、そうなら恐ろしい事実だが、それでも原因の分からないまま途方に暮れているよりは、まだましな感じがした。

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