第一章 帰らぬ夫 ③

「……病気ではなく食い過ぎだって? それであんな道ばたで座り込んでいたのか? いい度胸をしているな」


 いい度胸……とはもちろん褒めているのではなく、侮られていることが分かる。

 彼らの隊の屯所に着いたとき、なかなか思ったように歩けなかった様子のせつなを気にしてなのか、具合が悪いなら医者を呼ぶかと言われてしまったので、食べ過ぎただけですと、ついつい本当の事情を話してしまったのだ。

 すると、副隊長だという佐々木はとてもあきれたような顔になって先ほどの言葉を吐き出したというわけだ。


「あの……お恥ずかしい話ではありますが、長旅の末に京にたどり着きまして。疲れ果てているときに好物のいなり寿司の吊下旗を見つけまして、それが美味おいしすぎて……ついつい食べ過ぎてしまったのです」


 自分の脚で本当に京までたどり着けるのだろうか。

 そんな不安があり、また旅の途中で満足に食事がとれなかったこともあり、せつなはすっかり飢えていたのだ。それが京にたどり着けたあん感から、つい食べ過ぎてしまい、その結果、もう一歩も歩くことができなくなった。そして、人目につかない裏路地でしゃがみ込んでいたのだった。


「ならば心配など不要だな。この部屋を貸してやる。本来は下働きの部屋だが、今は空いているから勝手にしていい。布団? 道ばたにいるよりもマシだろ?」


 佐々木は厳しい言葉を吐き捨てて、せつなを屯所の玄関近くにある小部屋に置いて行ってしまった。

 こうして呆れられてしまうことが分かっていたから、恥ずかしくて言い出せなかったのである。しかし、それを知られたくないからと医者まで呼んでもらうことはできない。


(それに言われるように道端にしゃがみ込んでいるよりも大分ましだわ。疲れから眠くなったけれど、眠ることができずに難儀していたもの。硬い床で寝るのは……慣れているし)


 そしてせつなは板張りの床に横になり、お腹に手をあてて、自分が食べたものがすっかり消化されることを待つことにした。

 朝になったらまずこの住所へと行かなければならないと懐から文を取り出して眺めた……が、行灯あんどんの光もないため文字は読めなかった。ため息をついて懐に文を戻し、寝返りを打ったところで。


「うわっ、な、なに?」


 せつなの横にしゃがみ込み、自分の頰に両手をあてつつこちらを見下ろしている男の存在に気付いた。

 白い着流し姿の、燃えるような赤い髪をした男であった。せていて、立ち上がると背が高そうだ。


「いやあ、屯所に珍客が来たと聞いてのぞきに来たんだよ」


 男はのんびりと言いながら、なにか珍しいものでも見るような目つきでせつなを見た。


「こんな夜中に裏路地で座り込んでいたんだって? しかも、てっきりあやかしに驚いて腰を抜かしていると思ったのに、お腹がいっぱいで動けなかったって?」


(そんな恥ずかしい事情を人に話してしまうなんて……あの佐々木って人は……)


 少々憎憎しく思ってしまったが、事実なので仕方がないだろうか。


「遠いところから来たって聞いたけれど、君の故郷ではみんなそんな感じなの?」

「いえ、そんな。そもそもこんなにお腹いっぱい食べることはありませんし……。京の食べ物が美味しくて、つい」

「…………。ふぅん」


 さして興味もないようにつぶやいて、しかし、まだせつなの側から離れる気配はない。


「見たところ……そんな貧しい家の娘には見えない。そんな娘が供も付けずにどうして?」

「供はいます。シロが付いてきてくれました」

「シロ……?」

「犬です。忠犬なのです」

「犬だって?」


 そして男はたまりかねたというように噴き出した。


「面白い娘だな。そうかそうか、犬をお供にわざわざ京まで。で、なにをしに来たの?」


 実は夫を連れ戻すために、と言いかけてその言葉を飲み込んだ。

 そうなると、二年も夫を待ち続けているという事情を話さなければならない。それは気が進まない。せつなを哀れな妻、夫をひどい男と思わせてしまうだろう。


「そうですね、少々雑事がありまして。ですが安心してください、朝になったらすぐにここを出て行きますので。これ以上の厄介事を持ち込む気はありません」

「いや、そんなことを言っているわけではないのだが」

「住所も分かっております。そこに行けば済む話なのです」

「住所も分かっているのに、今日はそこへ行かずに宿はどうするつもりだったんだ?」

「それはおっしゃる通りなのですが……」


 せつなは苦笑いを漏らすことしかできない。

 意気込んで京に来たはいいものの、いざ夫に会うとなるとしりみしてしまったという事情は話せない。

 優しい……と評判の夫だったが、せつなに対しては違うかもしれない。なにしろ、出した文の返事も寄越さないのである。酷い言葉をぶつけられてしまう可能性もある。お前のような者のことは知らないと、すぐさま追い返されてしまうかもしれない。

 そんなことをうつうつと考えて暗い気持ちになってしまい、そしてつい食べる方へと気を向けてしまった。挙げ句、この失態である。自分が嫌になってしまう。


「まあ、よく分からないがなにかあったらうちの隊長に頼ればいい」

「隊長……。ああ、そうです。その方に助けていただいたのです。見も知らぬ私のことを気にかけてくださって、きちんとお礼を言いたいです」


 彼が助けてくれなかったら、今頃せつなはあの白猿のお腹の中だったかもしれない。


「あの、お名前はなんとおっしゃるのでしょう?」

「隊長の名か? 藤崎藤十郎という」

「ふ、ふじさきとうじゅうろう……!」


 思わず立ちあがり、そのまますぐさま立ち去りたい気持ちとなる。

 藤崎藤十郎。

 それはせつなのまだ見ぬ夫の名前である。


「隊長はとても素晴らしい人だ。困っている人を見ると放っておけない、正義感にあふれた人なのだ」


(……ですが、故郷で困っている妻のためにはなにもしてくれません……)


 それを考えると複雑な思いになってしまう。


「まったく性格が違う我らが隊としてまとまっているのは、藤崎隊長がいるからだ。そうでなければこの隊は、すぐに方向性の違いから解体しているだろうな」

「あの……この隊は一体なにをしているのですか? 警吏とも違う、あやかし退治を請け負っているような」

「……ああ、そうか君は京へ来たばかりだったんだ。ならば知らなくても無理はないな」


 男はしゃがみ込んでいた体勢から一度立ち上がり、板床の上に正座した。


「我らは第八けいたい

「第八……警邏隊?」

「ああ。第一から第七警邏隊は京の町の警備にあたっている隊なのだが、第八警邏隊は少々違う任務を帯びている。この京にばっするあやかしを退治する任務だ」

「あやかしを……退治ですか?」

「俺はその一員で、はしもとと言う。藤崎隊長を筆頭に、七人の隊士から成る。今はひとり故郷に戻っているから、六人だがな」


 そういえば、我が夫には昔から不思議な力があったとは聞いたことがあった。

 しかしまさか京で、そんな部隊の隊長をしていたとは初耳である。みかどから勅命を受けて京の町をまもる、人に頼られるような立派な仕事をしている、とだけ聞いていた。


「……ああ、しかし表向きはあやかし退治をしているということは隠している。警吏組織の一部隊ということになっているのだ。お前には我らがあやかしを討伐しているところを見られてしまったようだから今更誤魔化しようがないだろうし、京に住む者は皆知っていることだ。しかし、故郷に戻ってそれを周囲の者に話すようなことはできれば避けて欲しい。が、お前のようにぼんやりとした者が話しても誰も信じてくれないだろうがな」

「ぼんやり……しているでしょうか、私……」

「そうだな、こんな夜中に腹がいっぱいだからと道端に座り込んでいるような者は少なくとも京にはいない」

「は……い。そうですよね。本当にお恥ずかしいです……」


 嫁ぎ先にも実家にも知られたくないことだった。ましてや、自分の夫には決して知られたくない。


「心配しているのだ。京はお前が住んでいた田舎とは違う。ぼんやりしているとすぐに悪い奴につけいれられるぞ」


 そうしていたずらっぽく笑う。

 会ったばかりだが、きっといい人なのだろうと思う。


「それにしても……京にはそんなにたくさんのあやかしが居るのですか? いえ、故郷ではそんな日常的にあやかしをる機会はなかったもので」


 実はせつなはいわゆる視える体質なのであった。そんな自分を奇妙に思ったこともあったが、それを相談できるような人はいなかった。


「……七年前、帝が東へと住まいを変えてしまったからな。あやかしたちの動きを封じていたかなめを失った。そりゃ、あやかしの数も増える」


 江戸から明治へと世が変わり、江戸幕府が解体し、元江戸城は帝が住まう宮城となった。

 初めは帝は京にとどまる予定であったのだが、上の方で色々な事情があったのであろう、今から七年ほど前に住まいを移した。そのときの京の人々の嘆きようはすさまじいものだったと、田舎育ちのせつなでも聞いたことがあった。


「だが、あやかしが増えてしまったことを公にはしていない。京や、その周辺に住む民が混乱しては困るからな。知られぬうちに我らが討伐しているという訳だ」

「とても大変なお役目なのですね。それは分かりましたが、見ず知らずの娘にそこまで話して大丈夫なのですか?」


 せつなが聞くと、橋本は『あ……』と声を漏らした後、少々ばつが悪そうな顔をした。


「それもそうだった。もう黙ろう」


 橋本は立ち上がり、部屋から出て行った。

 不思議な人だったなと思いつつ、ひとり部屋に残されたせつなは、急に色々なことがありすぎて、そして色々なことを聞きすぎて……夫が第八警邏隊なんてものに所属しているだとか……京は多くのあやかしが跋扈する地であっただとか……頭がいっぱいで破裂しそうだった。


(……今更あれこれ考えても事態が変わることはないし、今はゆっくりと身体を休めた方がいいわね)


 なにかあったときにあまり悩みすぎないのはせつなの長所であろうか。今まで自分の力ではどうにもならない理不尽にさらされることが多くて、そうあきらめる癖がついてしまったのかもしれない。

 月明かりが差し込む見知らぬ小部屋でひとみを閉じると、間もなく意識を手放した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る