第三章 その瞳に映るもの ②

「こんな時間までなにをしている? 年頃の娘は日が暮れる前に帰っているものだ」


 少々とがめられている気配を感じるが、心配してくれたのだ、と思うとじわじわとうれしくなってしまう。


「すみません、京ではそういうものなのですね」

「京だけではなく、どこに行ってもそういうものだ。お主は……いや、なんでもない」


 そう言いつつ、藤十郎はせつなが腰掛けていた石椅子に腰掛けた。つられてせつなもその隣へと座る。


「どうした、なにかあったのか?」


 優しく尋ねられて、ついつい心を許して全てを話したくなってしまうが、それはぐっとこらえた。


「実は……そろそろ奥沢に戻ろうかと思っておりまして。お情けでこちらに置かせてもらっておりますが、あまり役にも立てておらず、申し訳なくて」

「そんなことはない。皆、助かると言っている」


 一瞬嬉しくなってしまったが、しかし彼はその優しさからそう言ってくれるのだろう、と疑いの気持ちを抱いてしまう。


「そうでしょうか? いいのです、藤十郎様。遠慮なさらないで下さい。藤十郎様だってもっと掃除が行き届いた部屋で、毎日しいご飯を食べたいのではないですか? おかずについては近隣の方のお世話になっているからよろしいとして、ご飯も美味しいものを食べたいでしょう? 私がいた、釜底が焦げてしまった炭臭いご飯ではなくて」


 そう、せつなにはご飯を炊くだけでもひと苦労なのだ。

 井戸の水をんで、人数分の米を研ぐのも大変だと感じていた。米を研ぐのに力任せでやると米が割れてしまう。かといって弱い力で研いでも米ぬかはがれない。微妙な力加減が必要なのである。しかもあさのための米は夜遅く、木枯らしが吹く中で冷たい水を何度も替えながら行わなければならず、手の感覚がなくなってしまう。

 水加減も最初は失敗してかゆが炊き上がったときには絶望した。そしてなにより大変なのは米を炊く火加減だ。これを会得するには年単位でかかるのではないかと考えてしまう。今までは人が炊いてくれたものを当然のように食べていたが、ひれして毎日ありがとうございましたと礼を述べたい気持ちである。


「それについては……こちらが申し訳なかったと思う」

「え?」

「屯所で働きたいと熱心に言うからつい了承してしまったが、本来ならばお主がそんな雑事をする必要はない。今までそのような仕事をしてきたわけではないのであろう?」

「それはそうなのですが……」

「だからそう長く続かないと思い、すぐに音を上げて結局辞めることになるだろうと。ならば最初からここで働かない方がいいと思ったのだが、こんなに一生懸命に励んでくれるとは予想外だった」

「あ……」


 藤十郎にここで働かせて欲しいと頼んだとき、冷たくあしらわれただけだと思っていたが、そこにはそんな気遣いもあったのだと初めて気付いた。


「もっと別の仕事をやってもらうのがいいように思う。今の仕事をがんばっているので、それを奪うようで言い出せなかった」

「がんばっていると、思ってくださるのですか?」

「もちろんだ。この手だって」


 そうして藤十郎はせつなの手を取った。

 驚いて飛び上がりそうになってしまう。藤十郎の手は温かく、今まで思いつめていたことがほろほろとほどけていくような気さえした。


「こんなに荒れてしまって。慣れない水仕事のせいだろう?」

「は、はい……。いえでもっ、働く者としてこのくらいのこと当然ですから。お世話になっているわけですし」


 不意に手を取られたことに動揺してしまう。

 どうしてだろう、ただ単に手が触れているというだけなのに、胸の高まりが止まらない。


「無理をしなくてもいい。毎日朝早く起きて、夜遅くまで働いて……。もっと早くに止めるべきだった」


 藤十郎が手を放すと、せつなはその手をひざに置いた。

 藤十郎に触れられた右手だけがいつまでも熱を帯びているような気がする。高まる胸もいまだに収まらない。


「でっ、ですが……別の仕事、なんてあるのでしょうか?」

「そうだな。例えば私の身の回りの世話をしてもらうだとか」


 藤十郎の身の回りの世話……。

 それは妻という仕事ではないのだろうか。

 そんなことを意識して言っているのではないと分かっていたが、ついついそんなふうに考えてしまった。


「実は数年前まで私の身の回りの世話のためと従者をつけていたのだ。その者が故郷に帰ることになり、それ以来新しい者を探してはいなかったのだが」

「その役割を私に……?」

「向いていない仕事を無理にやる必要はない。それに、最初から屯所の下働きは他に探している。なかなか見つからないので、その間をせつに任せていたが、いつまでも甘えられない」


(そこまで気遣ってくださるなんて……)


 嬉しくなってしまうが、しかしどのみちせつなは近々奥沢に帰らなければならないのだ。

 いつの間にか第八警邏隊の屯所は、せつなにとって居心地のいい場所になっていた。人の顔色をうかがいながら寂しい暮らしをしていた奥沢の屋敷よりもずっといい。それなのに、自分があまり役に立てていないのがないのである。

 佐々木は相変わらずしんらつであるが、他の隊士とは打ち解けてきていた。なにより、命懸けの大変な役割をする彼らを近くで見守っていたいという気持ちが芽生えてきていた。


 それは、藤十郎に対してもそうである。

 藤十郎はとても強いが、ささづかは藤十郎でも苦労する相手がいると言っていた。いつか藤十郎はあやかしによって倒されて……と思うと気が気ではない。せつながなにかできるわけでもないとは分かっているが、遠い場所で藤十郎の無事を祈っているよりは、近くにいて藤十郎の役に立ちたいと思ってしまう。


(いっそ、妻ということを隠して、ずっとここで働けたらいいのに。そうしたら叶枝さんにでも頭を下げて、仕事を仕込んでもらって……)


 しかしそれは土台無理な話なのだ。

 今は藤十郎の優しさをつらいと感じてしまう。せつなは胸の前でぎゅっとこぶしを握ってから、心を切り替えるようにふっとくちもとに笑みを浮かべた。


「お気持ちは、とても嬉しいです」

「そうか。ならば、今日にでも他の隊士に話して……」

「ですが、どのみち私は臨時雇いですので、藤十郎様の従者を探すのならば別の人が相応ふさわしいように思います」

「……ああ、そういえばそうだったな。なぜかずっと居てくれるような気がしていた」


 その言葉が嬉しくて、なぜか泣きたいような気持ちになってしまった。


(妻としては必要とされていないのに……でも)


 なぜか藤十郎の顔をまともに見られなくなってしまった。

 それでも、こっそりと窺うように藤十郎を見つめていると、その視線に気付いたのか藤十郎がこちらを向いた。それに驚いて、慌てて目をらしてしまう。


「…………? どうかしたのか?」

「いえ、なんでもありません……!」


 なぜか頰が熱を帯びてしまう。今が夕暮れ時で、顔がよく見られなくてよかった。

 そのうち藤十郎がでは帰ろうかと立ち上がり、せつなはその後に続いて歩き出した。



     ◇◇◇



 食器に続いて飯炊きがまを洗い終わり、今日の仕事は終わったとばかりに大きく伸びをして母屋に戻ろうとしていると、誰かが勝手口の前に立っているのが見えた。こんな時間に誰が、と思ったら月明かりの下、彼の特徴的な赤髪が目に入った。


「あっ、はしもとさん。今日は調子がいいんですか?」


 せつなが声を掛けると、橋本の顔だけがこちらを向いた。


「ああ……そうだな。昼間よりも夜の方が調子がいいんだ」

「お疲れさまです。なにか召し上がりますか?」

「いや、大丈夫だよ」


 そしてふたりで勝手口から台所へと入っていった。


「どう、京には慣れた?」


 優しい口調で聞かれ、せつなはええ、とうなずいた。


「最初はどうなることかと思いましたが……隊士の皆さんがよくしてくださるので、なんとかやっています」

「そうか。なあ、いっそのこと隊長の奥方様のお付きなんて辞めて、ここで働くことにしたらどうだ?」

「え? それは……」


 自分の望みを言い当てられてしまったようで焦る。それができたらどんなにいいかと思うが。


「どうやらせっちゃんはこの屯所にんでいるようだし」

「せっちゃん? とは私のことですか」

「ああ。なぜかしんせきの子のように感じるんだよね。そう呼ばれるのが嫌なら……」

「いえ、そんなことはないです。むしろ、親しみを込めていただいてうれしいです」


 今までそんなふうに呼ばれたことはない。子供扱いされている、と少々思わなくもなかったが、この場所に馴染めたからそんなふうに呼んでくれるのだ、と考えた。


「せっちゃんはさ、帰ってこない夫を迎えに行け、と京になんの馴染みのないお付きを差し向けるような主人の下で働くよりも、こちらで働いた方がいいのではないか?」


 それはせつなも望むところで、橋本がこう言ってくれるのは飛び上がるほど嬉しい。

 ただしそれはせつなが本当に藤十郎の奥方のお付きである場合である。


「そうしたいのは山々ではあるのですが、私はお付きという立場ですので。こちらで働くことは奥方様を裏切ることになりかねません」

「そんなこと、気にすることないのに」

「そういうわけには参りません……。その、今まで雇っていただいている恩義も義理もありますし」

「そんなことからは自由になっていいと思うけれどな」


 橋本はふと月をあおいだ。


「……時代は変わった。生まれだとか、主従関係だとか、そんなことに縛られない時代がこれからやって来る」

「そんな……時代が本当に来るのでしょうか?」

「ああ、きっと来る。今、この国には外国からたくさんの文化が取り入れられている。鉄道にガス灯……人々の姿も変わった。人々の考えもやがて変わっていくだろう。自分の思うまま、もっと自由に生きられることになる」


 橋本の言葉は、とても魅力的に思えた。

 生まれだとか育ちに縛られずに、自分の好きなように生きられたらどんなにいいだろう。身分差がなくなり、誰とでも結婚できる。せつなは、そんな世の中になっても藤十郎と結婚したいと願うけれど。


「君には京のようなにぎやかな場所が似合うよ」

「本当ですか? そう言ってくださると嬉しいです……」


 ずっと閉鎖的な場所で暮らしていたから。

 そこでしか暮らせないような気が今までしていたが、そうではないのだと、自分にも他の道があるのだと認めてもらったようで、じんわりと幸せを感じる。


「奥沢とは縁を切って、こちらで働くのだとしたら、みんな応援してくれると思うよ」

「そうでしょうか?」

「少なくとも俺は応援するさ」

「本当ですか? それは心強いです」


 そんなふうにはできない、と分かっていても、橋本のその言葉が嬉しかった。


(今までどこにも居場所がないように感じていたけれど、ここでならば必要とされている)


 それは偽りの自分だから、と知っていたが、今だけはひとときでも居場所を得られたような幸せな気分に酔っていたいと感じていた。


「そういえば、橋本さんはどうして第八警邏隊に?」

「どうして……? そんなこと気になる?」


 せつなは小さく頷く。どこかつかみどころがなく、軽口を言う橋本でも、きっとなにか強い志を持って第八警邏隊に入ったのだろう、という予想の下に聞いたのだが。


「俺の家族はあやかしに襲われて……」

「あ……」


 それは聞いてはいけない事情だったかもしれない。だが橋本はさして気にする様子もなく話していく。


「家族はすぐに殺されてあやかしに食われたが、俺はしばらくそのあやかしに連れて歩かれた」

「そ、それは一体どういうことだったんでしょうか?」

「たぶん、食料だったんだろうな」


 橋本は、いつものようになんでもないように言うが、それは壮絶な体験だったのだろうと予想する。家族を殺された苦しみを抱えているだけではなく、自分はいつ殺されるかと思いながら毎日過ごすのである。


「ああ、ごめんごめん。そうだよな、あんまり気楽に話すことではないな」

「いえ、聞いてしまった私が悪いのです。すみません、そんな事情を存じ上げず……」


 せつなはすっかり恐縮して頭を下げるが、橋本はなんでもないというふうに笑っている。


「まあ、そういうことだからさ。俺はあやかしのために不幸になる者がいない世が来ればいいと願っている」


 彼の中でこうして普通の顔をしてこんなことを話せるようになるまでかなりの時間があったのではないかと推察する。


「皆さん……強いですね。辛いことがあっても、それをものともせず」

「ああ、そうだな話しすぎたな。我ら第八警邏隊、人に弱みは見せないようにしているはずなのに、つい。せっちゃんには不思議な力があるように思えるな」


 そう言って笑った橋本は、せつなに心を許してくれているような気配があり嬉しくなると共に、自分の方の事情を話せないのを心苦しく思ってしまう。

 本当にここにずっといて、そして隊士たちを支えられたらどんなにいいだろう。そんなことは、できないのに。

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