第2話


 私の記憶では、自宅は東京メトロ丸ノ内線「新宿御苑前駅」から徒歩十分のところにあり、百坪の土地に一軒家を建てて暮らしていた。そこは買い物にも通勤にも便利だからと、家族で相談して建てた記憶が鮮明に残っている。

 しかし、妻の後をついてたどり着いたのは、神田神保町の3DKのアパートの一室だった。そこには、キャロウェイのゴルフクラブセットもなければ、ボーズのミュージックコンポもなかった。

 記憶の中の自宅と比較すると、かなり狭い家だが、私の書斎は六畳の洋室一間を当てられていた。家の中は書斎、寝室、台所、浴室、トイレまで、どの部屋も見覚えがなかった。私はまるで、異星から未知の惑星にやってきた宇宙人のように、家の中を見て回った。

 不思議にも、古い時代のものほど記憶と一致していた。例えば小学生のころの切手収集帳、アルバムの中の写真は、つぶさに調べてみると中学時代までは、寸分も私の頭の中にあるものと違わなかった。

 一方で妻との出会いや、娘の出産の記憶には相違があった。元の世界では、妻とは黒田の妻の紹介で知り合っていた。彼は「俺の嫁さんがさあ。木下にぴったりの友達がいるので、引き合わせたいと言っている」といつものように、はにかみながら私に告げた。それを契機に交際が始まり、結婚へとたどり着いた。

 記憶に反して、目の前の妻の話では、今いる世界では私が見初めてナンパし、両親の反対を押し切って駆け落ち同然に結婚していた。

 私がとぼけた調子で「俺たちのなれそめは、そもそもどんな感じだったかなあ」と尋ねると、妻は少しがっかりしたような表情を見せた後で「あの時のあなたほど、逞しくて素敵な男性はいなかった」と、当時を思い出して赤面した。何日経過しても、記憶と現実とのギャップに驚き、戸惑うばかりだ。

 娘の名前も「茉優」と呼ぶのを間違えて、たびたび「奈緒」と呼んでいた。彼女(茉優)はあきれたように「娘の名前は、ちゃんと呼んでね」と、頬を膨らませた。

       ※

 休日明けに、永倉工務店に出社した。病院に来たメンバー以外は見慣れない顔ばかりだ。社長子息の永倉三郎専務が近づいてきて「ともさん、事故にあったのは不運だったよね。でもな、うちは上司にたてつくような社員はいらないよ。中井部長からは病院の件を聞いているよ」と、皮肉な口調で、後ろを振り返り「だよね、中井君」と同意を促した。

 工務店は総勢二十五名の小さな会社だ。榎本建設工業は従業員数二万人、関連会社百二十社を数えており、二十五名という人数は一つの係にも満たない。榎本の役員と知っただけで、取引先の社員は襟を正し言葉遣いまで変化するほどだ。

 私の記憶の中の世界では、高校・大学の同窓には、医師、弁護士、政治家などの活躍ぶりの目立つ職業人が多かった。

 会社では、私はかなり冷遇されているため、女子社員の視線も厳しく注がれていた。――つまり、私という人間はゼロに近い存在価値で見られているのか?――そう思うと、胸が押しつぶされそうな気持ちになった。自分の席に着いたものの、ノートパソコンのパスワードが分からない。

 隣の席の女子社員に聞くと、面倒くさそうに「本来は、私が教える担当ではないけどね」と、メモに書いたパスワードを手渡された。起動までに時間がかかったものの、パソコンを開いてデスクトップにある書類を確認した。

 予想した通り、取引先企業名や過去に私が書いた業務日誌のすべての内容が不明なため、絶望的な気分になった。営業先との交渉が、どこまで進んでいるのかも確認できない。

 デスクトップには、営業マニュアルがあり部外秘とされている。よほど、熟練した営業マンのすぐれたメソッドが書かれているのかと期待したが、分かり切ったような屁理屈ばかり書かれている。

 しばらくして、事務所の通路を歩いて近づいてきた中井部長は不機嫌そうな表情をつくり、右手の人差し指を二度ほど、クイクイと折り曲げて自分のデスクまで呼び寄せた。中井は「これは、ともさん、あんたへの見舞金だ」と、ポンと茶封筒を机の上に叩きつけた。

 さらに「企業はなあ。ボランティアじゃないからさ。休んだ分だけ、取り戻してもらえないのなら、会社をやめてもらうよ」と、宣言した。見舞金の入った封筒の裏側には、ボールペンの下手くそな文字で三千円と書かれていた。

 私は、感謝の気持ちだけは示そうと「部長、お気遣いありがとうございました」と伝えたが、「それはいいけどな。早く、外回りでもして来いよ。今日中に一件でも成約してくれば、認めてやる。さっき、永倉専務も『ただ飯、食わせるような企業はどこを探してもない』と怒っていた。ともさんも、さあ、成果を出さなければ首筋が冷たくなるよ」と説教してきた。

 私は同僚に対して恐怖や違和感を覚え、社員としての自分の言動にまったく自信を持てなくなった。自分ひとりの困惑と憂鬱と煩悶とを心の奥の小部屋に隠して、無邪気なお人よしを演技し続けよう。そうすることで、孤独と絶望とを乗り越えようと思った。

 私には、事務所にいる時間であろうと、外回りの時間であろうと、終業時刻が来るまでが恐ろしく長く感じられた。事務所のデスク前で、考え事でもしようものなら「ともさん、事務所の片づけを手伝ってくれ」と、すぐさま指示が飛んでくる。

 仕事とはいえ、五十代の私がまるで小僧扱いだ。ある日、中井部長に命じられてデスク周りの吹き掃除をしているとき、「もたもたするな。早く済ませろ」と促され、慌てて、書類を床に落とした。

 一部始終を少し離れて見ていた中井は、私の方を顎で示すと「あの、馬鹿があ」と声を大にして嘲笑った。

 一日中足を棒にして歩いても、成約がとれない日が続いた。そこで、営業日誌をアウトプットして、自宅に持ち帰り読み返す作戦にした。誰にも理解されない時間ほど、人間にとって孤独な時間はない。

 しかし、他ならぬ自分自身だけは、自分の最大にして最高の理解者でなければ、現実は苦悩の連続になる。そう思いながら、なにかヒントになるものがないかと、目を皿にして読み進めた。

 営業日誌を読み直し、得意先リストの有望先のマークを見誤っていた失態に気づいた。◎を有望客、〇を見込み客、△を望み薄、×を没、☆をクレーム客と考えていたのが、判断ミスだった。

 営業日誌によると☆マークは、今すぐにも成約できそうな超有望客で、クレーム客は★マークだとの記述がある。しかも、☆マークの客十二人のうち、成約予定日が明日以降のものが十人いた。

 すでに、先方に出向いていなければならない後の二人も、予定日を三日超過していただけだった。これらの顧客回りから始めれば、直近の一、二か月で解雇されないと確信した。

        ※

 妻は月に一度、駅前の赤ちょうちんに家族で出かけ、店主の話に耳を傾けながら、お酒を飲むのが長年の楽しみだったという。しかも「あなたの希望で、始めたんじゃない」と口をとがらせる。

 赤ちょうちんの居酒屋の主人は「やっと、ご亭主が好きな赤ちょうちんのある、私の店に来てくれましたね。ともさん、うちのおでんが大好きでさあ。毎日でも食べたいと、いつだったか忘れたけど、褒めてくれたねえ。戻って来てくれて嬉しいねえ」と相好を崩して喜んでくれた。

 常連客は「自慢のご亭主だもの。お熱いご様子で」と、楽しそうに笑った。私は多忙を理由にして、家族との外食はあまりなく、二十五年間で家族旅行も、二回だけだ。奮発して、旅先はアメリカ西海岸とフランスに行ったが、旅行中の会話でさえ、上の空の私に対して家族はつまらなそうにしていた。

 というか、間違いない事実だ。違うとすると、私の想起した光景はなんなのか? 思いもむなしく、妻と娘は声を合わせて「海外旅行に関しては、記憶にございません」と、とぼけると顔を見合わせて笑った。

「亭主の好きな赤烏帽子」という言葉がある。「主人が無理難題を命じても、家族はそれに従うべきだ」という意味で、家父長制度があたりまえの時代に語られていた。

 妻は「私がこの人と結婚して良かったと思うのは……。自分の野心のために人を裏切らない誠実さ。家族思いで、人を大事にする温かさ。それと、放ってはおけないような頼りなさも魅力かしら」と、楽しそうな表情をしてくれた。

 会社では冴えない私だが、長年にわたり自治会の役員を務め、地域のボランティア活動にも積極的に取り組んできた様子が分かる。清掃活動や、被災地での災害ボランティア、子供たちを対象にしたレクリエーションにも積極的な様子がうかがえる。失業中でも、日照りの日も、雨の日も関係なく、取り組んでいる。

 さらに、給与所得は些少なものながらも、世界の恵まれない子供のために、月々数千円の募金を継続している。一円の金にも、何の利得にも繋がらない事なら、人は必死になって他人を出し抜こうとしない。

 対立の生じない居場所では、記憶の闇の中のお人よしの私でも、伸び伸びと実力を発揮して、力を尽くして周囲に役立てた様子がよく分かった。

 私は、どこかしら,誇らしい気分になっていた。自己イメージでは、打算的で金にならない事、自分が得をしない事には一切、興味をもたないのが私という人間だと思っていたからだ。それは、人に自慢できるエリート意識でありながら、不善で不徳でみっともない感じのする自画像でもあった。

 記憶の中のもう一つの世界では赤ちょうちんというものはなく、居酒屋では木目模様のちょうちんに赤のれん、大きな店では入口に篝火をところもあるが、ちょうちんに赤い色という発想はなかった。

 居酒屋「勘助」の店内には、現場帰りの作業着姿の男や、サンダル履きの女も酒を飲みに来ていた。彼らの会話はプロ野球、サッカー、相撲などの観戦や、芸能人のゴシップ話で盛り上がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る