第二章 上手くいかない京での暮らし ①

「……寝言を言うのは夜だけにしろ。どうしてお前をここに置かなければならない?」


 は仁王立ちで腕を組み、板張りの床に座っているせつなを見下ろしていた。

 そんなににらまなくても、とやるせなさを感じてしまう。

 本当は屯所を訪ねて、とうじゅうろうに取り次いでもらい話をしようと思っていたのだが、隊長のお手を煩わせることではないと佐々木が出てきた。せつなとしては一番苦手意識を持っている相手で、その人にこんな頼みごとをしても受け入れられるわけがないと知っていたが、これ以外思いつく手がないのだ。せつなは必死に頼み込んでいた。


「昨日こちらに置いていただいたときに、下働きが不在であると聞きました。これほど大きなお屋敷で、隊士様たちが七人も暮らしてらっしゃるというのに、下働きのひとりもいないとはご不便なのでは?」


 第八けいたいの屯所は元は公家屋敷だったが、帝が京から離れたことで住まいを移し無人になったところを借りているとのことだった。それゆえかなりの広さで、手入れも大変だと思われた。


「だから働かせろと?」

「ええ、そうです。私は藤十郎様……第八警邏隊の方にあやかしから助けられた身です。せめてもの恩返しをしたいと」

「駄目だ。そんな恩返し、むしろ迷惑だ」


 佐々木は無情にもそれを却下した。けんもほろろである。


「そうですか……ですが」


 せつなはわざとらしく大きく息を吐き出した。


「私の身にもなってください。藤十郎様の奥方様に、どうか奥沢にお戻りくださいとの文をお預かりしてこちらにやって来たのです。『断られました、藤十郎様は奥沢には戻らないとのことです』とすぐに帰って告げれば、奥方様に怒られてしまうかもしれません。何日も粘って、頼み込んだが無理でした、ということにしたいのです」


 そしてせつなはうぅっと声を詰まらせてみた。


「どうか」


 せつなは三つ指をついて、佐々木に頭を下げた。


「どうか私の身を哀れと思われるのならば、こちらにしばらく置いてください。どんな仕事でもします」

「駄目だと言っている」


 佐々木は全く聞く耳を持ってくれない。

 やはりこの人に頼んでも無駄であった。もう諦めるしかないのかと思ったとき。


「でもその娘、少し可哀想ではないですか?」


 近くを通りかかった隊士が声を掛けてきた。初めて見る顔の中肉中背の男だった。


「なんだ、ほそかわ。今はこの娘と話している。口を挟んでくるな」

「それはそうなのですが、佐々木さんのその迫力でそんなことを言われたら気の毒ですよ。きっと並々ならぬ決意があってこちらにお願いに来ただろうに」


 細川と呼ばれた男は、佐々木の横に座ってあっけらかんとした態度で言う。


「お前は新しい下働きが欲しいだけではないか」

「それはそうですよ。そろそろひと月程になりますよね、前の下働きが辞めてから。佐々木様はいいです、副隊長というお立場ですから。掃除も炊事も洗濯もする必要はないでしょう。下働きをなくして困っているのは俺のような、隊の下の人間です。下働きの代わりの仕事が増えて困っています」

「別に、お前にそんな雑事をやれとは言っていない」

「言われてはいません、ですが、誰かがやらなければならないことです。食べるものはご近所からおすそけをいただけるので、飯だけ炊けばなんとかなります。しかしその他の掃除や洗濯は、俺たちが本来の仕事の合間にやっています。佐々木さんはよく下働きの者に言っていたでしょう? 家の汚れは心の汚れである、と。住まいが雑然としている状態では、あやかし共に打ち勝つ強い精神は保てない。俺もそう思います。それに、ほこりだらけの住まいに俺たちはともかく、隊長を住まわせるわけにはいかないでしょう?」

「まあ、それはそうだが……」

「前に働いていた者は、屯所にたびたび現れるあやかしに我慢ができなくなって辞めたと聞いております。そのうわさがあり、なかなか働き手が見つからないとも聞きました」

「え? そうだったのですか?」


 せつなが声を上げると、細川はこちらに顔を向けてわずかにうなずいた。


「それから……そこの軒先にいるのはお前の犬か?」

「はい、そうです」

「この娘が連れている犬、あれがあやかしだとは佐々木様も気付いているでしょう?」

「……ああ、まあな。あやかしの犬を連れているなんて、奇妙な者だとは思っていた」


 そう、シロは実はあやかしであるのだ。

 シロの姿が視える者はふじさき家にはおらず、いつも寂しそうにしていたのを見かけたせつなが話しかけたら懐いてくれたのだ。

 せつながたまに近隣を散歩するときなどについて来てくれた。見ず知らずの地でまるで守られているようで心強く感じていた。


「あのっ、シロは……大人しい犬で、人に危害を加えるようなことは決してありません。藤崎家からこちらへ来るときに、心配して付いて来てくれたのです。その……まさか無理やりにはらうようなことは……しませんよね?」


 せつなが恐る恐ると聞くと、佐々木は大きく息をついた。


「人に危害を与えないあやかしを祓って歩くほど暇ではない」

「そうですか……! よかった」


 もしこちらで厄介になることになったら、シロはどうしようと心配だった。


「この女は、どうやらあやかしは見慣れているようです。どんな者が現れてもびくともしないでしょう」


 それは確かにその通りである……とは言いきれないが、普通の人よりはずっとあやかしは見慣れている。

 それにしても、この屯所にあやかしが頻繁に現れるとは知らなかった。

 あやかしとは、俗に言うようかいや幽鬼など、この世ならざるものの総称で、人に危害を加えるものもいるが、そうでないものもいる。

 特に元は人間だった幽鬼などは、ただそこにとどまっていたり、彷徨さまよっていたりするものも多い。


(あやかしが出る屯所……。あやかし祓いをしている人たちの隊だから、霊感が鋭い人ばかりでしょうし、そういう人たちを頼りにやって来るものが多いってことかしら? うぅん……私もあやかしのたぐいはなんでも大丈夫、というわけではないのだけれど)


 しかし、もし襲われるようなことがあっても、きっと隊の誰かが助けてくれるだろう。そう考えると、あやかしから身を守るという点では、この屯所は他にない安全な場所と言えるだろう。


「まあ、確かにあやかしと普通に接することができる娘は珍しい。こちらで働いてもらうには相応ふさわしい……かもしれないが」

「まことですか? ええ、私、あやかしの類には慣れています。ときどき、目の前にいる人があやかしなのか生きている人間なのか分からないことがあるくらいですから」

「…………」


 佐々木は隊士の声には耳を傾けるが、せつなの声は黙殺するらしい。

 嫌われたな、と思ってしまうが、佐々木はこういうおおな言いようが気に食わないような気配である。


「それに、この女の言う通り、しばらくこちらに置いてから隊長の故郷に帰ってもらい、隊長の意志は固く、戻るつもりはないと奥方に伝えてもらった方が説得力があるのではないでしょうか? 隊長の実家で働いている者です。そう怪しげな者ではないでしょうし」

「……お前はなにも分かっていないな」


 佐々木は深々とため息を吐き出す。


「その女は気の毒だとは思う。だからこそ、余計にここに置くわけにはいかないんだ」

「それはどういう意味でしょうか?」


 細川が問うが、佐々木は答えるつもりはないようだ。自分で考えろ、とでも言うように無言を貫く。

 これ以上食い下がっても佐々木は首を縦に振ることはないのではないかと思えた。彼はこうと決めたことは誰になんと言われても貫く者のように見える。

 ならばあきらめて、他の手段に出た方がいいのでは、とせつなは思いかけたのだが。


「では、次の下働きはいつになったら雇っていただけるんですか? 事情を知る近隣の人々が時折手伝いに来てくれますが、いつまでもそれに甘えるわけにはいかないでしょう? そろそろ、隊務にも影響が出そうで困ります」


 細川は佐々木の迫力にめげずに強い口調で言う。


「それは……今探しているところだ」

「そんなあやふやな言い方は佐々木さんらしくありません。すぐに探してくださると言うならば、それまでこの女に働いてもらってもいいのではないですか? そう長い期間ではないでしょう」


 思わぬ援軍を得て、せつなは思いっきりそれに乗っかることにした。


「そうです、ほんの少しの期間でもいいのです。三日でも、十日でも。臨時雇いだとお思いになり、どんなことでもお申し付けください」


 そうして床に額をこすり付けて、一心に頼んだ。すると頭の上からとてつもなく不機嫌な声が振ってきた。


「…………。もし万一、隊長が許可するならば俺に反対する理由はない」

「まことですか?」


 せつなが頭を上げて聞くと、佐々木はふん、と鼻を鳴らした。


「話はここまでだ。……俺は外回りに行って来る」


 そう言って少々荒い足音を響かせながら部屋を出て行ってしまった。



「……そうか、佐々木がそう言ったか」


 すぐさま細川に頼んで藤十郎の部屋まで連れて行ってもらい、佐々木に言われたことを彼に告げた。

 藤十郎は書見台に置いた書を読んでいる最中だったようだ。姿勢よく座り、なんの驚きも見せないような冷静な態度である。


「もし万一そんな話になっても、佐々木ならなんとか拒んでくれると思ったが……」


(え……?)


 思わず心の中で叫んでしまった。

 佐々木だけでなく、藤十郎までせつなをここに置くことを快く思っていないとは……いや、考えてみれば当然なのだ。せつなは藤十郎を故郷へと連れ戻しに来たのだから。

 しかしここまで拒絶されると、苦しい気持ちになってくる。


「どうしてそこまでしてこの女を拒むんですか? そもそもは隊長のご実家の小間使いではないですか?」

「それはそうなのだが」

「ならば、こちらで働いてもらうことに不思議はないと思われます。本人もそう望んでいますし。せっかく京まで来たのにすごすごと帰れないという気持ちも分からなくもありません」


 細川は屯所に下働きがいないことを快く思っていないようで、熱心に頼み込んでくれている。下働きがいないことで細川たちが本来しなくてもいい雑用をしているようであるのだから、それはそうであろう。


「分かった。働きたいと望んでいるのならば働いてもらうことに異議はない」

「で、では……」

「だが、すぐに音を上げて出て行くと思うがな」


 冷たい言いように、せっかくここで働くことを許可してもらえたのに、せつなはこの場から逃げ出したいような気持ちになった。


 だが、せっかく細川がこうして口添えしてくれているのだ。その親切を無下にするわけにはいかない。


(それに、優しいと評判の藤十郎様がここまで私……故郷の妻にそっけない、その理由が知りたいわ)


 どんなに嫌がられてもそれを知るにはここに留まるのが一番のような気がした。


「ありがとうございます」


 せつなは床に手をついて、深々と頭を下げた。


「途中で投げ出すことがないよう、精一杯務めさせていただきます」


 心を込めて放った言葉に返事はない。しばらくして頭を上げると、藤十郎は書物に目を落としたままで、こちらを見ようともしていなかった。


「よかったな。働けることになって」

「はい、ありがとうございます」


 細川に笑顔を向けるが、やはり気になるのは藤十郎のことだ。自分の妻に関わることは一切拒絶したいようだが、一体なぜ、とやはり考えてしまうのだった。

 なにはともあれ、こうしてせつなは下働きという身分ではあるが、しばらく藤十郎の側に居られることになった。

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