第一章 帰らぬ夫 ⑤

「……失礼いたします」


 不意にふすまの向こうから女性の声がした。


「はい」


 そう応じて起き上がると襖がそろそろと開き、若い女性が部屋に入ってきて襖の前に座って、襖を閉めてからこちらを向いた。


「おくつろぎのところ失礼いたします。萩原せつさま」


 髪を美しく結い上げて、鮮やかな紅を引いた、藤色の着物が似合う女性だった。わか女将おかみ、かなにかであろうか。堂々たる仕草をしている。


「当宿屋のお食事はいかがだったでしょう?」

「ええ、とても美味しくいただきました。結構なお食事を、ありがとうございます」

「満足いただけたようで、それはなによりでございました」


 女性はこほん、とひとつせきばらいをした。


「私は当宿屋の若女将で、かな、と申します」


 叶枝は三つ指をついて、深々と頭を下げた。


「実はせつ様にお話がありまして。少しよろしいでしょうか?」


 年は二十半ばくらいであろうか。

 もう結婚して子供がいてもおかしくない年齢だったが、そう思えないのは叶枝になんともいえない色香が漂っているからだろう。黒い髪をきっちりと結い上げて、白い肌に唇の紅がなまめかしい。


「はい。なんでしょうか?」


 せつなは居住まいを正し、叶枝と向き合うように座った。


「藤十郎様を故郷から連れ戻しに来たと聞きましたが、それはまことでしょうか?」


 突然我が夫の名前を出されたので言葉に詰まってしまった。

 どうして宿屋の若女将が藤十郎の名前を、と考えて、そうかひいにしている宿屋だからか、と思いついた。しかし京に住んでいるのに京に贔屓の宿屋が? と不思議には思うが。


「図星、ですわね。藤十郎様の奥方様も考えたものね。あなたのような若くて、なにも知らなそうな娘を寄越せば、藤十郎様がお考えを変えるとでも思ったのでしょうか?」


(いえ、それよりも気になるのは……。彼女は私のこと……藤十郎様の妻のことを知っていたのかしら? 隊士の方でさえその存在を知らなかったのに?)


 叶枝とどう話したらいいのか迷って、なかなか言葉が出てこなかった。その間にも彼女は話し続ける。


「申し訳ありませんが、藤十郎様を故郷に帰すわけにはいかないのです。藤十郎様には京にとても大切な使命があるのですから」

「第八警邏隊のことでしょうか?」

「ええ。藤十郎様は帝からこの京のことを直々に頼まれたのです。それは、なにを置いてもまっとうしなければならない使命なのです」

「……ええ、それは存じ上げていますが、藤十郎様は藤崎家の跡取り息子です。いつまでも京にいるわけには参りません。藤崎家の現当主様、つまり藤十郎様のお父様も、将来当主になるにあたって経験を積むために京に藤十郎様が出て行くのを許したのであって……」

「藤十郎様には弟君がいらっしゃると聞きました。彼が跡取りになればよろしいのでは?」

「そんな簡単なことではないのです」

「とにかく、第八警邏隊を率いることができるのは、この日の本にただひとり、藤十郎様を置いて他にいないのです。国家の大事に関わることなのですよ?」

「しかし盆と正月くらい家に戻っては……」

「藤十郎様のお勤めに、盆も正月もないのです」


 ぴしゃりと言われてしまい、せつなは戸惑ってしまう。まさか宿屋の若女将にここまで言われてしまうなんて。

 叶枝はそんなことも知らないのか、というようにふぅっと息をついて、こちらを侮るような視線を向けてきた。


「せつ様は、藤十郎様の奥方様とは長いの?」

「長い……とは? どういうことでしょうか?」

「奥方様の実家から付いて来られたの?」

「…………。ああ、そういうことですか……そのようなものです」

「失礼ですが、お付きを見ればその主人が分かるというものですわ。藤十郎様のご実家で決めた婚姻とのことですから、よい血筋のお嬢様なのでしょうけれど、小間使いのしつけもできないようでは、ねぇ」


(なんだか、とても失礼なことを言われている気がします……)


 そうは思うのだが、確かにその通りなのである。

 せつなは華族の血を引く娘ではあるのだが、その実、その身分に相応ふさわしい教育などは受けていない。父にも母にもしつけられたことがない。長い間、その存在をひた隠しにされていたような娘なのである。

 兄に座敷牢から助け出されてから一年ほど、女性らしい立ち居振る舞いを教えてもらったが、それも付け焼き刃的なものである。


「藤十郎様は、こちらではかなり必要とされている方のようですね」

「ええ。せつ様は明後日あさってまでこちらにいらっしゃる予定ですわよね? その間に聞いて回れば分かると思います。藤十郎様と、特殊な任務を帯びた第八警邏隊なしではこの京の町は立ち行かないと、みんな思っておりますわよ」


 ならば無理に連れ帰ることなどできない、と思ってしまう。だが、せつなもせっかく京までやって来たのだ。なんとか付け入る隙がないかとも考えてしまう。


「お話は以上です。おくつろぎのところ、失礼いたしました」


 叶枝は優雅な仕草で三つ指を立ててこうべを垂れると音もなく立ち上がり、そのまま部屋を出て行った。



     ◇◇◇



 せつなは長い間、咲宮家の屋敷の奥深くに閉じ込められていた。

 それは、しきろうと呼ぶべき場所であった。

 屋敷の敷地内にある物置にその入り口があった。その入り口から地下深くへと続く通路があり、その先にせつなが十三年間閉じ込められていた座敷牢があった。

 兄は母が死に、父が死んで当主の座を引き継ぐときに座敷牢の存在を知らされたのだという。そうしてそこには自分が知らない妹がいて、大層驚いたと後に語っていた。


 せつなは生まれて間もなく、父の手によってその牢に閉じ込められた。兄にも、他のしんせきにも、咲宮家の使用人にも、生まれた子供は死んだと言っていたようだ。事情を知っていたのは両親と、世話係のばあやのみ。せつなの父が急死し、せつなの処遇に困ったばあやが兄に事情を話したとの事だった。

 急に現れた妹である。

 しかも長く座敷牢に閉じ込められていたのである。せつなを哀れと思ったばあやが、せめて華族の娘のようにと読み書きを教えてくれたから、外の世界のことを少しは知っていたが、実際に見聞きするものは初めてのことばかりである。

 座敷牢の扉を閉めたままで、そんな妹のことは知らないふりで過ごすこともできた。


 だが兄はせつなをびんに思い、座敷牢の外へと連れ出した。今まで必要最低限しか食べさせてもらえず、すっかりせ細ったせつなにたらふく食べさせてくれた。だらしなく伸びた髪を切り、身体についたあかを全て洗い流して娘らしい薄桃色の着物を着せてくれた。外に出ても恥ずかしくない立ち居振る舞いや話し方を教え、使用人たちにも親族にも、自分の妹だと紹介してくれた。座敷牢にいたとの薄暗い事情は隠し、事情があって遠方に預けられていたと説明したのだ。

 父は、せつなが自分の子供ではないと怒り、座敷牢に閉じ込めたのだという。

 だが、自分は母の子供だから、せつなとは間違いなくきょうだいであり、妹の世話をするのは兄として当然だと言ってくれた。

 藤崎家に嫁ぐことが決まったとき、せつなの生まれや育ちについては隠して嫁いだ。向こうはとにかく血筋のいい家から嫁を迎えることを望んでいた。せつなの母も華族の血を引いていたから、華族の娘、ということに間違いはない。

 だから、これは出自を隠して嫁いだ当然の報いなのだろうか。

 夫のいない祝言、二年も顔を出さない夫。……そして妻が待つ実家には戻る気がないと語り、妻の文にも返事を寄越さない。目を通しているかも怪しいものだ。


(やはり、私のような娘が人並みに嫁いだのがいけなかったのかしら)


 せつなはほのかにともあんどんを見つめながら、ぶんぶんと首を横に振る。

 どんな生まれの娘にも幸せになる資格はある。

 今まで不幸だった分、きっと幸せが待っている。

 兄はそう言ってせつなを送ってくれた。だから信じた。きっとせつなが願ってやまなかった、人並みの幸せが待っているはずだと。今はまだそう信じていたかった。



     ◇◇◇



『藤崎隊長のことかい? あの人はなんだろうな……そう、神々しさすら感じる方だね。市井にいるのが不思議なくらいだ。頼りになるかだって? もちろん頼りになるに決まっているじゃないか!』

『……実はね、藤崎隊長には私も助けられたことがあるんだよ、あやかしに襲われそうになったときにね。驚いてすくみあがっていたところを、抱き上げて逃がしてくれたんだよ。私がもっと若かったら……なんて、ね。嫌だよぉ!』

『俺もかかあを助けられたことがあるな。火事のときにな。……え? あやかし関連じゃないのかだって? あの方はな、自分が火消しじゃなくても、困った人がいるとどんなときでも助けてくれるよ』

『藤崎隊長……。もしかしてあなたも藤崎隊長のことが好きなの! そんなの許せないわ! あなたよりもずーっと前から、藤崎隊長のことを追いかけているんだから!』


「…………。素晴らしい夫……のようです」


 せつなはひとりごちながら、卓に突っ伏した。

 甘味処の軒先にある卓だった。叶枝に言われたから……ではないが、ここに座って、隣の卓の人に、あるいは通りかかっていく人に声を掛け、藤十郎のことを聞いていた。

 最初は不審がられたが、藤十郎の話だと分かると『お、もしかして隊長にれちまったのかい?』とのように軽く言い、面白がってあれこれ教えてくれたのだった。

 その評判はすこぶるよく、悪い話はひとつも出てこなかった。

 そんなこと言って、本当は悪いところもあるのではないですか、と聞いても、とんでもない、という返答しかなかった。


(私が夫を連れ帰りに来た、なんて分かったら、叶枝さんにだけではなくいろんな人に恨まれそう……)


 夫がこんなに人々に求められている仕事をしているというのに、無理やりに連れ帰るなんてやはりできないと考えてしまう。


(そうなると、もう離縁するしかないのかしら……)


 気弱にそう考えながら卓に突っ伏して、うんうんとうなっていると。


「先ほどから話が聞こえていたけれど……」


 不意に隣の卓から声を掛けられた。

 いつの間にかそこにはせつなと同じか、少し上くらいの女性が座っていた。桜の形をした髪飾りが可愛らしい。肌が白く、きゃしゃな女性だった。


「第八警邏隊の藤崎隊長のこと……? そんなに気になるの?」


 そう言いながらせつなの向かいの席に移動してきて、卓にほおづえをつきながら聞いてきた。


「好きなの?」


 からかうように言われて、慌てて首を横に振った。


「いっ、いいえ、決してそのようなことでは……。ただ私は奥方様のために」


 そして自分は実は藤十郎の奥方のお付きで、という説明をした。こんな通りすがりに会った女性であっても、自分の本当の身分を明かすのはよくないと思ったからだ。


「なるほど。それで藤十郎様の身辺調査ってわけね」


 身辺調査、とはあまり気持ちがいい響きではない。きっと彼女も藤十郎のことを気にしていて、せつなを不審に思って声を掛けてきたのだろう。


「でも、もう帰ろうと思います。藤十郎様は、結婚は親が勝手に決めたこと、結婚するつもりなんてないとおっしゃっていましたから」

「わざわざ遠いところから来たのではないの?」

「ええ……ですが、もう全く取り付く島もない様子ですし」

「でもね、そろそろ藤十郎様もきちんと身を固めた方がいいと思うのよね。……まあ、私の勝手な意見だけれど。私たちをまもるために戦ってくださるのはうれしいのだけれど、そのためにご自身の幸せをおろそかにしているような気がして」

「藤十郎様自身がそう思ってくださるのならばいいのですが」


 せつなは苦笑いを漏らしながら、皿に残っていたおいなりさんを口に運んだ。

 それにしても、叶枝は藤十郎が結婚なんてとんでもないという言いようだったが、目の前の彼女のように藤十郎の幸せを願っている人もいるんだなと、なんだか心が温かくなった。藤十郎は本当に京の人に頼りにされ、そして愛されているのだ。


「私は、もう少し粘って説得してみたら、と思うけれど? あなたも、断られたからとすぐに帰ってはその奥方様に申し訳が立たないのでは?」


 女性はそう言い残して、せつなの卓から離れていった。

 確かにそのようなこともあるかもしれないと納得し、せつなもあれこれと考えてみた。

 周囲の評判も高く、せつな自身もとても優しい人だと思った藤十郎が、あそこまできっぱりと故郷の妻のことを否定したのだから、これはもうどうしようもないと思ったが、裏を返せば、どうしてあんな優しい藤十郎が、故郷の妻のことになるとあんなにかたくななのか気になった。


 なにか理由があるのならば、その理由を知りたい。それは京の町を護るため、みかどから直接命じられたため、実家のことなど気にしていられないという理由ではなく他の理由で、それがせつながこの結婚をあきらめられることであったならば納得して、自分が妻であるとは告げずに大人しく帰ろう。


(あ……そういえば、私が置いていただいた部屋は元々屯所の下働きの部屋だと言っていたわ。今は下働きはいないと言っていたけれど……)


 奥沢に帰ることはいつでもできる。

 ならばもっと藤十郎のことを知り、その上で離縁を受け入れようと考えた。

 思いついたならばすぐに行動したほうがいいだろう。せつなは店で会計を済ませると、そのままの足で第八警邏隊の屯所へと向かった。


     ◇◇◇


(まさかわざわざ奥沢から使いを寄越すとは。それもあんな娘を……。向こうも必死、だということだろうか)


 藤十郎は自室の前にある縁台に腰掛けて、中庭を眺めながら物思いにふけっていた。

 中庭には二羽すずめが来ていて、地面をくちばしでつついていた。今日は日差しが暖かく、風が心地よい。なにもなければうたた寝をしたいような気候である。


 実家に置いたまま、一度も会ったことがない妻のことは、まるで爪の中に入り込んで取れないとげのように気になっていた。

 妻、だという女性からの文を初めは目を通していたが、やがてたまらなくなって読まなくなってしまった。自分はひどいことをしてしまっているのに、無邪気にお帰りをお待ちしていますと書いて寄越す妻の心情を思うとつらかったのだ。

 藤十郎には結婚する気も、誰かと特別な気持ちを通わすつもりもなかった。……とある経験から、そんなものは隊務の邪魔になるだけだと考えていた。


 きっと妻に会ってしまえば、なんとかしてやりたいと思うだろう。

 しかし、自分にはそんな資格はない。結婚しても、相手を悲しませてしまうだけだ。

 実家の両親や祖母を心配させてはと思って隠していたが、第八警邏隊を率いているということは、いつどうなるとも知れない身である。そんな状態で妻をめとるなどと、まるで考えられない。


(まだ見ぬ妻には悪いが、私のことは諦めてもらった方がいい。華族という家柄だ、離縁したとしてももらい手は居るだろう。それも、夫には一度も会ったことがない、酷い夫と結婚させられてしまったとの事情ならば、次も見つかりやすいだろう。私ではない、よい相手と幸せになってほしい)


 藤十郎はそのようなことも考えて、妻を迎えると聞いても祝言にも出ず、それ以来実家へは戻っていない。

 妻の使いだというあのせつという女性には、藤十郎は血も涙もない、じんも情けがない冷たい男と思われた方がいい。

 あの快活な女性だったら、冷たい夫に離縁された妻を護って、あんな人のことはさっさと忘れて幸せになりましょうと、新しい嫁ぎ先でも妻を支えてくれるだろう。


(だが、まさか京で迷子になっているところに出くわすとは。少々失敗したが……)


 しかし、これ以上の情けをかけるわけにはいかない。せつにはこの上なく冷たい男と思われなくては。そして、そんな冷たい夫には取り付く島もないと妻に訴えてもらうためにも一刻も早く奥沢に帰ってもらわないといけない。

 藤十郎は澄んだ空にかかった鮮やかな薄雲を見つめながらそう決意した。



 ……が、生来の優しい性格から、人に冷たくしたことなどない藤十郎は、当然せつなにも冷たい態度を取りきれないのであった。

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