第三章 その瞳に映るもの ⑤

「そういえば、藤十郎様はあやかしを全て悪いものとは思われないのですよね。以前にあやかしのことを守りたくて隊士を志したと。あやかし討伐をなさっているくらいですから、もっと厳しいお考えであるかと思っておりました」


 師匠に弟子入りをしたと話していたときの話だった。その後詳しい話は聞けなかったが、気になっていた。


「私は幼い頃からよくあやかしを視ていたから」

「ええ、お力が強いのでしょうね」

「よく家の庭に遊びに来るたぬきがいたのだ。それは本当はむじなであったのだが……私はそれに気付かずに名前をつけて可愛がっていたのだ。一緒に山に入ったこともあったのだが、私のために果物を取ってきてくれたり、水場に案内してくれたり、本当に可愛い奴だった。ところが突然、山の向こうからやって来た修験僧が、人にあだなす悪いあやかしだからはらわなくてはならないと言いだした。だが、どうしても私にはそんなふうに思えなかった」


 藤十郎は視線を遠いところに投げた。

 奥沢は田舎町で、きっと藤十郎の遊び相手は多くなかっただろう。しかも藤十郎はしょうの跡取り息子で、周囲も遠慮していたのではないかと考えられた。その狢は、幼い藤十郎にとってよい遊び相手だったのだろう。


「それで……その狢は討伐されてしまったのでしょうか……?」


 はらはらした気持ちでせつなが聞くと、藤十郎は静かに首を横に振った。


「いいや、私がこっそり逃がした。親にも、その修験僧にもこっぴどく叱られた。逃がした狢が他で悪さをしたらどうするのだ、と。だが、私にはとてもそんなふうには思えない。今も人目を避けて、こっそり山の中で暮らしている気がする。とても人懐っこい狢だったから、悪い人間に捕まっていなければと思うが」


 そのひとみは穏やかで、心から狢の幸せを願っているような気がした。

 せつなはその優しさにすっかりかれていた。そうしてそんな人と肩を並べて歩いていることを急に恥ずかしく思った。


「もっ、もうすっかり秋ですね。ほら、かえでの紅葉がとても鮮やかで」


 恥ずかしさを隠すように、通りかかった家の庭にあった、燃えるような色の楓の葉を指差した。京の町には、つい足を止めて見とれてしまうような庭が多い。


「そちらの庭先の木は、桃の木でしょうか?」


 屯所まであともう少しという角にある庭から飛び出していた枝を指さす。見事な枝振りで、ここに花が咲いたらさぞかし美しいのではないかと想像する。


「ああ、春になると桃色の花をつけてとてもきれいだよ」


 そう言って腕を組みつつ、今は枝だけになっている桃の木を見上げた。


「そうなのですか、とても楽しみです」


 そう笑顔で答えつつ、自分は春までここにいることはないだろうから、見ることはないだろうと考えてしまい、今まではしゃいでいた心が沈む。


(桃の花……いつか藤十郎様と見られたらいいのに)


 そんな気持ちを表に出さないように顔に笑みを貼り付け、いつもよりも短すぎる屯所までの道のりを歩いていった。



 屯所に戻るとせつなはすぐさま台所に向かい、市で買ってきた野菜などを作業台へとおいていった。

 そしておけを持って井戸へと向かい、水をみながら考えていた。


(そう言えば、藤十郎様は細かい作業が不得意、とおっしゃっていたけれど、組み紐が細かい作業なのかしら? 言われたとおり、紐がついた玉を動かしていくだけで組み上がるのに……?)


 そう思いつくと不思議だった。

 まさかあの藤十郎が、子供相手だからといい加減にやったということはないだろう。

 そして先ほど藤十郎が言っていた桃の木は、本当に桃色の花を咲かせるのか。そんなことが気になってきた。

 気になり始めると止まらなくなり、せつなは汲んだ水を井戸のそばに置いて、屯所を出た。



「あの……実は藤十郎様に伺いたいことがあります」


 翌日、屯所にふたりの他に誰もいないことを確かめてからせつなは藤十郎の部屋を訪れた。藤十郎はちょうど文を書き終えたところだったようで、筆をばこに戻しつつ、快く応じてくれた。


「実はこちらなのですが」


 せつなは藤十郎の向かいに座り、手にしていた露草色と紅色のしきを畳の上に置いた。


「風呂敷を新調しようと思っているのですが、どうにも迷ってしまっていて。それで藤十郎様にご意見をいただこうと思いまして」

「ほう」

「こちらの紅色の風呂敷にしようかと思っているのですが、いかがですか?」

「…………」


 藤十郎はせつなのもとを見て、一瞬顔をこわばらせたような気がしていた。

 これは、実はせつなが持った疑いを晴らすために仕掛けたことだった。藤十郎を試すようで躊躇ためらいもあったが、それでも確かめたかったのだ。かたんで彼の返事を待った。

 藤十郎はややあって、やがて表情をふっと緩めた。


「せつが手に取っているのは露草色の風呂敷ではないか」

「あ……」


 そうなのだ、せつなが手にしているのは露草色の風呂敷なのであった。どうやらせつなが感じていた違和感は勘違いであったらしい、と思っていたところで。


「……いいんだ。そうか、気付いたんだね。せつは隅に置けないな、なかなかに鋭い。今まで、一緒に住む隊士たちにも気付かれなかったのに」


 そう言って笑う藤十郎の表情が、せつなには悲しいものに見えた。


「藤十郎様を試すようなことをして申し訳ありませんでした。しかし……やはり見えていないのですね。色が……分からないのですね」


 せつながまるで苦しいことを訴えかけるように言うと、藤十郎はゆっくりとうなずいた。


「そうなんだ。力を得ようと身の丈に合わない修行をしたせいなのか、色を失ってしまったようでね」

「まさか、そんなことが……」


 そうではないかと疑念を持っていたとはいえ、それが事実だと分かった衝撃は大きなものだった。藤十郎になんと言っていいものか迷ってしまう。


「すべてのものが、白と黒と灰色としか認識できない。だから、本当はどちらの風呂敷が露草色なのか紅色なのかはよく分からない。しかし、急にそんなことを言い出したせつを不審に思った。分からないかもしれないが、人はうそをつくときに呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が速まる。それで分かったに過ぎない」

「そうでしたか……」


 せつなは手にしていた露草色の風呂敷をぐっと握りしめた。

 色が分からないなんて、どんな苦しみだろうかと考えてしまう。せつなは幼い頃からずっと座敷牢にいたから、明るい日の光に照らされた世界の彩りがどんなに素晴らしいかを、他の人よりも身にしみて感じていた。

 春の訪れを告げるフキノトウの若草色や、夏のあおい空と白い入道雲、秋の訪れを告げるあやしいほどのヒガンバナの紅、どこまでも白い雪原の風景。

 そんな鮮やかな色が藤十郎のひとみからは失われてしまったのだ。


「それにしても、どうして気付いたのだ? あの組みひもの出来事のときか?」

「はい……。それから通りかかった桃の花の色も気になりました。藤十郎様は毎年桃色の花を咲かせるとおっしゃっていましたが、その家の方に聞いてみたところ、あの桃は白い花を咲かせるそうです。実は二年ほど前に植え替えたのだと」


 そう言いながら、泣きたいような気持ちになり、言葉が詰まってしまった。藤十郎はそんなせつなを気遣うようなまなしを送ってくる。


「なぜ、せつがそんな苦しそうな顔をするんだ? ああ、もし隊務に影響があって困っているのではと考えているのならば、そんなことはないのだ。そもそもあやかしは夜に現れる場合が多い。それに、目が色を失った分、感覚が研ぎ澄まされたという点もあるのだ。人の気配や、感情すらも読み取れることがある」

「そういうことではありません……」


 藤十郎は平気そうな顔をしているが、生まれ持ったものが失われたのだ。その痛みはいかほどだったかと考えると胸がつぶれそうだったが、口には出せなかった。そんなことを言っても、きっと彼の傷を深くしてしまうだけだろうと思ったから。

 藤十郎はそんなせつなを見守るようにいてくれた。自分の方がつらいはずなのに、そんなことはひと言も口にはしない。


「あの、先ほど隊士のどなたにも気付かれていないとおっしゃっていましたが」

「そうだね。隊長である私が色を認識できないと知れば、不安に思う者もいるかもしれない。それに、隊務に支障はないから、そんな心配に思ってもらうようなことではないのだ」

「そういうことではありません!」


 せつなは思わず畳をどん、とたたいてしまった。


「隊士様たちにはお話しするべきです。隊務に影響はないかもしれませんが、それでも生活する上でご不便はあるでしょう?」

「いや……本当にそんなことはないのだが……」

「前々から思っていましたが、藤十郎様は隊長だからと気を張りすぎでは? 少しくらいの弱みを見せてもよろしいのではありませんか」

「弱み……」

「そうです! 確かに藤十郎様はご立派な方です。非の打ち所がない方だとご実家の方もおっしゃっていますし、第八警邏隊の方々も、京に住まう藤十郎様をご存じの方はみんなそう思っているでしょう。しかし、その期待にこたえようと無理をしているのではないかと思うことが時にあります」


 必死に訴えかけるが、藤十郎は苦い顔で、なんとも手応えがない。自分の言葉など彼には届かないのだろうか。


「周囲で藤十郎様を支えている方たちのためにも、お話しした方がよろしいかと」


 なにかを隠されていると、自分はその人の信頼を受けていないのかと感じてしまうことがある。せつなはそのことも心配してそう進言したのだが。


「ああ、そうだね。考えておくよ」


 そうは言ってくれたが、藤十郎がせつなの言葉になど動くとは思えなかった。きっとこれからも自分の苦しみを誰にも言わずに、なんでもないという顔をして隊を率いていくのだろう。

 それは立派なことだとは思うが、その分抱えているものが大きくなり、いつか潰されてしまうのではないか、と考えてしまうのだ。


(私が藤十郎様の妻であると伝えることができたならば、本当の意味で妻として認めてもらえたならば、私の言葉も受け入れてもらえたのだろうか)


 ついそんなことを考えてしまい、気持ちが沈んでしまった。

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