第二章 上手くいかない京での暮らし ③

「いくらなんでも辛辣すぎるわ、あの佐々木って人は……。あんな意地悪じゃ、誰もお嫁に来てくれないわよ」


 自身の食事も終えた頃には夜が更けてしまっていた。

 せつなは井戸の前にしゃがみ込んで食器を洗っていた。日が暮れるとぐっと冷え込み、井戸の水は手をつけたらすぐに引っ込めてしまいたいほど冷たかったが、これも私に任せられた仕事なのだからと懸命に洗っていた。


 確かに自分で食べてもあの煮物はどうかと思う。不味い、とまでははっきり思わなかったが、何味なのかよく分からなかった。酢を入れたのが失敗だったのかもしれない。しかし、疲れには酢がいいというから入れてみたのだ。

 そんなに不味いと言われるならば、誰かに料理を習ってなんとか美味おいしいと言われるような料理を、と思ったのにもう作るな、なんて。ばんかいする機会すら与えられなかった。


「なんであんな意地悪な人が副隊長なんてやっているのかしら? 年齢順なのかしら? それ以外考えられないわ」


 せつなは皿に残ったしつこい汚れを勢いよく洗っていた。


「すまないな、佐々木はあんな言い方しかできなくて」

「え?」


 不意の声に見ると、そこにはなんと藤十郎の姿があった。

 至近距離に顔があって、ぎょっとしてしゃがみ込んでいた体勢から倒れそうになってしまう。


「すまない。驚かせて」


 穏やかにほほまれ、首を横に振る以外できない。

 こんな至近距離だったのにまるで気付かなかった。佐々木への恨みが深すぎて、興奮していたからだろう。


「佐々木は口は悪いが、心根は優しい者なのだ」

「そうでしょうか、心根まで意地悪なように思いますが……と、失礼しました」


 思わず本音を漏らしてしまい慌てて口を押さえると、藤十郎はぷっと噴き出した。


「まあまあ、そう言わないでくれ」

「あ……いえ、失礼しました。お世話になっている先の方をそのように言うのは好ましくありませんでしたね」

「いや、そこまで固くならなくてもいい。そうだな、気持ちは分かる。佐々木の優しさは分かりづらいから」


 そうは言うが、佐々木の優しさは人によるのではないかと思う。藤十郎や隊士に対しては優しいところも見せるだろうが、せつなのような、彼にとってよく知りもしない、しかも自分の職務にはなにも関わりもないような者には冷たいように思える。


「そうだな、佐々木の仕事はみんながきちんと働いているかを監視することだから、ある程度厳しいのは仕方がないのだ」

「では……厳しいのは職務上だけで、仕事から離れたら実はとても優しい人だとか?」

「……ああ、いや。佐々木は規律や伝統を重んじる者だから、家族や親族に対しても厳しかったな。まあしかし、部隊の中には佐々木のような者も必要なんだよ」


 苦笑いの藤十郎が言っていることも分かる。

 分かるけれど、あんな厳しい言い方をしなくても、とはやはり思ってしまう。

 ふと隣に気配を感じてそちらを見ると、いつの間にかシロがやって来てせつなの隣に座っていた。


 しかしその目はせつなを見るのではなく、藤十郎のことを見ている。その目が、なぜか懐かしげなものに見えた。

 シロは藤崎家で飼われていた犬である。

 藤十郎はシロの存在に気付き、そしてあやかしであることにも気付いていた様子だが、それ以上の反応は示さなかった。実家に飼われていた犬なのに、と不思議に思っていた。


 しかし、もしかして藤十郎が京に出てから飼われた犬だったのかもしれない。そうなるとあまりみがないのだろうかと思っていたが、そういえば以前は藤十郎は盆と正月にはおくさわに戻っていたのだ。全く知らない、ということはないだろう。

 藤十郎はふと笑みを浮かべてシロの側へとやって来てしゃがみ込み、触れられないのに、シロの頭をでるような仕草をした。


「君は、あやかしが怖くないのかい? この子はもうこの世ならざるものだろう。そんな犬を引き連れて……。普通なら怖がって、はらってもらおうとしようとするものだと思うが」

「そのようなものでしょうか? この子は全然悪さはしませんし、ただ、私について来ただけで」


 シロは藤十郎に会いたいからついて来たのかな、とも思ったのだが、藤十郎のこの反応を見るに、特別シロと縁があるようには思えない。犬好きが、犬がそこに居たからかわいがっているような、そんな反応だ。


「あやかしとなったからには、なにかこの世に未練があるように思えます。私は迷っているあやかしを天に送るような力はないのですが、なにかあるのならば一緒に探してあげたいんです」


 以前にせつなの前に現れた幽鬼が、話を聞いてあげただけで満足して天に昇っていったことがあった。死後あやかしになった者はその未練を果たせれば姿を消すのだろう。せつなはシロにずっと居てほしいとは思うが、なにか望みがあるのならばそれをかなえてあげたいとも思う。


「……うちにも同じような白い犬がいたんだ。名前はシロといった」

「シロ、ですか。藤崎家では代々、犬には同じ名前を付けていたんですか?」

「いや。そんなことはない」


 なぜそんなことを聞くのか分からない、といったげんな表情を向けてきた。


「その子もシロと言います。お墓にそう名前が書いてありました。奥沢の藤十郎様のご実家から私についてきたのです」

「……なんだって?」


 怪訝な表情をこちらに向ける藤十郎が、どうしてそんな反応を見せるのか分からず、こちらが戸惑ってしまった。


「この子が、シロだって……?」

「はい……。違うのでしょうか? お墓にそう書いてあったので、てっきりそうかと。藤崎家では私の他にあやかしの姿がそうはっきり視える方がいらっしゃらず、シロの霊鬼がいる、なんて言ったら奇妙な顔をされそうだったので、藤崎家の人々に確認はしておりませんが」


 では、シロの墓の側にいたこの子はどこの犬なのだろう。

 シロと縁があって、シロの近くにいたくて寄ってきた子だろうか。


「いや、まさかシロが……確かにシロは私が飼っていた犬だが、私が故郷に居たときには姿を見かけたことがなかった。まさか、死んでもなおあの場所にとどまっていたなんて」

「そうなのですか? 初めて見つけたときにはなんだか寂しそうな顔をしていましたので、誰も供養していないから寂しいんだと思いまして、それで毎日お墓に水を」

「君が、毎日水を……?」

「ときどき花も手向けたら喜んで。そういえばそれからでしょうか。ときどき私について歩いてくれるようになったのは」


 シロは引き続きぱたぱたと緩やかにしっを振りながら、藤十郎のことを見つめている。

 藤十郎は、そんなシロのことをなぜか切なそうなひとみで見つめている。シロとの間になにかあったのだろうか、と勘ぐりたくなるような雰囲気である。


「では、この子はやはりあのシロなのか?」

「恐らく……そうではないのでしょうか? 藤十郎様と会えてとてもうれしそうです。そんなに嬉しそうな顔をしたことはありませんよ」

「そう、なのか……」


 そうなのだ。

 このシロの反応を見るに、ようやく長く別れていたご主人様と会えた、というようなものに思える。藤十郎の側に付けば、ずっと従順についていくような気がする。


「……シロには悪いことをした。恨まれているのだと思っていた」

「そんな様子はありませんね。優しい主人に再会できて嬉しがっているようにしか」

「優しい……? 私が?」


 そうつぶやいてシロの目をじっとのぞき込む。

 ひとりと一頭の間になにか言葉にならないやりとりが行われているような気がした。


「シロは……いぬがみにしようとした犬だった」


 不意に藤十郎がそんなことを言い出した。


「狗神、ですか? それは……」


 あまり穏やかなことではない。

 普通の犬を狗神とするには、とても残酷なことをしなければならないのだ。

 せつなはその方法について、実家にあった書物を読んで一部だけは知っている。一部、だけなのはその残酷さゆえ、それ以上読むことをしなかったからだ。

 狗神になれば、式神として使役して、あやかしとたいするときに助けになっただろう。藤十郎は術士である。より強大な力を得ようとするとき、式神の力を得ようと思うのは普通のことであろう……きっと。せつなは術士の世界のことを、それほど詳しく知っているわけではないけれど。


「しかし狗神にすることはかなわず、命を落としてしまった」

「それは……」

「私が殺してしまったようなものだ」


 そうして藤十郎は切なげに瞳を伏せた。

 しかし、そんな藤十郎を見てシロは心配そうに鼻を鳴らすのだ。


「だからシロは、私のことを恨んでいるのだと思っていた」

「いえ、そんなふうには見えません。藤十郎様を慕っているように見えます」

「そうだろうか……?」


 そうして悲しげな瞳でシロを見つめる。シロはそんな藤十郎を見て、尻尾を振り続けていた。


「せつ……。お主には礼を言わねばならぬようだ」

「お礼なんておおです。私はただシロを連れて来ただけですから。ご主人様に会えてよかったわね、シロ」


 そう呼びかけると、シロは今度はせつなの方を見てぱたぱたと尻尾を振った。ここまで連れて来てくれてありがとう、と、そう言われているような気がする。


「どうやらお主には、あやかしをるだけではなく、不思議な力があるような気がする……と、お主もしかして……」

「え?」


 藤十郎はなにかを言いかけたが、そのまま口を閉ざしてしまった。気になったが、こちらから聞くことができないうちに、恐らくは今言いかけたことと別の話を始めてしまった。


「ところで、シロはもうすっかり君に懐いているようだ」

「え……そうでしょうか?」

「シロ、これからお前の主人はせつだ。せつのことを守ってくれ。私から言わなくても、もうそうしているようだが」


 シロは了解したというように藤十郎の瞳をまっすぐに見つめて、ふんと鼻を鳴らした。

 すると藤十郎はもう一度シロの頭を撫でるような仕草をしてから立ち上がって、母屋の中に入って行ってしまった。

 残されたせつなは今までのやりとりを思い出してしばしぼうっとしてしまったが、やがてかくせいし、残った食器を洗った。

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