第四章 藤十郎の妻 ①

 色がない世界というのはどんなものだろう。


 それをせつなは他の人よりも理解できるような気がした。暗くじめじめとしたしきろうに閉じ込められていたときには、天井に開いた穴から差し込むわずかな太陽の光と、行灯あんどんの小さな光が頼りで、色の識別があまりできなかった。それが、日の光があふれる世界へと出て、さまざまなものが自分の想像よりもずっと色鮮やかであることに深く心を動かされた。

 だから、色のない世界に住まうようになったとうじゅうろうがどんな心地なのか人よりも理解できるような気がするし、本当に困ったことはないのかと疑ってしまうのだ。


(強がっているだけ……のような気がしてしまうわ)


 しかしそのために自分になにができるか、とずっと考えるがなにも思い浮かばない。自分にはもちろん目を治すようなことはできないし、藤十郎の妻と認められていない身としては支えになれるようなことはなにもできない気がしてしまう。


(でも、なにか少しでもできれば)


 そして、とあることを思いつくと……居ても立っても居られなくなって、せつなは屯所を飛び出してとある場所へと向かった。



「……前々から思っていたのですが、藤十郎様は少々食が細くありませんか?」


 あさの後、屯所に誰もいないことを確かめてから、せつなは藤十郎の部屋を訪れた。

 藤十郎は文台に向かっているところだったが、せつなが来たことに気付くと顔を上げて、そしてその言葉に少々困ったような表情になった。


「いや……出されたものは全て食べているつもりだが」

「ですが、他の隊士様たちが『こんな量で足りるか』と不満を漏らしてなにか他にないかと求めてくるときでも、藤十郎様はそれ以上は召し上がりません」

「…………。大人気ない隊士たちで申し訳なかった。当家では出された以上のものを求めるのは卑しいと、そういう教育をされているのでな」

「それは分かりますが、藤十郎様は身体が細い割にはよく食べられたと聞いたことがあります。ときにはおひとりで米を一升平らげたこともあったとか」

「それはまだ子供だったときの話ではないか? 実家ではいつまでも子供扱いで困ったものだ」

「いえ、年齢の問題ではないと思うのです」


 せつなは藤十郎へと身体ひとつ分ほどにじり寄り、そして自分の背後にあった皿を藤十郎の前に出した。


「これは……菓子か」

「そうです。先ほど買い求めて来たものです。藤十郎様のご実家では、藤十郎様は甘いものに目がないとも聞きました。ですが、こちらにお世話になるようになってから藤十郎様が菓子などを食べるところを見たことがありません」

「ああ、そういうことか。さすがに察しがいいな」


 藤十郎は苦笑いを漏らした。


「確かに、色が認識できなくなってから、食べ物もあまりうまく感じなくなった。せつが言いたいのはそういうことだろう?」

「ええ、そうです。それは甘いもの好きな藤十郎様にとってはとてもお辛いことではないですか? 京にはこんなに彩り豊かで細工が凝った菓子があるというのに」


 京の菓子は思わずれてしまうほど素晴らしいものが多く、本当にこれが食べるものなのか、観賞するものではないのかと思われるものもあった。


「では、藤十郎様目を閉じてください」

「ん……どういうことだ?」

「いいから、言うとおりにしてください」


 せつなの勢いに押されてなのか、藤十郎は不審そうな表情ながらも言われた通りに目を閉じた。


「では、こちらの菓子ですが、屋特製の練り菓子です。かえでの形と柿の形をした、季節の生菓子になります」

「なるほど。甘い香りがするな」

「楓の形の菓子は、だいだいと黄色の彩りが美しい菓子です。上部は沈みかけの太陽のような橙をしていて、下部はイチョウの黄色となっていまして、途中でそれが混じり合って、食べてしまうのがもったいないくらいの麗しさです」

「まるで茉津屋の回し者のようだな。でも、それはきっと美しい菓子なのだろうね」

「では、こちらからお召し上がりください」


 せつなは藤十郎に楓の菓子が載った皿を渡した。藤十郎は目をつぶったままでも器用に竹の菓子ようで菓子をひと口大に割って口に運んだ。


「どうですか? いつもよりも美味おいしく感じましたか?」


 せつなが恐る恐る聞くと、藤十郎は小さくうなずいた。


「ああ、そうだった。こんな味であった。そういえば久しく菓子など食べていなかったことを思い出した。そうか、菓子は私の好物だったな」


 しみじみと紡がれた言葉は、自分の記憶から抜け落ちていたことをようやく思い出したというような響きがあった。せつなの試みが上手うまくいったということだろうか。


「では、次はこちらの柿の形の菓子です。はっとするような柿色に、若草色の葉が美しい菓子です。柿の部分がつやつやと輝いていて、まるで宝石のようです。ああっ、こちらも食べてしまうのがもったいないくらいですが……どうぞお召し上がりください」


 そしてせつながおずおずと柿の練り菓子が載った皿を差し出すと、藤十郎は引き続き目を瞑ったままでそれを受け取り、一口大に切って口に運ぶ。


「ああ……これは中にぎゅうが入っているね。もちもちとしていてとても美味しい」

「ああっ、そうだったのですか? それはとても美味しそうです……。自分の分も買ってくればよかったです」


 せつなが本気で悔しがると、藤十郎はふっと笑みを漏らし、そして目を開き、まぶしいものを見るような目つきでせつなを見た。


「今度は自分の分も買ってくればいい。そうだな、たびたびこうして菓子を買って持って来てくれるとうれしいな」

「ま、まことですか?」


 藤十郎はゆっくりと頷いた。


「そうだな、こんなに食べ物が美味しいと感じたのは本当に久しぶりだな。もしかして、私は自分からそう感じないようにしていたような気さえする」


 そうして藤十郎のひとみは遠くの方へと向かったような気がした。なにを思っているのか、せつなには考えが及ばなかったがきっと今まで積もり積もった思いがあるのだろう。

 ふたりの間に穏やかな空気が流れる。

 厳しい任務がある中で、せめて少しの間でもこうしてゆったりとできる時間を取ってもらえたらいい、とせつなは考えていた。


「確かに京に来たばかりのときには、その美しい菓子に驚いて、よく買い求めてその味をたんのうしていた。まるで懐かしい昔に戻ったようだ」


 藤十郎はすっと目を細めた。そんな気持ちになってもらえたならば、せつなとしても嬉しい。


「ありがとう、せつ」

「はい」


 そのありがとう、は、せつなが今までもらったどんな言葉よりも嬉しく響いた。



     ◇◇◇



 思いがけない出来事というのは、本当に不意にやって来るものだった。


「せつ、なんでもおくさわから使いが来ているようだ。藤十郎様が呼んでいる」


 せつなが市から帰り、買ってきた食材をかごから取り出しているときに、ほそかわからそう声を掛けられた。


「……え、奥沢から……?」


 とてもとても、嫌な予感がした。


「ああ、柘植つげ、と名乗っていた。藤十郎様の実家で長く仕えている方とのことだから、せつも知っているだろう?」


(つ、柘植様が……)


 もちろんせつながよく知っている人だ。

 柘植はふじさき家の大番頭で、藤崎家の使用人たちを管理する立場の人だ。

 とても厳しい人で、使用人をしっしている姿を何度も見かけた。藤十郎の妻という立場のせつなには、そんなきつい態度をとったことはないが、名ばかりの妻が、という視線を毎日痛いほどに感じていた。藤十郎とせつなの離縁を大奥様に進言し、ただ飯ぐらいと言ったのは彼である。

 柘植に会えば、もちろんせつなが藤十郎の妻のお付きなどではなく、妻本人であることが露見してしまう。


「……あの、こちらを片付けてからすぐに行くと伝えていただけますか?」

「いや、そのくらい俺が片付ける。呼ばれているのだ、すぐに行ったらどうだ?」


 細川は気楽に仕事を代わると言ってくれるが、そうはいかない。


「い、いいえっ! 仕事を中途半端にするのはよくありません。きちんと片付けてから参ります」

「……そうか? いいけれど、早くしたほうがいいと思うぞ」


 細川はそれだけ言って立ち去り、せつはそれを確かめると、そっと勝手口から建物の外に出た。

 柘植がせつなのことを見たら、なにを言い出すか分かったものではない。

 とにかく、今は彼と顔を合わせたくない。なんとか彼が奥沢に帰るまで待つか……それかいっそのことこのまま藤十郎の元からは離れた方がいいかもしれない。

 そんなことを考えつつ、周囲の様子を注意深く確かめながら庭を突っ切った。

 行く当てはないが、とにかくここからは離れなくては。それだけを考えながら、裏門から外へ出ようとしたとき。


「……どこへ行く?」


 背後から殺気に満ちた声が聞こえてきた。

 振り返ってはいけない、と思いつつも振り返ってしまう。怖いもの見たさというものだろうか。


「さ、様……」


 そこには腕を組み、仁王立ちになった佐々木の姿があった。恐ろしい顔をして、せつなを見下ろしている。


「ど、どこにと言われましても」


 せつなはついついひとみらしてしまう。


「藤十郎様が呼んでいる。聞いていないのか?」

「あっ……ああ、そうでしたか。ですが、市に買い忘れがありまして。急がないと市が閉まってしまう……ので」


 そうして裏門の扉に手を掛けたとき。


「買い忘れなど後でいい」


 そう言いつつ、佐々木の大きな手がせつなの襟首を後ろからつかんだ。先だってのあやかしとの戦いで負傷しているはずなのに、ものすごい力だ。


「藤十郎様が呼んでいるのだ。なにを置いても駆けつける以外の選択肢などない」

「左様でございましたか……すみません、田舎育ちなもので常識知らずで」


 のんに笑って誤魔化そうとするが、佐々木は襟首を摑んだ手を放さない。


「いいから、さっさと来い」

「あっ……すみません。実は恥ずかしくて言い出せなかったのですが、先ほどから腹具合が悪くて……」


 なんとか佐々木の手から逃れようとするが、佐々木は手を緩めるどころか、せつなの後ろ手をギュッと摑み上げた。


「……そうか、どうあっても逃げようとするのだな」

「に、逃げるなんてとんでもない。い、痛いですよ佐々木様。放してください」

「俺から逃げようなんて、いい度胸だ」


 いえ、逃げたいのはあなたからではなく柘植様からなのですが、とはもちろん言うことはできず、せつなは佐々木にそのまま連れて行かれてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

せつなの嫁入り 黒崎 蒼/富士見L文庫 @lbunko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ