第一章 帰らぬ夫 ②

 慣れない山道を歩き続け、途中で何度も人に道を聞き、なんとか街道を通って京までたどり着けたのは、おくさわにある藤崎家を出てから五日後のことだった。

 通りの向こうまで見通せる長い大路の左右に並んだ建物、行き交う多くの人々に圧倒されてしまい、とんでもないところに来てしまったと戸惑いつつも、今まで自分が居た場所とはまるで違う光景に目を奪われた。


(私が暮らしていた所と地続きの場所にこんなところがあったなんて……)


 せつなが今まで暮らした場所は、実家も、藤崎家もどこか閉鎖的な雰囲気だった。

 だが京は違う。まるで異世界に来たようだ。

 通りすがっていく、自分と同じ年くらいの女性を目で追う。

 緑地に白い花模様が入った着物を着て、紺色のはかまをはいていた。髪を高いところで結い上げて、おん色の風呂敷を持って、りんとした空気をまとってさっそうと歩いている。世の中にはこんな女性も居るのだと、あこがれにも似た感情を抱く。

 それに比べて……自分は華族の血を引くはずなのにとても惨めに感じた。五日も歩き詰めだったために草履は擦り切れは薄汚れている。鮮やかな紅色、と思っていた自分の着物は、京にいる人たちの着物を見るとくすんでいるように感じた。

 少しのせきりょうを抱えて、しかし物珍しさに通りの店を見ながら歩いていると。


「……おなかいた」


 ついつい口に出してしまい、かもがわにかかる大きな橋の脇でしゃがみ込んでしまった。

 今までずっと歩き詰めで、足はひどく痛んだし、人の波に酔ってすっかり疲れていた。


「あ……おいなりさん……」


 近くの店の軒下に、いなり寿、とのつりさげばたを見つけた。

 腹の虫が騒ぎ出したが、自分は京に好物のいなり寿司を食べに来たのではないのだ。一刻も早く夫に会いに行かなければならない、と自分を奮い立たせようとするのだが、なかなか立ち上がることができなかった。


(……考えてみれば、決して歓迎されるはずがない……)


 いっそのことこのまま奥沢に帰ろうかと迷ってしまう。

 しゃがみ込んだ体勢のままで、どうしようかと考えていると不意に隣に気配がした。

 見ると若い男が、せつなと同じ体勢でせつなと同じ方向を向いてしゃがみ込んでいた。


「わあっ……、と」


 思わず声を上げて飛びのきそうになるが、彼はなぜかいたずらが成功したときの子供のように笑い、それから穏やかな声でそっと話しかけてきた。


「こんなところでどうしたんだい? もしかして迷子とか?」


 迷子、という響きが、なぜかとても幼い子供扱いをされたような気がして、急に話し掛けられて驚いたこともあり、少々語気を荒らげてしまう。


「ま、まさかそのようなことはございません。京にやって来たばかりで、疲れて少し休んでいただけです」

「京に来たばかりなのか。それは人の多さに驚くばかり、疲れてこんなところに座っているのもうなずけるなあ」


 緩やかにほほむ男の様子を見て、せつなの警戒心は緩んでいく。こんなところに年頃の女性がひとりでしゃがみ込んでいる姿を見て、心配して話しかけてくれたのだろう。

 なんて優しい人だろう、と思うが、腰に刀を差しているのに気付いて戸惑ってしまう。優男のように見えるが、どこかの用心棒かなにかなのだろうか。


「……本当に道を失ったのではないの?」

「ええ、それは違います。行き先は分かっているのです。ただ、初めて訪ねて行くのに少々緊張しておりまして」

「ああ、そうか。それならいいんだ。迷子ならば案内しなければならないと思っていた」

 

そうして彼は立ち上がり、太陽を背にしてせつなを見下ろした。


「でも、こんなところで不案内な様子でしゃがみ込んでいると、それに付け込んで悪さをしようとする人もいるから気をつけて。日が暮れるまでに目的の場所に行くといいよ」

「はい、ご親切にありがとうございます」


 せつなの言葉に頷き、男はそのまま歩いていってしまった。


(町の迷子を捜して、道案内をする人……?)


 不思議な人だなと思ってその背中を目で追っていると、通りすがっていく人が彼にあいさつをしている姿が目に入った。もしかして名の通った人なのだろうか。

 京に来るなり、そんな人に話しかけられて幸運だと思うと、少々前向きな気持ちになってきた。

 せっかくここまで来たのだ。やはり夫には会いに行くべきだ。

 しかし、こんな旅に疲れたみっともない姿では気がとがめる。

 まずは腹を満たしてから、どこかで宿を探して身なりを整えなければならない。

 せつなはそう決意して、いなり寿司の吊下旗がある店へとひとり入っていった。



     ◇◇◇



 昼にはあんなにぎやかで華やかな雰囲気だった京の町が、夜になると一変した。

 町は闇に沈み、空には分厚い雲がかかり月の輝きを隠し、建物の輪郭すら見えない。冷たい風が吹き、それはせつなを一層不安にさせた。

 昼に親切な人に声を掛けられ、偶然入ったいなり寿司のお店でも旅疲れた様子からか、遠くからわざわざ京に来たのか、それは大変だったなと温かな歓迎を受けて、京はいいところだと感激した。そんな中で冷遇されると分かっている夫の元へと向かう決意ができず、うじうじとしている間にこんな時間になってしまった。


 ときの刻。

 せつなの目前には、いかにも恐ろしい形相をしたあやかしがいた。

 初めに感じたのは臭い、だった。

 食べ物が腐ったような酷い臭い。思わず鼻をつまんで、その場から立ち去りたくなった。

 しかし逃げるような暇もなく、そのあやかしは姿を現した。

 せつなの背丈の倍以上もある、猿のような見た目のあやかしだった。……いや、猿なんて可愛らしいものではない。きばをむき出しにしてよだれをだらだらと垂らし、赤い目をらんらんと輝かせて辺りを見回し、ぐるぐるとのどを鳴らしている。


 早く逃げなければならない。向こうにこちらのことを気付かれないうちに。

 しかしせつなは路地にしゃがみ込んだまま、ただただ、白猿のあやかしを見つめていることしかできなかった。

 一体どうしたらと震えていたとき、あやかしがこちらへとふと目を向けて……そして目が合ってしまった。

 目が合った途端に、あやかしはせつなを標的にすることに決めたようだった。目をぎらぎらと輝かせて、歓喜の雄たけびを上げる。

 その雄たけびを聞いただけでも、身体が震えて、手にも脚にも力が入らなくなった。


 まさか夫に会いに来たはずの京で、夫に会うことなくあやかしに殺されてしまうなんて。

 しかし泣いても叫んでも、こんな暗闇の中で助けなんてやって来ないだろう。

 これはもう覚悟を決めなければいけない、と恐れおののいていたときだった。


「……日が暮れるまでに目的の場所に行った方がいいと言ったではないか。たどり着けたのかとなんとなく気になっていたのだが、まさかこんなところでまた会うことになるとは思ってもいなかった」

「え?」


 しゃがみ込んでいたせつながふと顔を上げると、そこにはいつの間にか何者かが立っていた。

 暗がりで顔はよく見えなかったが、この声には覚えがあった。昼に親切にもせつなに話しかけてくれた男性だった。その視線はせつなではなくあやかしの方を向いている。


「あの……」

「いいから動かずにここにいて。すぐに片付くと思うから」

「え?」


 片付くとはどういうことだろう、と思っているような暇もなかった。

 一瞬、光が走ったことは確認できた……が、それだけで全ては終わった。

 男が振り上げた刀は、あっと言う間にあやかしを切り裂いた。せつなはもちろん、あやかし自身も、なにが起こったのか分からなかったのではないのだろうか。あやかしは黒いもやになり、やがて地面に吸い込まれるように消えていった。


(こ、こんな一瞬で、あの恐ろしいあやかしを斬ってしまうなんて。あれは……あやかし斬りの刀、なのかしら? この人は何者なの?)


 こういったあやかし退治に慣れている者のように思える。もしかしてあやかしを討伐して歩き、それをなりわいにしているのだろうか。

 昼にはあんなに優しそうな人に見えたのに、あやかしに対してなんの容赦もなかった。

 一体どういう人なのだろうか、と気になったが、なにはともあれ自分はこの人に助けられたのだ。まずは礼を述べようと声を上げる。


「あの……あり……」


 そう言いかけた途端に、男の視線はどこか虚空を見たままであることに気付いた。

 もうあやかしは去ったのに、と思っていると不意になにか嫌な臭いがこちらへと近づいて来たような気がした。そして見ると、月明かりの下、せつなへと先ほどとは違う猿のあやかしが向かって来ていた。


(ま、まさかあやかしが二体いたの? まるで気付かなかった)


 襲われる、と思いぎゅっと目を閉じたがその衝撃はやって来なかった。

 ややあって恐る恐る目を開けると、せつなの目前には男の背中があった。すんでのところで彼がせつなのところへ戻ってきてくれたようだ。


ささづか、いるか? 後は頼む」


 男はせつなをかばうように新たに現れたあやかしの前に立ち、誰かへと呼びかけた。


 すると、角から男たちが飛び出してきた。目前にいる男と同じ黒い着物に羽織を着ていて、そして帯剣していた。

 ひとりが刀を抜き、大きく振り上げた。

 そして、あやかしがそちらの男へと注意を払っている隙に、もうひとりの男が刀をあやかしへと振り下ろし……二体目のあやかしもあっという間に斬られ、黒い靄となりやがて消えた。

 辺りに漂っていた不穏な気配は、一気に霧散し、漂っていた酷い臭いも、まるで初めからなにもなかったかのように消えた。


「……ふん、ずうたいが大きい割にあっけなかったな」


 二体目のあやかしを斬った男はなんでもないように言って刀を納めた。


「いやいや、笹塚、お前が刀の腕を上げたからだろう? 昔のお前だったら刀を構えたままぶるぶる震えているのが関の山だった」

「昔話はやめてくださいよ、佐々木さん。俺はもう昔のようにおくびょうな子供ではない」


 あんな恐ろしいあやかしを倒しておいて、こんななんでもない会話ができるなんて。もしかしてこういうことは京では日常茶飯事なのかとかえって恐ろしくなってきた。


「よくやったな、笹塚」


 せつなの近くにいた男が声を上げると、笹塚と呼ばれた男は得意げに鼻を鳴らした。


「こんなの大したことありませんよ、隊長。……と、誰かいるんですか?」


 そう言いながら彼はせつなの方へと視線を向けた。


「女……?」


 そう言いつつ、先ほど佐々木と呼ばれていた男がちょうちんの明かりをしつけにせつなの方へと向けてきた。そうまぶしいものではなかったが、暗がりで急に向けられた光に思わず顔を背ける。


「ああ、なるほど。女が居たので隊長は動けなかったんですね」


 笹塚がせつなの顔をのぞき込んできた。

 見知らぬ男三人に囲まれて、せつなは心細い思いとなっていたが、そういえば礼がまだだった。


「あの……助けていただいてありがとうございました」

「いや。それが我々の使命なのだから、気にする必要はない」

「使命……」


 それではやはりあやかしを討伐して歩き、それを生業にしているのだろうか。どういうことなのか詳しく聞きたい、と思ったがどうやらそんなにゆっくりしてはいられないようだった。


「怪我はないと思うが、迷子のようなのだ。とりあえず屯所へと連れて行ってやってくれないか?」

「迷子? こんな時間に?」

「では、頼んだぞ。私はもう少し見回ってから戻る」


 そうしてせつなをまもってくれていた男はさっそうと走って行ってしまった。

 せめてお名前を、と思ったがそんな隙もなかった。


「ああ、ちょっと待ってくださいよ……って。隊長は相変わらずだな」

「では笹塚、この娘のことはお前に任せた」


 そうして立ち去ろうとした男のたもとを、笹塚がつかんだ。


「待ってくださいよ、佐々木さん。それはないです。こんなところでこんな娘とふたりきりにさせないでくださいよ」


 こんな娘、とはどういうことだろうと思ったが、考えてみればせつながこの男たちのことを知らないように、彼らにしてみればせつなも正体不明の者であろう。しかもこんな夜中にこんな場所に座り込んでいるなんて、怪しく思われても無理はなかった。


「それに、隊長は俺たちふたりに頼んだのだと思いますよ。隊長の命令に背いてもいいんですか?」

「命令とはおおな……。まあ、いい。ほら娘、さっさと立て」


 佐々木に乱暴に言われるが、そう言われてすぐに立ち上がることはできなかった。


「あの……私は大丈夫ですので。迷子とはいえ、行く場所は分かっているのです。明るくなったらそちらに向かおうと思います」

「お前の意志など関係あるか。隊長から屯所に連れて行けと言われたのだ。連れて行くより他にないだろう」


 そんな言い方をしなくてもいいのに、と思いつつ、あまりのことにせつなはなにも言えなかった。


「もしかして立ち上がれないのか? あやかしの姿に驚いて腰でも抜かしたのではないか?」

「い、いえ……そういうわけではないのですが」


 せつなには人にはあまり話したくない、動けない事情があったのだ。


「私は本当に大丈夫です。連れもおりますので」

「連れ?」

「はい。あそこに」


 せつなはついっと手を上げて、通りの角を指差した。

 そこには行儀よくお座りをして、こちらのことを見ている白い犬の姿があった。


「……犬ではないか」

「はい、私のことを心配して付いて来てくれた忠犬です」

「犬が護衛になるか? お前見たところ、薄汚れてはいるが仕立てのいい着物を着ているではないか。いいところの娘なのではないか?」


 言われる通り、仮にも華族の娘である。

 その身分ゆえ、不届き者に狙われてしまう可能性が高く、見知らぬ者には警戒するようにとくれぐれも言い聞かせられている。

 あの優しげな男性の仲間の人たちならば信頼できるかと考えてみるが、それにしてもよく知らない人たちに世話になるのはあまりよくないのではないか。

 もし夫にこのことを知られたら……夜中に華族の娘が町をはいかいしていて、よく知らない人たちに助けられた、なんて。ただでさえ歓迎されないだろうに、余計に面倒に思われてしまうかもしれない。


「あっ、あのっ、本当に私はひとりで大丈夫ですので。お気遣いなく……」

「まったく大丈夫だとは思えない。それに、人の親切は素直に受けるものだぞ」


 佐々木の声が不機嫌なものとなる。これは、素直に付いていったほうがよいのかもしれない。


「……ほら笹塚、動けないようだからおぶってやれ」

「え? 俺がですか?……ああ、もう。仕方ないなあ」

「い、いえいえ! そんなおんぶだなんて子供ではないので大丈夫です」


 慌てて言いながら近くの壁に手をついて、なんとか立ち上がった。


「なんだ、立ち上がれるじゃないか。だが、少し苦しそうだな? 持病でもあるのか?」

「いえ、そういうことではないのですが……」


 せつなが無理して笑って見せると、ふたりは奇妙な顔つきとなった。


「まあいい。動けるならばさっさと行くぞ」


 話が決まったら行動が早い。

 ふたりはさっさと歩き出し、せつなはその後ろに続いた。


「シロ、おいで」


 せつなが声を掛けると犬のシロはしっをぱたりと振ってから、せつなの後をついて来た。

 そうしてせつなはふたりに置いていかれないようにと歩くが、今まで道に座り込んで動けなかったのである。いつものようにはいかない。


(どうしてあの人達、こんな暗がりの中を颯爽と歩けるのかしら?)


 佐々木が提灯を持っているが、それはあしもとを少々照らしてくれるだけのものだ。歩き慣れた道である、ということはあると思うが。

 男達の背中を見ながら、置いていかれないように必死について行った。

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