第一章 帰らぬ夫 ④

「昨夜隊長が助けた、こうの真ん中で食いすぎでぶっ倒れていた娘を連れて来ました」


 この世で一番恥ずかしい紹介をされてしまった。


(……この佐々木って人、なんだかとても底意地が悪いわ。それに倒れていたわけではなく、ただ座り込んでいただけなのに)


 朝になってから、せつなは一宿一飯の礼くらい述べよ、と言った佐々木に連れられて、藤十郎が居る部屋までやって来た。

 畳敷きの部屋に正座をして、緊張した面持ちで待っていると、間もなくして現れたのが目の前にいる藤崎藤十郎、せつなの夫である。

 藤十郎は男性にしては線が細く、見目麗しい人だとは聞いていた。

 しかし、弱弱しい人ではない、と。剣術は免許皆伝であり、柔道は五段である、と。自分よりも身体が大きな男が酔っ払って川に入っておぼれそうになったとき、なんの躊躇ためらいもなく川に入っていき、男を楽々と担ぎ上げて助けたのだと。


(故郷の人たちの話……絶対におおに話しているだけだと思っていたけれど、そうではなかったわ。この人がどんな人なのか、言葉を尽くしても全てを説明するのは難しいでしょうね)


 仕草まで美しく、ただ部屋に入ってきて、座っただけなのに目を奪われてしまう。座ったなり、長い前髪が目にかかったのをさりげなくはらう仕草まで見入ってしまう。


(これ以上こつ者だとは思われたくない。せいで、大人しく、美しく……は難しいかもしれないけれど。妻として恥ずかしくない女性として振る舞わなくては)


 せつなは姿勢を正し、襟元を整えた。


「結局昨日のうちに目的の場所にたどり着けなかったんだね。それはさぞや難儀していることだろう」

「い、いいえ。難儀というほどでは……」


 その切れ長の目の奥の黒い瞳を見つめていることができなくて、ついつい目をらしてしまった。


「迷っているというならば、その場所まで隊士の誰かに案内させよう。住所は分かっているのか?」

「ええ、実は、私が訪ねて来たのはこちらなのです」


 そうしてせつなは懐から文を取り出した。

 故郷からわざわざ自分を訪ねて来たと知れば、感激して、今までの冷遇を悔いてくれるかもしれない。

 せつなはそんな期待をしていた。この文は、藤十郎に会ったら渡そうと思っていた文である。二年も待ち続けたその気持ちを、上手うまく話せるかどうか不安があったために書きつづった文である。まずはそれを読んでもらい、それから身分を明かし……と考えていた。

 せつなの文を佐々木が引っ手繰るように奪い、静々と藤十郎に差し出した。彼はそれを受け取ると、その形のよいまゆを少々引き上げた。


「藤崎せつな……」


 藤十郎は文を裏返し、そこに書かれていた名前を呼んだ。


「藤崎せつな? 隊長のしんせきの方かなにかですか? 伺ったことがないお名前ですが」


 佐々木が言うと、藤十郎は文の差出人の名に目を落としたままでつぶやく。


「私の妻だ……」


 その言葉に、なぜか佐々木は腰を抜かさんばかり驚いた表情を浮かべる。


「隊長……」


 佐々木は藤十郎の顔色をうかがいながら慎重な口調で言う。


「結婚されていたのですか?」


(ええ……)


 まさか妻の存在まで周囲に知らせていなかったとは予想外だった。

 想像していた以上の不興ぶりに胸が痛くなってくる。まるで自分の存在の全てを否定されているように感じる。


「親同士が決めた結婚だ。私は結婚したつもりなどない」


 冷たく、そしてきっぱりと言い切られた言葉は、せつなをらくの底へと突き落とした。


(ああ……そうですよね)


 せつなはゆるく笑ってしまう。

 そう、分かっていたのだ。少したりともこちらに気持ちがあるならば、二年も顔を出さないはずがない、と。文の返事くらい寄越すはずだ、と。

 気持ち。会ってもいない者に、とは思うが、せつなは文だけはたくさん出していた。

 こちらのことを分かって欲しい、そんな一心で。自分のことも書いたし、故郷のことも書いた。奥沢で初めての夏祭りのことだとか、蛍を見に出かけたこと、山々を彩った美しい紅葉のこと。心を込めて、何度もすいこうして。使いに文を託すときには、どうか自分の思いが藤十郎に届くようにと願いを込めて手を合わせて……。

 その全てを、自分とは関係のない女が書いた文だと黙殺したのだろう。


「困っているのだ。私は結婚などする気はないのだが、親は全く私の気持ちを分かってくれない」


 昨日、京の町中で心細くしゃがんでいたところに、優しい言葉をかけてくれた人だとは思えなかった。

 それほど実家に居る妻は、藤十郎にとって厄介な存在なのかと悲しい気持ちになってきた。本当は知っていたのだが、実際に会ってみた夫、藤十郎が思っていた以上に優しい人だったから、もしかして取り付く島があるのではないかと期待してしまった。


「で、お前は?」


 佐々木に冷たく聞かれて、混乱したせつなはがばっとひれし、額を畳にこすりつけた。


「私は……あなた様の奥方様から文を預かって参りました、はぎわらせつと申します。奥方様のお付きをしております……」


 とっにそんなうそをついてしまった。

 ここまで嫌われているのに、その妻が自分だとはどうしても言い出せなかった。

 自分は藤十郎の妻であるせつなから文を預かって来た名もなき小間使い。その文を渡し、返事をいただいたらすぐさま故郷に帰ります、ということにしようと決めた。妻であることは明かさずに、このまま奥沢に帰った方がいいかもしれない。


(それにこんな立派な方なのに……私はこんな旅疲れた姿で)


 自分が惨めで仕方がなく、それを認めたくなくて……自分自身を否定してしまったのだ。


「その……奥方様は……とても藤十郎様のことを心配されております。せめて文でもよいので、その近況を知らせていただきたい、と申しつかって参りました」

「文を届けにわざわざ奥沢から?」

「はい。いくら文を出しても返事がないと。奥方様はそれはそれは嘆かれておりまして。さすがに二年です。待ちきれなくなってしまったようで、私を使いに出して、どうにか返事をもらってくるようにと」

「随分と無理を言う妻で申し訳なかったな。お主のような娘を供もろくに付けずに、ひとりきりで使いにやるとは」


(……い、いけない)


 これではまだ見ぬ妻の評価が下がってしまう。……いやいや、その妻は自分であり、その評価はこれ以上下がらないほどに低いのではないか、とだんだん混乱してきた。


「とにかく、この文はいったん預かる」


 藤十郎はせつなの文を自分の懐に収めた。


「しかし、私はいくら言われても故郷に帰るつもりはない。私にはなにも期待するなと妻に伝えて欲しい。お主にはこんなところまで悪かったな。誰かに申し付けて宿を取らせるから、そこで旅の疲れをやしたら故郷に帰るがいい」

「……いえ、ですが……」

「佐々木も、私の実家のことで手間を取らせて悪かった」


 藤十郎はこちらの声など耳に入っていないというように音もなく立ち上がり、そのまま部屋から出て行ってしまった。

 藤十郎のあまりにそっけない態度に、覚悟していたはずなのに胸が痛んだ。



     ◇◇◇



 せつなが結婚したのは十五のときである。

 そのときはまだなにも知らない娘で、結婚できたことだけで喜んでいた。

 父に疎まれ、屋敷の地下のしきろうに閉じ込められていた自分には、そんな人並みな幸せをつかめるとは思っていなかったから。

 祝言に夫がいないことには驚いたが、京で立派な仕事をしていて、帰れないのだと聞いてそれならばなかなか戻れないのも仕方がないことだと自分を納得させた。本当は寂しくて仕方がなかったが、それを表に出さないように、なんでもないことのように、理解ある妻を装った。


 それが一年経ち、二年経ち……いくら待っても夫は姿を現さない。

 自分は生まれ育った土地を離れて、こうして嫁いできたというのに。姿も知らない夫をずっと慕ってきたというのに。それを全てなしにされてしまう。

 自分が耐えてきた二年という月日をなしにされてしまうということが、我慢できなかったのである。


(でも……これからどうしたらいいのかしら……)


 せつなは宿屋の天井を見つめながら今後のことについて思いを巡らせていた。

 自分を妻の使いだと思い込んだ藤十郎は、せつなに悪いと思ったのだろうか。小間使いの女には充分過ぎるほど素晴らしい宿屋だった。共同のは広く、湯船もゆったりとした大きさで、そういえば旅の汚れを充分に落とさずに藤十郎に会ってしまったなと不意に思い出して、今更手遅れではあったが念入りに身体を洗った。

 そして、宿屋の食事もとても素晴らしいものだった。先のおいなりさんのことがあったので、さすがに満腹になるまでは食べなかったけれど。


(京はいいところね、美味おいしいものがたくさん食べられて。奥沢のような田舎町じゃなくて、こちらで暮らしたいくらい)


 せつなの実家であるさきみや家は、華族の家系で父と母はいとこ同士で結婚したという。華族の血を濃く守りたいということだと聞いている。

 元は京にも住まいを構えていたが先々々代、つまり曽祖父が歌人で、にぎやかな京よりも穏やかな地で暮らしたいと京にある住まいを引き払って、の国にある萩原を本邸にしたとのことだった。だから京にはせつなの親戚がいるだろうが、まるで面識がないので頼ることはできない。


 萩原は田舎町で、家との距離は離れているが人との距離がとても近い。そして華族の家で起こったことに人々は興味津々なのだという。せつなが離縁されてしまった話などまたたく間に広まり、自分はもちろん兄も、兄嫁も、肩身の狭い思いをする羽目になるだろう。

 本来ならば順番が逆だが、兄はせつなの嫁入り先を決めてから自分の縁談をと考えていたようで、周りからの勧めを一切断っていたが、ようやく去年結婚したのだ。

 兄嫁には会ったことがないが、兄が寄越した文によると、自分にはもったいないくらいの妻、だとのことだった。兄はこれから新しい家族を作ろうとしている。そんな兄の幸せに、水を差すようなことは決してしたくない。


 せつなにすぐ次の縁談話があればいいが、離縁された女と結婚してくれる物好きはいないだろう。兄は仕方がないと笑ってくれそうだが……それに甘えるわけにはいかないし、兄嫁や兄嫁の実家はそれを許さないだろう。

 あんなに冷たくされてしまって気持ちがくじけたが、やはりもう少し粘ってみるべきだろうかと考える。


 せつなとしては、このまま藤十郎の妻でいることが最も望むことなのだ。たとえ向こうに気持ちがないにしても、形だけでも、妻という座に居続けたい。

 だが、もし藤十郎に他に思う人がいて、その人と結婚したいと考えているとしたら話は別である。人の幸せを邪魔する気はない、自分の事情があるにしても、そこはそっと身を引くのがいいだろう。その辺りも確かめたいと考えていた。

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