Phase 02 仮面 -Persona-

 僕が「深井章博」という仮面を被ってから1週間が経った。思いのほか仕事が出来るので濡羽カンパニーの社長である濡羽将平からも気に入られているようだ。とはいえ、僕が警察学校を卒業した直後というのは兵庫県警の内部で事務的な作業を任せられることが多かった。だから、パソコンの扱いには慣れている。ただそれだけの話だ。

「深井さん、この取引先の売上の計算をお願いします」

「分かっている。それに、もう売上データは出来ている」

「相変わらず、早いですね」

「まあ、前職はシステムエンジニアだったからな」

 僕は明らかに嘘をいているが、大泉警部から提示された深井章博の人格というのは「前職がシステムエンジニアで、不景気によるリストラで失業した」ということになっている。潜入捜査と雖も、人格設定は意外としっかりとしていると、僕は思った。

 やがて、昼の仕事が終わっていく。それはすなわち濡羽カンパニーの「表の顔」としての仕事である。夜の仕事はというと昼の売上データに記録されていた取引先の風俗店やアダルトビデオ制作会社に女の子を売り込むという人道的も倫理的にもあり得ない仕事だった。刑事として赦される行為ではないと思いつつ、僕はマッチングアプリの利用者やホストクラブの客を風俗店やアダルトビデオ制作会社へと誘っていた。報酬はと言うと1人につき約20万円~30万円と高額であり、5人売り込めば1ヶ月に最低でも100万円は稼げるという計算になる。半グレ集団としての彼らがやり手であるということは同僚のコミュニケーション能力の高さからもうかがえた。

 ある日、僕はとある女性を風俗店に売り込もうとしていた。最近、こういうホストクラブに警察が潜入していることが多いので、半グレ集団の一員となっている僕は警戒していた。

 女性は話す。

「あの、こんな私に高収入のバイトがあるのですか?」

「ああ、そうだ。君は、男性の肉体へと飛び込むことには慣れているのか?」

「慣れていますけど……。どうしてそんな事を聞くんですか?」

「端的に言えば、君はで働いてもらうことになる。もちろん、コンドームの支給はあるから安心しろ」

「い、厭ですッ!そんな穢らわしい仕事ッ!」

「矢張り、そう言うと思ったか。しかし、そういう仕事をやってもらうからには報酬も弾ませてもらう。良いと思わないか?」

「それでも厭です!」

 女性客は必死で抵抗する。堪忍袋かんにんぶくろの緒が切れた僕は、女性客の酒の中に睡眠薬を入れた。彼女が泥酔でいすいしているというのもあるが、睡眠薬入りの酒を飲ませる事によって無抵抗になる。そしてそのまま濡羽カンパニーの中へと連れ込むことが出来るのだ。やがて、女性は眠り姫のように意識を失った。僕は、女性を背負って事務所へと向かっていった。

 女性が、目を覚ます。当然、周りにいる男性はホストクラブのソレとは違って半グレ集団なので強面こわもての人が多い。女性は恐怖で怯えていて、自分がどういう状況にあるのか理解するのに数秒かかった。

ようやく、目を覚ましたか」

「ここはどこ?」

「まあ、『会社』だよ」

「私、どんな目に遭うの?これ以上あなた達と付き合うのは厭だって言ったのに」

「それは、社長から聞いてくれ」

 こうして、僕は濡羽将平に話を振る。

「君が、萌葱光子もえぎみつこだね?」

「ど、どうして私の名前を知ってんの!?」

「簡単だよ。君が意識を失っている間にスマホを見させてもらった。SNSに情報が筒抜けになっていて、職業から異性との肉体関係までしっかりと把握させてもらったよ。もちろん、今のところ悪用はしていないけど、これ以上僕たちに抵抗するようだったら情報を他人にリークさせてもらう」

「そ、それだけはやめてッ!」

「さあ、それはどうかな?」

「きゃッ!」

 濡羽将平は、萌葱光子と名乗る女性の服を脱がせる。彼が僕に対して本性を見せるのは、これが初めてだった。

「今からお前は俺に犯される。そして、その様子はお前のスマホを通してお前の友人に配信されるんだ」

「そ、それだけはやめてくださいッ!」

「無駄だ。カメラはもう回っている」

「い、厭ああああああああああああああああああああああああッ!」

 それから、萌葱光子は複数の男性から暴行を受け、そして犯されていった。正直、僕は目を覆うしかなかった。しかし、今は飽くまでも組織犯罪対策課の刑事ではなく穢れた潜入捜査官である。だから、逮捕しようにも逮捕できない。この世の地獄としか思えない光景を、じっと見つめるしか無かった。

 やがて、萌葱光子は壊れた人形の様に口をパクパクさせる。犯されたことによって、精神が崩壊したのだろう。そして、僕しかいないことを確認して、萌葱光子に駆け寄る。

「大丈夫か?」

「大丈夫じゃないに決まっているじゃないですか……。複数の男性から犯されて正気でいるほうがどうかしていると思いますよ」

「それは、そうだな」

 萌葱光子は震えている。そして、僕は彼女の震える手をそっと握る。

「あなた、もしかして半グレ集団の一員じゃないの?」

「そうだ。僕は訳ありでこの組織に潜入している。本当の名前は古谷善太郎と言う。できれば覚えておいてほしい」

「わ、わかりました……」

「色々あって、警察は呼べないけど、僕にも少し『コネ』というものがあるからな。その人が来るまでここで待っていろ」

「その人って、信頼出来るんですか?」

「それはどうだろうか。少なくとも僕は信頼している」

 僕は、仁美のスマホに電話をかける。万が一のこともあって、プライベートのスマホの番号はメモ帳に控えていた。

「もしもし、西田仁美で合っているか?」

「えっ、古谷善太郎さんですよね?私に何の用ですか?」

「今どこにいるんだ」

「三宮のカフェですけど……。ちなみにアルコール類は含んでいません」

「なら、話は早い。生田神社の近くのビルまで来てくれ。鍵は開けてある」

「は、はい……」

 数分後。仁美の愛車と思しき水色の車がビルの前に停まった。恐らく、迎えに来てくれたのだろう。

「とりあえずこの女性を保護してほしい。もちろん、兵庫県警、そして生田署にはこの事は内密にして欲しい」

「分かっています。ねえ、名前は何ていうの?」

「萌葱光子です……」

「アタシが保護してあげるから、安心してほしい。今まで怖かったでしょ」

「すごく……怖かったです……」

「くれぐれも、心的外傷トラウマを引き起こすような真似だけは止めてくれ。彼女はとても傷付いている」

「はい。分かりました」

「じゃあ、後は頼む」

 こうして、僕は仁美に対して萌葱光子を託した。それがどういう結果に転ぶのかは分からないけれども、少なくとも彼女にとって今よりはいい結果に転ぶだろう。僕は、煙草に火を点ける。昔から「煙草は健康に悪い」と聞いているが、気持ちが昂ぶっている今は煙草を吸わないとやっていられない。紫煙が、オフィスを包んでいく。煙草を吸う人が多いというのもあって、オフィスは禁煙ではない。そして、僕は吸い終わった煙草を灰皿に押し付けた。


 アタシは、善太郎さんから女性を引き取った。厳密に言えば、アタシが萌葱光子と名乗る女性を保護したということになる。彼女は深く傷付いていて、心身ともにボロボロの状態だった。あの状況で犯されたら、誰だって精神崩壊を起こすだろう。アタシは、なんだか萌葱光子が気の毒になってしまった。そして、車の中で話をすることになった。

「ねえ、私は今からどうなるの?」

「今日は終電もないでしょ?だから、アタシの家で一夜を過ごしてもらう。もちろん、この事は警察には話しちゃいけないんだ」

「どうして、警察に話しちゃいけないんですか?」

「あのね。古谷善太郎という男性、覚えているかな?」

「覚えています。私を助けてくれた男性でしょ?彼、半グレ集団にしてはやけに正義感があるというか、なんだか訳ありで半グレ集団の一員になっているような気がして……」

「まあ、大体合っているかな?彼は色々あって半グレ集団の一員になっているけど、本当は兵庫県警の刑事さんなんだ。拾った警察手帳にも名前が書いてあった」

「その警察手帳は古谷さんに返したんですか?」

「返したんだけどね、古谷善太郎という人物は。もしかしたら、何か問題を起こして半グレ集団へ潜入させられる羽目になったんじゃないかなって思っているんだ」

「そうだったんですか……」

「まあ、これは飽くまでもアタシの憶測であって、本当の事は本人に聞かないと分からない。でも、今はまだその時じゃないんだ」

「今はまだその時じゃないってことは、そのうち分かるんですか?」

「それはどうだろう。アタシもあまり事件に深入りしたくないからなぁ」

「ですよね。そんな事を聞いた私が愚かでした」

「それはともかく、ここがアタシの家だ。今日はゆっくりと休んだらいい」

「あ、ありがとうございます……」

 当然、アタシは独身なので寮住まいだ。独身寮と雖も、矢張り警察官は公務員なので待遇は良い。2LDKでバストイレは別。序に家電も必要最低限のモノが完備してある。ちなみにアタシが警官になって初任給で買ったモノは大好きな特撮ヒーローのフィギュアだった。

 そもそもの話、アタシは特撮ヒーローのような正義の味方に憧れて警察官になったようなものだ。アタシと同年代の女の子はみんな魔法少女に憧れていたが、アタシはどちらかと言えば戦隊ヒーローやバイクにまたがるバッタの改造人間ヒーローに憧れていた。だから、日曜日の朝もそういう魔法少女のアニメーションより特撮ヒーローの方を好んで見ていた。結果的に、それが警察官を目指すきっかけになったのだからいいんだけど。

 買い溜めしていたカップラーメンにお湯を注ぐ。アタシは醤油しょうゆ味で萌葱光子はカレー味だ。そして、カップラーメンを食べながら、ちょっとした女子会になっていた。

「仁美さんはそういうヒーローが好きなんですね」

「まあね。アタシは戦隊ヒーローの黄色やピンクに憧れていたんだ」

「確かに、戦隊ヒーローで黄色とピンクは女性ってイメージありますもんね」

「そうそう。だから、アタシは『誰かを助けたい』という一心で警察官になったんだ」

「こんな事を聞くのもどうかと思いますけど、実際に警察官になって誰かを助けたことはあるんですか?」

「うーん。アタシの所轄は生田署なんだけど、繁華街にある所轄だから、治安が悪いのは確かだ。窃盗に薬物、もちろん殺人事件だって起こる。仮令警察官が止めようとしても、止められないモノは止められないんだ」

「そうなんですね……」

「先日だって、元町の交差点で自動車が暴走した。あなたを犯した半グレ集団による犯行であることは分かっていたんだけど、アタシたちはその凶行を止められなかった。正直言って、アタシは警官失格だよ」

「今は警官失格でも、何か手柄を上げたら昇進とかもあるんじゃないんですか?」

「確かに、今より待遇が良くなるのは良いことだけど、学生時代に派閥争いに巻き込まれたからそういうのはもう懲り懲りだ」

「派閥争いねぇ。私も、学生時代のスクールカーストは下の方だったけど、友達とかは割と多かった。仁美さんはどうなんですか?」

「その質問はちょっと答えられないなぁ。女の子は秘密を着飾って強くなるってどこかの泥棒も言っていたじゃないですか」

「そうですよね。すみませんでした」

 そんな事を話していると、スマホの時計は午前0時を回ろうとしていた。とりあえずベッドは光子さんに譲って、アタシは座布団と毛布で寝ることにした。少し寝心地は悪いが、無いよりはマシだろう。

 翌日。アタシはスマホのアラームで目を覚ました。6時きっかりである。

「矢っ張り、警察官って早起きなんですね」

「今日はたまたま非番ですけど、いつもなら7時ぐらいには生田署に向かいますからね。ところで、家とかは分かるんですか?」

「分かります。でも、今の私は無一文。帰るための電車賃すらありません」

「そう言うと思って、善太郎さんから現金を預かっていたんです」

 アタシは、光子さんに封筒を渡す。中身は津田梅子の肖像画が印刷してある。即ち5千円札だ。流石に1万円札は即興で用意できなかったけれども、5千円あればまあなんとかなるだろう。アタシは着なくなった服を光子さんに来させて、最寄りの駅前まで送ることにした。

「仁美さん、本当にありがとうございました!」

「いえいえ、こちらこそ。アタシはただ単に寝る場所と服を用意してあげただけです」

「それだけでも嬉しいです。これから、私は事情聴取に向かいますが、またご縁があったら連絡お願いしますね」

「分かりました!」

 こうして、アタシは光子さんを送り出した。彼女の顔は、笑顔だった。それだけでも良かったと、アタシは思った。そして、善太郎さんのスマホに連絡を入れる。

「もしもし、善太郎さん?」

「ああ、仁美か。その様子だと、無事に萌葱光子を送り出したようだな」

「そうですね。彼女、立ち直りが早かったですよ?」

「そうか。なら良かった」

「こんな言い方したらちょっと光子さんに悪いかもしれないですけど、彼女は傷物ですからね。取り扱いも慎重になりますよ」

「まあ、君が萌葱光子と同性で助かったと言えばそれまでだが。それはともかく、僕は『仕事』がある。また後で連絡するから、待っていろ」

「分かりました」

 善太郎さんって、なんというか、氷と炎が同居しているような性格なんじゃないかと思っている。話しているときは氷のように冷徹。けれども、内には猛火を秘めているような、そんな性格を感じ取った。彼について詳しく知ることは善くないけれども、なんだか興味を持ったのは確かだ。そんな事を考えながら、アタシは今日が非番であることを憎んだ。


 ――ああ、非番の日ってこんなにも暇なのかぁ。

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