第三章 その瞳に映るもの ①

「あらあんた、まだ帰っていなかったの?」


 とある日の夕方、せつなが玄関前の掃除をしていると、不意に声を掛けられた。

 ほうきを持つ手を止めて顔を上げると、そこにはけやきていわか女将おかみかなの姿があった。

 鮮やかにひかれた唇の紅をゆがめて、あごをやや上げて、なにか嫌なものを見るような目つきをこちらに向ける。


「ええっと……叶枝さん、こんにちは」


 少々の苦手意識があったので、たどたどしいあいさつになってしまった。


「もう一度言うわね、まだ帰っていなかったの? こんなところでなにをしているの?」

「なにを、と言われたら、玄関前の掃除です」


 屯所の門近くにあるカエデが落葉の時期を迎えていた。朝掃いたはずなのだが、夕方には再び散り積もっている。朝夕と門前を掃くのがこのところの日課なのだ。


「そんなことを聞いているのではないわよ。この屯所にどうしてあなたがいるの、と聞いているの」


 叶枝はお使いに行くところなのか、それともその帰りなのか、花鳥柄のしきを抱えていた。今日の着物は落ち着いた紅色の仕立てである。どこに行っても恥ずかしくない、いつもきちんとしている、という雰囲気である。


「奥沢に帰るまでの間、しばらく置いていただくことになりまして」

「どうしてしばらくこちらに居なければならないのかしら? すぐに帰りなさいな、もうすぐ寒くなるわよ。陽気がいいうちに帰った方がいいわ」


 それは確かにそうだと納得する。

 昼間はいいが、朝晩は冷え込むようになってきた。奥沢まで三日程、せつなの足では五日かかった旅程である。


「そうですね。しかしすぐに帰るわけには」

「すぐに帰って、あなたの主人にとうじゅうろう様は帰りませんと告げた方がいいのではない?」

「その……ですね。あっさり諦めて帰ったと思われたら、しっせきされてしまう可能性もあります。少したりとも藤十郎様を連れ帰るために粘った、と思われたいのです」

「……ああ、そういうこと。それならばいいわ」


 叶枝はそっけなく言ってからふいっとせつなから視線をらし、勝手知りたる様子でさっさと裏手に回って、勝手口から屯所の中に入って行ってしまった。せつなはついついその後を追いかける。


「ちょっと藤十郎様、いないの?」


 せつなは勝手口近くに持っていた箒とちりとりを置いて、部屋の中へと呼びかける叶枝の斜め後ろに立った。


「藤十郎様は今お出掛けしています。なんでも、どこかから急な呼び出しがあったとかで、お昼過ぎに」

「あらそう。では、誰かいないのかしら? 欅亭の叶枝です。どなたかいらっしゃらない?」


 叶枝はこちらのことなどいちべつもせずに呼びかけ続ける。ここには自分がいるのだから、用事があるのならばまずは自分に言ってくれればいいのにと思うが、叶枝はせつなをこの屯所の者だと認める気はないという気配だ。

 そのとき、向こうの方から板張りの廊下がきしむ音がして、こちらへとが歩いてくる姿が見えた。


「あら、佐々木さん。いらっしゃったの?」


 叶枝が嬉しそうに言いながら、履物を脱いで屯所へと上がった。


「ああ、少ししたら出るが」

「あのね、実は今夜急に団体さんの予約が取り消しになっちまってねぇ。それで、せっかくの料理がフイになっちまったんだよ」


 そう言いながら叶枝は風呂敷をほどいて、中から美味おいしそうに煮付けられた魚を盛った皿を取り出した。


「それなら、あのせつに渡せばいい。ここで下働きをしているのだ」

「それは聞いたよ。まったく物好きだねぇ。あんな使えなそうな娘っ子を働かせるなんて。ここでの仕事はそれなりに多いのではないのかねぇ? 第八けいたいには六人も隊士さんがいらっしゃるんだ、もっと働きがよさそうな人を探した方がいいんじゃないのかねぇ」

「人手不足でな。仕方がないのだ。こんな娘でも、いないよりはましだ」


 佐々木はむっつりとした表情で、はっきりと言い放つ。隊士の中で佐々木だけは、せつなを一切評価してくれない。


(六人……あ、そうね。おひとりは故郷にお帰りだから)


 どちらにしてもそれなりの仕事量があることに変わりはない。そんなこと、ここで勤めさせてもらう前は考えてもいなかったから、ずいぶん甘い考えで働かせてくださいと言ったものだと思う。


「いつもすまないな。なにかとひいにしてくれて助かっている」

「いやねぇ、そんなことないよ。むしろ助けられているのは私たちだからねぇ。このくらい安いものさ」

「いや、それが俺たちの仕事だからな」

「大変な仕事をしてくれて、みんな感謝しているのさ。ときどきの差し入れくらい、安いものだよ」

「ああ、助かる」


(私に対する態度とまるで違う……。やはりいつもむっつりとしてる副隊長佐々木さんも、美人には弱いのね)


 せつなはふたりの様子をついつい見つめてしまう。叶枝は女性にしては背が高いほうだが、佐々木となら釣り合いが取れるのではないか、とそんなことを考えていると。


「早速だけど……、ちょっと屯所の掃除でもしようかしらねぇ? ずいぶんと汚れているじゃないか」

「いえ、部屋の掃除ならば私が毎日しております」


 割り入るように言うと、じろりとにらまれてしまう。


「毎日だって? これで? まるで行き届いていないじゃないか」


 そう言いつつ、叶枝はつかつかとかまどの後ろへと指を突っ込み、そこをつつっとなぞった。


「ほら! こんなほこりが残っている!」

「そんなところ、埃がまっていても誰も気にしないのでは?」

「まあ! くちごたえをする気? なんて生意気な!」

「ああっ! すみません!」


 鬼のような叶枝の迫力におののいてしまったが、よくよく考えたらここでは部外者のはずの叶枝にそんなことを言われる筋合いはない。

 筋合いはないが、恐ろしくてとても言い返せない。

 助けを求めるように佐々木に視線を向けるが、彼は叶枝にうなずきかけているだけだ。まったく味方をしてくれるような雰囲気はない。


「それに窓だって……ああ、あんなに薄汚れて……!」

「そ、そうおっしゃいますが、毎日の洗濯と炊事の他に、屯所の掃除まで……。ひとりでかんぺきにこなすのはとても無理……」

「黙らっしゃい!」


 叶枝の目がギラリと輝いた気がする。

 りあがったひとみと唇の紅色に白い肌……まるで巨大な白蛇に睨まれたようだ。


「うちの旅館だったら、一日で暇を与えるわ、こんな使えない娘!」

「そうですか……すみません」

「こんな不衛生な環境に、隊士様たちを置いておくわけには参りません。すぐに私が掃除をいたします!」


 そう言いつつ、自前のたすきで着物のたもとをまとめて、早速はたきを持って奥の部屋へつかつかと入っていってしまった。

 ああ、そんな素晴らしい着物姿の女性に掃除をさせるなんて、とせつなは躊躇ためらったが叶枝はそんなことを気にする様子はまるでない。

 ここは手伝うべきなのだろうか、とも考えたがかえって邪魔に思われそうだ。


「……お前は大人しく洗濯物でも取り込んでおけ」


 せつなの気持ちを察したように佐々木に言われ、その通りにしておいた。そして洗濯物を取り込み終わると、門前の掃除を再開した。中途半端にするのはなんとなく気持ちが悪かったからだ。

 そして、せつなが落ち葉の掃除を終えて台所に戻って来ると、叶枝がおけを抱えて井戸へ向かうところだった。

 先ほど怒られたばかりだが、宿屋の若女将という立場でありながら、いや、だから余計なのだろうか、ここまでてきぱきと働けるのを頼もしく思ってしまう。

 せつながのろのろと台所で飯炊きの準備をしている間に、叶枝は休むことなく屯所の掃除を続け、日が暮れた頃に炊事場へとやって来た。


「ふぅ、ひと通り終わったわ。本当にひどいものだったわ」


(……まだ一刻も経っていないと思うのだけれど)


 しかし叶枝の言うとおり、屯所は文句のつけようがないほど掃除が行き届いていた。

 床はぴかぴかだし、窓には汚れひとつないし、埃のひとつも落ちていない。


「では、私はこれで行くわね」

「あの……ありがとうございました」


 せつなはぺこりと頭を下げたのだが。


「別に、あなたのためにやったんじゃないわ。隊士様たちのためよ」


 襷をほどいて着物を整えると、小さく息をついた。


「このありさまだと、ただで置いてもらっているのが悪いから少しだけ部屋の片づけをしているとかそんなふうだけれど」

「これでも一日中くたくたになるまで働いているのですが」

「そうね、あなたには育ちのいいお嬢様の隣について、ちょっとしたお手伝いをするのが向いているわ。さっさとあなたのご主人のところに帰りなさいな」


 そう言い置いて、叶枝は行ってしまった。

 ぐうの音も出ない。確かに自分から働かせてくださいと言っておいて、最初よりはましな働きをしているが、それはあくまで自分としては、であり、他の人と比べたらかなり劣っているのだろう。


(役に立てていない……こんなに精一杯務めているのに)


 やり切れない思いに、いんうつなため息を吐き出した。



 せつなは神社の境内にある石椅子に腰掛けて、口をつぐみ、じっと足元にある玉砂利を見つめていた。

 ここは以前に落ち武者のあやかしが出たあおさき神社だった。

 誰もいない静かなところへ行きたい、と考えて思いついたのはここしかなかった。

 時は間もなく黄昏たそがれ時になりそうな頃だった。


(もう藤十郎様をおくさわに連れ帰ることは無理だと分かっているわ。その本当の理由を知りたかったけれど、これ以上ここにとどまるのは難しいかもしれないわね。このまま奥沢に帰って、離縁されて……。実家に戻るしかないのかしら? でも実家にはもう私の居場所なんてない。もう、というか、最初から私の居場所なんてないのよね)


 そう考えると、無性に寂しい気持ちになってきた。

 どこででも必要とされていない。きっと、ふいに消えてしまっても気にされないのではないかとまで思ってしまう。

 ふと境内へと続く長い階段を上がってくるような気配があった。

 あやかしが出るような、寂しいところにある不気味な神社であるが、神社は神社である。誰か信心がある者がお参りにでも来たのであろうかと思ってそちらを見ていると。


「え……」


 その者の姿を確かめて、思わず立ち上がってしまった。

 そこには藤十郎の姿があった。

 ぼんやりとそちらを見つめていると、藤十郎もこちらに気付いて、なぜかとてもあんしたような顔をした。

 ゆっくりと歩を進めてくる藤十郎に、なんと声を掛ければいいのか迷いつつも声を上げる。


「藤十郎様がどうしてこんなところに? この神社にお参りですか?……ああ、それともこの前倒したあやかしのことで?」


 そう尋ねると、藤十郎は首を横に振った。


「違う。お主がなかなか戻らないから迎えに来たのだ」

「え……?」

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