第二章 上手くいかない京での暮らし ⑤

 飛び込んで来たのは十歳かそこらの男の子だった。そうはくな顔をして荒く息を吐き、足元もおぼつかなく、やっとの思いでここまでたどり着いたという様子だった。


「なんだって……! どういうことだい!」


 せつなと話していた女性はその男の子の母親で、恐らくは雛というのは彼の妹かなにかだと思われる。今まで穏やかに話していたのが、一気に緊迫した空気となる。


「雛とたかしと遊んでいて……そろそろ日が暮れるから帰ろうとしていたところに急に雨が降り出して……」


 言われて初めて気付いた。

 店の女性と話しているうちにいつの間にか雨が降り始めていた。雨の勢いは強く、しばらくやみそうにない。


「わ、私は屯所にこのことを知らせに行きます……!」


 せつなが慌てて店から出ようとするが、男の子の声がそれを遮る。


「あやかしの警邏隊の人達への知らせは崇が行ってる……。俺はとにかく家に言って伝えろと言われて……それで雛は」


 男の子は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、それでも一生懸命に話し続ける。


「雛は逃げる途中で足をくじいて、動けなくなって」

「足を挫いただって? それで、雛はどこに? そのあやかしが出たっていうのはどこなんだい?」

「そ、それがよく分からないんだ。たぶん、あおさき神社の辺りだとは思うんだけど。とにかく夢中で山を下りて……」

「私、やっぱり行きます」


 そして手に持っていた皿を棚の上に置いて、せつなは店を出た。

 その途端に雨の匂いに混じって、不審な臭いを感じた。これはあやかしの臭いかもしれない。青崎神社という場所は分からなかったが、この臭いを辿たどればあやかしがいる場所までたどり着けるのではないかと思った。

 突然の雨で、軒先で雨宿りをしている人々が多い中、せつなは雨の中を駆けて行った。

 第八警邏隊への知らせは行っているということだったが、あやかしの元にひとり残されたという女の子が気になって仕方がなかった。どんなに心細い思いをしているだろう。自分が行ってもどうなるものでもない、という考えはせつなの中には今はなかった。

 とにかく懸命に走り続け、臭いを辿って市街地を抜けて山道へと入っていった。



 雨はまるでやむ気配はなく、せつなは髪も着物もまでもびしょぬれになりつつも山道を走り続け……もう走れないと立ち止まったところで不意に身が震えてしまいそうな黒い気配を感じた。


 これは……あやかしの気配に間違いない。

 しかし気配だけでこんな、じ気づいてしまうようなあやかしとは一体どういうものだろう。そちらへ近づいては危険だと本能が告げていたが、せつなはそれを振り切って、気配を辿ってその場所へと向かった。

 すると不意に、山のふもとからこちらに何者かが近づいてくる気配があった。

 もしかしてあやかしが、と思ったがそうではなかった。


「こんなところに居ると危ない……っと、なんだせつじゃないか。こんなところでなにをしている?」


 それは笹塚だった。その背後には細川の姿もある。


「あ……おふたりとも……実はこの先にあやかしが……」

「知っている。その知らせを聞いたから来たんだ。お前はさっさと屯所に戻っていろ」


 そうしてふたりは走って行ってしまった。

 見る見る小さくなる背中を見つめつつ、ふたりで行ってくれたのならばもう大丈夫かと思いかけたとき。


「うわぁぁあん!」


 はっきりと、女児のものと思われる泣き声が聞こえてきた。

 これが捜していた雛の泣き声ではないかと思ったら、そのまま引き返す気にはなれず、せつなはすっかり雨を含んで重くなってしまっていた着物で、泥濘ぬかるみに足を取られて何度も転びそうになりながらもそちらへと向かった。



 そこは、古びた神社の裏手にある森だった。

 うっそうと生い茂った葉が雨にれる中で、その者はたたずんでいた。

 先の猿のあやかしのような大きな姿ではない。だが、そこから放たれる不穏な気配は、この場にいるだけで具合が悪くなってしまいそうな、強大なものだった。

 人が……立っていた。ざんばら髪で、その頭には矢が突き刺さり、背中には刀が突き刺さっていた。落ち武者があやかしになったもののようだ。がんが深く落ち込み、そこが闇になり、見ていると吸い込まれてしまいそうだった。

 そこには、笹塚と細川の姿の他に、佐々木の姿もあった……のだが。

 佐々木は既にそのあやかしとたいしていたのだろうか。肩が大きくえぐれ、鮮血が滴っていた。


「遅いぞ、笹塚、細川」


 余裕の言葉に思えて、切羽詰まった気配がある声色だった。


(え? 佐々木さんって……大きな口をたたく割に弱い……なんてわけないわよね?)


 佐々木は刀……恐らくはあやかし斬りの刀を持ち、落ち武者姿のあやかしを油断ない目つきで見ている。少しでも目を離し、隙を見せた途端に襲い掛かってくるような、そんな不穏な空気を感じる。

 会話からすると、どうやら先に佐々木がこの場に辿りついていてあやかしと戦っており、ふたりは遅れてやって来たという様子であった。

 細川と笹塚はすぐに抜刀して、佐々木と同じようにあやかしの動きに気をはらった。


 落ち武者の方は、自分に向かってくる相手が増えたというのにまったくおくすることなく、むしろ喜んでいるように思えた。かかか、と口を鳴らして、その腐りかけた目をらんらんと輝かせている。

 そのとき、しゃくり上げるような声が聞こえてきた。

 見ると、せつなが立っていた場所のすぐ近くの木陰にしゃがみ込んで震えている五歳ほどの女児の姿が見えた。


「あなた、雛ちゃん?」


 せつながしゃがみ込んで尋ねると、女児は何度もうなずき、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔でせつなを見上げ、がばっと抱き付いてきた。せつなの腕を、やっと来た助けを逃がすまいとするようなすごい力でつかんでくる。よほど怖い思いをしたのだろう。


「……結局来たのかよ。戻れって言ったのに」


 細川が一瞬だけこちらを振り返って言い、すぐにあやかしの方へと視線を戻した。


「でもちょうど良かった。その子を連れて早く逃げろ」

「は、はい……」


 そう答えて雛を抱き上げて立ち上がろうとしたとき。雛はそう重くないはずなのに、ここまで必死に走ってきたせいで疲労がまっていたのか、そのままよろけて倒れてしまいそうになった。雛を落とすわけにいかない、とかばったら倒れた瞬間に足を変な方向へと曲げてしまった。


「……つっ」


 どうやら足を挫いてしまったようだ。鈍い痛みが足に走った。

 しかし、こんなところでいつまでも座り込んでいるわけにはいかない。襲ってくる痛みに耐えて、せつなが右腕で雛の身体を支え、左手を木の幹につけてなんとか立ち上がろうとしている間に、あやかしとの戦いがはじまっていた。


 まず、仕掛けたのは笹塚だった。

 あやかし斬りの刀を構え、落ち武者へと走り込み、一気に飛び掛かっていった。

 そして、落ち武者の視線が笹塚へと向かったのを見逃さなかった細川が、すかさず落ち武者の右方向から飛び掛かっていき、佐々木は左方向から斬りかかっていった。

 三人に同時に来られたら、避けるすべはないだろう。これで勝負がついた、と思ったが全くそうではなかった。

 落ち武者は視線を正面に戻し、まず斬りかかってきた笹塚を左手で制し、続いて来た細川を右手で、手負いの佐々木は右足でり上げて吹き飛ばした。

 そして落ち武者がふぅーっと息を吐き出すと、周囲に波動が生まれ、笹塚も細川も地面にたたきつけられた。


 せつなはその光景を目の当たりにして、言葉を失った。

 最初に見たのは藤十郎と笹塚が難なく巨大なあやかしを倒している姿だった。だから、彼らはそんなふうに簡単にあやかしを倒せるものなのだと、圧倒的な存在なのだと思っていた。

 しかし、あの猿のあやかしはあまり力を持っていないものだったのだ。強大なあやかしが現れたときには彼らはこんな苦しい戦いを強いられているのだ。


(こんなの、下手したら怪我をするだけじゃ済まない、死んでしまうわ……)


 せつなは一時、逃げるのも忘れてぼうぜんとその場に立ち、彼らの姿を見つめてしまった。

 もうこんなあやかしはいいから、どうか逃げて、と叫びたかった。

 しかし彼らはすぐさま立ち上がり、臆することなく更に落ち武者に向かっていく。

 空からまっすぐに落ちてくる雨が彼らの身体をらし、足下は泥濘ぬかるみ、視界をぼやかせる。それでも、彼らはそんなことはものともせずに戦いを続ける。

 遠目にも彼らが無傷ではないことが分かる。佐々木は元から肩に大怪我を負っていたし、笹塚は地面に叩きつけられたときに左腕を痛めたのか、ぶらりと垂れ下げている。骨が折れているのかもしれない。細川は額を切ったのか血が顔をつたっていて、そして明らかに右足の動きがおかしい。


「笹塚、細川。お前たちはいったん下がっておけ。あいつは俺がやる」


 ふたりの怪我を気にしたのか佐々木がそう言うが、


「なにを言っているんですか。佐々木さんこそひどい怪我です、下がって……」


 そう細川が言った途端、落ち武者がなにかを投げつけてきた。危ない、と叫ぶこともできないせつなよりもそれにいち早く気付いた佐々木が動いて、ふたりを庇った。短刀が佐々木の手に突き刺さる。


「さっ、佐々木さん……っ」


 細川が叫んで佐々木の前に回り込もうとするが、佐々木の腕がそれを制した。


「だから下がっていろと言っただろう」


 そう言うが、強がりであることは分かっていた。

 笹塚と細川は目配せをして一旦佐々木の後ろに下がり、とりあえずは彼の援護をすることにしたようだが、それで形勢不利を解消できるのだろうか。

 一体どうしたらいいのか、自分にもできることはないかと考えていたときだった。


「……こんなところでなにをしている?」


 不意の声にびくりと肩を震わせて振り返ると、そこには藤十郎が静かに立っていた。

 いつもの優しげな彼とは違う、りんとした厳しさがあった。


「な、なにを……と言われましても」

「その子は……?」


 そしてせつなが抱えていた雛へと視線を送る。雛はせつなの胸に顔をうずめ、雨に打たれたことによって身体が冷えたからなのか、それとも恐怖のためからなのか、ぶるぶると震えていた。


「この子は、あやかしから逃げ遅れて、怪我を……」

「ならばその子を連れて早く戻れ。……と、お前も怪我をしているのか?」


 さすがに藤十郎と言うべきだろう、ただ立っているだけなのにせつなが足を挫いたことを見抜いたようだった。


「仕方ない。目立たないところに隠れて動くな。すぐに済ませるから」


 せつなをいちべつして、皆のところにゆっくりと歩いていった。

 その後ろ姿を見て、この人はこんなあやかしを前にして怖くはないのだろうかと考えてしまった。

 ひと目でどんなに切羽詰まった状況か分かるだろう。三人がかりでも、あやかしに傷ひとつ付けられていないのだ。それどころか、皆手負いで、息遣いも荒くいつ倒れてもおかしくない状況である。

 そんな中に自分が入っていってもどうにもならないかもしれない、という恐れはないのだろうか。


(私にできることは……と、目立たないところに隠れて)


 そう思うがなかなか足は動かない。安全なところに隠れる、といってもこの雨の中、女児を抱いたままでそう遠くには行けない。結局せつなは大きな木の裏に隠れた。


「ごめんね、でももう大丈夫だから少しだけ我慢して」


 雛はせつなの二の腕のあたりをぎゅっと握り締め、わずかに頷いた。

 そうは言いつつも、もう大丈夫だという根拠はなにもない。藤十郎はああ言ったが、三人でかかっていってもあやかしに傷ひとつ付けられていないのだ。今更藤十郎が加わったところで、と考えてしまう。

 しかし、自分にはなにもできない。今は信じて見守るしかない。

 せつなは木陰に隠れながら、彼らの様子へと目をやった。


「隊長……っ!」


 藤十郎に気付いたのか、笹塚が声を上げた。

 その声にはあんの感情が含まれていた。佐々木と細川も、藤十郎の登場に表情が少し和らいだ。藤十郎が来たからもう大丈夫という、そんな雰囲気を感じた。


「……酷い怪我だな」


 藤十郎は落ち武者のあやかしへとまっすぐ目を向けたまま、佐々木たちの方へいちべつも向けずに言う。


「油断しました。すみません」

「いいから、お前たちは下がっていろ」


 その言葉に従うように、三人は一旦戦線から引いてしまった。

 いや、いくらなんでもそれはないのではないかとせつなは思ってしまう。藤十郎が戦う、と言っても、それを援護するべきではないかと思ったのだった、が……。


「え……」


 それは息をむ間もない、一瞬の出来事だった。

 藤十郎が腰にある刀に手を掛けたのは分かったのだが、それから先が分からない。

 鋭い光の線が、走ったようには見えた。

 その次のせつには、落ち武者は真っ二つに分かれて、その形を失い、黒いもやとなって、霧散しているところだった。

 そして、キン、という鋭い音が響き……せつなが気付いたときには藤十郎の刀はさやに納められていた。

 一瞬の隙もない。あやかしは指一本動かすこともできずに藤十郎に斬られてしまった。


(強い……なんてものじゃない。圧倒的じゃない……)


 隊士たちが引いた気持ちも分かった。自分たちがいても邪魔になるだけだ、と知っていたのだろう。

 落ち武者のあやかしがいた場所にはもうなにもなく、まるで今までの出来事がうそのような静寂に包まれていた。

 その場所に静かに立つ藤十郎は、息のひとつも切れていない。まるで野原にある花を手折っただけのようだ。彼にとってあやかしを倒すとは、それだけのことのように思えた。


 自分の夫は、もしかしてとてつもなく恐ろしい者なのではないかと、そんなことを考えてしまっていた。

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