Phase 05 過去 -Flashback-

 僕は幼い頃に父親に棄てられた。厳密に言えば、母親が父親に対して三行半みくだりはんを突きつけた。そして、母親との二人っきりの暮らしが始まった。当然、母親はスーパーでレジ打ちをする傍らで夜の仕事をすることが多く、僕は孤独な子供時代を過ごしていた。だから、授業参観の日が苦痛で仕方なかった。親がいないと思われるからだ。それでも、母親は夜の仕事での働きが評価されて自分の店を持つことが出来るようになった。それこそが「スナック沙織」である。

 スナック沙織には前の職場で働いていた時からの常連客の他に、神戸の政財界や裏社会を握っている人物も常連客として名を連ねていた。特に、後に「神戸のIT王」としてその名を轟かせる四谷浩介よつやこうすけも常連客の一人だった。しかし、彼には黒い噂が付きまとっていた。今から思えば彼を善く思わない人物による吹聴ふいちょうだったかもしれないけれども、当時首都圏で「半グレ集団」と呼ばれていた「関東連合」との付き合いも示唆されていたのだ。当然、四谷浩介はこの事を否定しているが、現在に至るまで彼と関東連合のコネクションはネット上の都市伝説と化している。

 やがて、スナック沙織の売上が右肩上がりになるにつれ、僕も極貧生活から抜け出すことができた。父親がいないにも関わらず、僕は神戸でも屈指のエリート校である神港高校しんこうこうこうに進学することができた。神港高校はサッカー部の強豪と言われていて、選手権での優勝回数も多い。そして何よりも地元のプロサッカークラブであるビクトリア神戸への加入も夢じゃないと言われていた。当然、幼い頃からサッカー小僧だった僕はサッカー部に入部することになった。そして2年生の時に冬の全国選手権でキャプテンに選ばれ、優勝に貢献することができた。しかし、順風満帆じゅんぷうまんぱんに見えた僕の人生は、とある事件によって打ち砕かれることになる。

 それは、ある雨の晩だっただろうか。スナック沙織がその日の店じまいを行おうとした時だった。地元の暴走族として悪名をとどろかせている神戸羅生門が店内に乱入。そして貴重なグラスや酒類を次々と金属バットで破壊していった。僕はただ、壊される店内見つめるしかなかった。やがて、破壊活動はエスカレートしていって母親に危害を加えることになった。なぶられる母親。脱がされる服。そして、店内に響き渡る悲鳴とも取れる喘ぎ声。

 ――母親は、神戸羅生門のメンバーに犯された。


 数日後、夕飯を作っている時に母親は突然吐き気をもよおした。最初は犯されたことに対するフラッシュバックだと思っていたが、様子が可怪しい。もしかしたら、最悪の事態も想定しておかなければいけない。僕は、母親に「産婦人科で検査してみること」を勧めたのだが、結局それが僕にとって最悪の決断になろうとは、思ってもいなかった。

 そして、産婦人科での検査の結果は、母親を絶望の淵へと追いやってしまった。

「沙織さん、あなたは妊娠しています。先日の暴行事件で恐らく妊娠したものだと思います」

「嘘でしょ……」

「誰の子か分からなければ、ろすことをおすすめしますが……」

「も、もちろん堕ろしますけど。誰の子か分からないぐらいなら、堕ろしたほうがマシよ」

「まあ、ゆっくりと考えてください」

 そして、その日から母親の様子が可怪しくなった。半ば廃人と化していたのである。上の空でブツブツ何かを言っていたり、自傷行為リストカットをしたりするようになったのだ。僕は、その時点で母親を精神科へ連れていくべきだったのだろうけど、サッカー部の引退が迫っていたこともあって、それどころではなかったのだ。

 忘れもしない大雨の夜だったか。僕は無事にサッカー部を引退して、家へと帰ってきたのだ。

「オカン?いる?」

 しかし、どこにも母親がいない。スナック沙織の店内にもいない。一体どこに言ってしまったのだろうか。僕は、なんとなく自分の部屋へ向かおうとした。厭な予感を覚えたからだ。その時だった。何か、頬に脚が触れるような感触を覚えた。上を見渡すと、母親だったモノが首を括って白目を剥いている。慌てた僕は、携帯電話で警察を呼んだ。警察と消防署は直ぐに来てくれたが、矢張り母親の生命は助からなかった。

古谷沙織ふるやさおりさんの息子さんですよね?残念ながら、母親は手遅れです。もうこの世には存在していないと思って下さい」

「う、うわああああああああああああああああああああああああああああッ!」

 どうして首を括ったのかは分からなかったが、それが「自ら命を絶つ行為」だということは分かっていた。犯されて妊娠が発覚したことによるショックだと知ったのは、葬儀に来てくれた警察官からの一言だった。

「この度はご愁傷様でした。古谷沙織さんの息子さん、古谷善太郎さんですね。死因は首を括ったことによる自死で間違いないですけど、母親は思い悩んでいたみたいですよ?」

「何を思い悩んでいたんですか?」

「どうやら、

 警察官の一言で、僕は慟哭どうこくした。その後のことは、覚えていない。


「というわけよ。思い出した?善太郎ちゃん?」

「ああ。君の情報のお陰で、思い出したくないことまで思い出した」

「なんで私がこんなこと知っているかって?そりゃ、このキャバクラが神戸羅生門の傘下だということもあるんだけど、私、蘇芳貴志から気に入られているのよね。毎晩ヤることもあるし」

「ふ、巫山戯ふざけるなッ!そんな男と、毎晩付き合っていたのかッ!」

 僕は、思わず梅鼠美咲の胸座むなぐらを掴んでしまった。しかし、梅鼠美咲は飽くまでも冷静だった。

「ごめん。でも、蘇芳貴志から気に入られているのは事実だし、サツの犬であるアンタに情報提供できることは全部教えてあげるわよ」

「そうか。それは助かる」

「ただし、ここじゃ場所が拙いわね。そうだ、今度別の場所で話すっていうのはどうかしら?アンタと一晩過ごしたホテルがあるじゃん?そこで話をするっていうのはどう?」

「そうだな、その手に乗るよ」

「じゃあ、明日そのホテルで待ってるから」

「ありがとう」

 こうして、僕は「梅鼠美咲」という新たなコネクションを手に入れた。神戸羅生門を壊滅させるためならどんな手でも使いたいところだが、思わぬコネクションとなった。それがどういう結果に繋がるかは知らないけれども、少なくとも現状を打破できることは間違いないだろう。

 そして、僕はキャバクラを後にした。ピンク色の淫靡なネオンが、神戸の夜の街を妖しく照らしている。このネオンのうち、どれだけ神戸羅生門の息がかかっている店なのだろうか。そんなこと、考えたくもないし、考えただけでも無駄なような気がする。しかし、梅鼠美咲という人物が気に入ったのは事実だ。

 僕は、裏路地で煙草に火を点けた。紫煙が、淫靡なネオンを曇らせていく。長年吸っているが故に、煙草の味なんて分かるわけがないのだけれども、心が落ち着くのは事実だ。吸い終わった煙草を、ポケット灰皿へ捨てていく。流石に、道端に捨てるわけにも行かない。仮に大泉警部に煙草をポイ捨てするところを見られていたとしたら、大事おおごとだ。警察官としての職務を剥奪されていたとしても、矢張りコンプライアンスは遵守じゅんしゅしなければいけない。だからこそ、慎重になっているのだ。

 やがて、夜が明けていく。明け方の空を見上げながら、「古谷善太郎」と「深井章博」との間で、僕は苦悩している。このまま「深井章博」として闇の眷属けんぞくの一員となるべきか、「古谷善太郎」としての職務をまっとうすべきか。今はそんな事を考えても仕方がないので、僕はそのまま濡羽カンパニーのオフィスへと向かっていくことにした。闇カジノのオープンまで、あと2日のことだった。

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