せつなの嫁入り

黒崎 蒼/富士見L文庫

第一章 帰らぬ夫 ①

 生まれてから今まで、じっと待って耐える人生だった。


 そして理不尽なことに耐えることには慣れていた。なにがあってもそれが運命なのだ、とすんなりと受け入れる。そしてなんてことないとばかりに、ゆったりとほほんで見せる。そうすることで自分がか弱く無力で、惨めであることを考えずに済んだ。

 だが、そうして待って、待って、二年も待たされた挙げ句、いくらなんでもそれはない、理不尽すぎる、と自分の運命を呪いたくなった。


「……無理やりにでもご結婚を決めてしまえば、とうじゅうろう様がこちらにお帰りになるかと思っておりましたが、どうやら浅はかな考えだったようですな」


 ふすまの向こうから、こちらの気までってしまいそうな大きなため息が聞こえてくる。


「そうだねぇ。あの娘と結婚させてからこの二年というもの、むしろ藤十郎の足はこちらから遠ざかっているような気がするねぇ。まさか正月にも帰って来ないとは」


 あの娘、とは私のことだ。

 せつなは立ち聞きをする気などなかった。しかし夜、こっそりと庭に出た帰りにたまたま通りかかった大奥様の部屋の前でひそひそと話す声が聞こえてきて、ついつい立ち止まってしまったのだ。

 周囲の様子をうかがい誰もいないことを確かめると、目立たないように身をかがめて襖に耳を当て、部屋の中の会話を聞こうと耳をそばだてた。


「そもそも、京で職を得ようと思うと話したときに、もっと反対すればよかったんだ。みかどの命を受けて京を警護する立派な仕事に就いたと聞いたときには、それはふじさき家にとって名誉なことだと喜んだが、盆も正月もろくに帰ってこないとは」

「ええ。ゆくゆくは藤崎家当主となる藤十郎様です、京とのつながりがあった方がよい、様々な経験をさせた方がよいとのだん様のお考えでしたが……このままでは京から戻らなくなるのではないでしょうか」


 話しているのは大奥様、つまりせつなの義理の祖母と、使用人たちの長、大番頭である柘植つげであろう。大奥様は大旦那様亡き後、藤崎家でかなりの発言力を持っている。


「藤崎家の当主に相応ふさわしいようにと、なんとか手を尽くして華族の娘を嫁にとったというのに、まさか祝言の日にも姿を現さないとは」


 そうなのだ。

 せつなは藤十郎に会ったことがない。自分の夫である人の顔も知らないのだ。


「お優しい性格の藤十郎様のことです、故郷の妻のことを思い、たびたびこちらにお帰りになるだろうとの狙いでしたが……かえって藤十郎様の足を遠ざけてしまいましたな」


 柘植は悔やむように言う。

 それはせつなのせいではないはずだが、責められているように感じてしまう。ごそうを用意したのに、そのご馳走が不味まずくてかえって避けられてしまった、というように聞こえたからだ。

 せつなが藤十郎の顔を知らないように、藤十郎もせつなの顔は知らず、お互いにどのような人であるのか知らない。だからせつなに原因があるとは思えない……のだが、それでも自分が悪いように考えてしまう。


「古くから続く華族の家柄の娘だ。これほどない婚姻だというのに、なにに不満があるというのかね」

「しかしまあ、若奥様のあのご様子では、あの方のためにたびたびこちらへ帰るというのは難しかったように思えますが」

「そうだねぇ」


 大奥様はあきれたように語り出す。


「華族の娘だというから、もっとみやびな雰囲気があるたおやかな女性かと思っていたが、まるでそんな雰囲気がないね。こんなことならばもっと器量よしで、働き者の女性を嫁にもらった方がよかったかもしれない。その方が商家の嫁には相応しかっただろう。華族の娘だというから、こちらも気後れしてしまって、あれこれ頼むこともできないし、あの娘も自分からなにかしようなんてしない。暗い部屋に閉じこもって書物を読んでいるなんて陰気でいけないよ」

「そうですな。このままでは無駄飯を食べさせているようなものです。そろそろなにか手を打つときでは?」

「本当にね。まったく藤十郎ときたら。そんなに京での仕事が大事かね? こちらのことなど全く顧みようとせずに」


 大奥様の嘆きが大きいことがこちらにも伝わってきて、せつなの胸はぎゅっと締め付けられた。

 藤十郎は次期当主としてかなり期待されている。藤崎家は時代から続くしょうで、これから別の商いもしていこうという話が持ち上がっている。それには早く藤十郎に京から戻ってもらい、家業を継ぐための準備をして欲しいという意向なのだ。

 この屋敷で二年暮らしてきたが、その間、藤十郎を悪く言う声は一度たりとも聞いたことがない。親族はもちろん、三十人ほどいる使用人も、屋敷の周囲に住まう人も、みんな藤十郎のことを好いているようで、帰りを心待ちにしている。

 せつながみのない場所でこうして暮らしてこられたのも、藤十郎の妻だということが大きかったように思う。


 だが、それもそろそろ限界のようだ。せつなが外を歩いていると、どうして藤十郎様は帰って来ないのか、と責めるように聞いてくる人がいるし、親族の人たちは白けた目つきを向けてくることがある。使用人たちも厄介者のように扱うようになってきた。こちらの言うことをろくに聞いてくれず、最近せつなの部屋だけ掃除が行き届いていないように感じる。使用人がふらついて破った襖の穴は、もうふた月もそのままだ。


「そろそろせつなには、暇を与えた方がいいかもしれないねぇ」


 その言葉は氷のやいばのようにせつなの胸に突き刺さった。すっと血の気が引いた後には心臓の鼓動が高まり、立ち上がれないほどの苦しさを感じた。

 暇を与える、つまり離縁させて、実家に戻すということだ。

 それはどうか勘弁してください、と床に頭をこすり付けたい気持ちになる。

 実家に戻ってもせつなの居場所などないのだ。せつなの両親は共に他界しており、居るのは兄と兄嫁だけである。兄は去年結婚したばかりだ。そんなところへせつなが戻っても、兄はともかく、兄嫁はいい顔をしない。


 兄嫁の実家は厳しい家で、くれぐれも出戻ってくるようなことがないように、ということを匂わす文を送ってきたことがある。夫が戻らない、との事情は知らぬようであったが、結婚して二年経っても子がいないことをいぶかしがったのか、夫との仲は上手うまくいっているのかと尋ねてきた。

 そして、せつなとその兄は両親を亡くしているから、自分たちがせんえつながら少々口を挟ませてもらうが、嫁ぎ先で可愛がられることこそ女の幸せであり、まかり間違っても離縁させられるなんてことはあってはならない。もしなにかつらいことがあっても耐え忍ばなければならない、石にかじり付いてでも離縁なんてことは避けなければならない、一度嫁いだならば、死ぬまで嫁ぎ先に尽くさなければならない、とのことまで書かれていた。

 せつなのことを思って、と書きながら嫁いだ自分の娘のことを気にしていることがありありと分かるような文で、もし本当にせつなが離縁されて、実家に戻るようなことになったらかなり困ったことになるだろうと予感させられた。


 これでは、せっかく縁談をまとめてくれた兄に迷惑がかかってしまう。

 兄は本当ならば知らぬふりで打ち捨てられても無理がない……があるせつなを救ってくれたのだ。そして、方々手を尽くしてこんなよい縁談をまとめてくれた。

 せつなはふらふらと立ち上がり、気付けば自室に戻り、ほのかなとうだいの明かりがともる薄暗い部屋で荷物をまとめていた。


 実家に帰るためではない。藤十郎に会いに行くためだ。

 今まで何度も京へ文を出した。しかし、その文にさえ藤十郎は返事をくれない。まるでせつなの存在などないようにしているようだ。それはあまりに理不尽ではないか。理不尽なことには慣れているが、それにしても、である。

 夫のことを考えていたら、涙が出そうになってきた。しかしせつなはそれをぐっとこらえて、荷物をまとめることに意識を向けた。

 それに、もしこのまま離縁されてしまうにしても、我が夫の顔を一度も見たことがないのは切ない。


 せつなは首からひもで提げていた小袋の中から、赤い石を取り出した。母の形見だと言って渡された紅玉の守り石だった。

 母はよくせつなに『決して人を憎んではいけません』と言っていた。

 その言葉の通りに生きているが、ときにそれが心を縛っているような気がしていた。

 憎まないように。こんなことはなんでもないのだから……と振る舞っていたけれど、本当は悲しくて苦しくて、消えてしまいたくなることもあった。これからもずっと、こんな理不尽に耐えていかなければならないのかと思うと、たまらない気持ちになる。


 もう私にはここ以外に居場所がないのだ。なんとしても夫には戻ってもらわなければ困る。文が駄目ならば、もう直接行ってお願いするしかない。

 せつなは赤い西にしじんおりしきに包んだ荷物を持って立ち上がった。

 藤十郎様は優しい人だ、と彼を知る誰もが言っている。

 ならばその優しさで、なんとかこちらの言い分を聞き入れてくれないだろうかと考えた。離縁を言い渡された女性がもう一度嫁ぐことはとても難しい。人並みに結婚して、子供をもうけて……かつてはあきらめていたことだったが、その幸せをつかめると心躍らせて嫁いできて、その結果がこれではあまりに悲惨だ。


 暗がりの中、しんと静まり返っている母屋を出て中庭を突っ切り、裏門から出ようとしていたところでふと気配を感じて振り向いた。

 そこには白い犬が月明かりの中にたたずんでいた。なんだか、とても寂しそうな表情に見える。どこへ行くのだ、自分を置いて、と言っているように思える。


「シロ、一緒に行く?」


 そう声を掛けると寂しそうな顔から一転、うれしそうにしっを振って、こちらへと駆けてきた。



 こうしてせつなとお供の犬は、誰にもさいを告げずに夜半過ぎに藤崎家を出て、そのまままだ見ぬ京に向けやまあいの暗く寂しいみちを歩いていった。

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