第24話

 感情と共にあふれた涙が枯れると、アルビナータの頭を撫でていた手も止まった。

「そろそろ落ち着いてきた?」

「……はい。すみません、急に泣いてしまって」

 目を擦りながらアルビナータは言う。堰を切ってあふれた感情と涙が鎮まってくると、代わりに人前で泣いたことが恥ずかしく思えてきた。誘拐されかけたときやドルミーレで暮らし始めたばかりの頃も情緒不安定になりはしたが、ここまで大泣きしたのは随分久しぶりな気がする。

「仕方ないよ。今までずっと、一人ぼっちだったんだろう? 誰にも姿が見えず、声も聞こえないままで。しかも、あんなに強い力に立ち向かっていったばかりだったし。こうして誰かと話せるようになって、不安や緊張が切れて泣いてしまうのは当然だよ」

 そうアルビナータを慰める微笑みは温かく、優しい。現代でティベリウスが見せてくるものとまったく同じそれに、アルビナータはまた泣きそうになった。

 ティベリウスに盗人の上半身を支えてもらいながら、アルビナータは慎重に盗人の手首から腕飾りを抜き取った。損傷はないかと、学芸員としての習性と純粋な興味から観察する。

 紐で繋がれた宝玉と金細工が揺れる、実に見事な代物だ。赤や緑、黄土の宝玉に飾られ、アルビナータが身につけている腕飾りのものと同じ意匠の金細工以外にも、精緻な透かし細工がされた金細工がいくつか用いられている。これ一つ身につけるだけで衆目を集めるのは間違いない。派手な色遣いの装身具を好むルネッタが見ればきっと、目を輝かせることだろう。

 ざっと見たところ、目立った損傷もない。ほっとしたアルビナータがしげしげと眺め回していると、ティベリウスも横から覗きこんできた。

「こうして見てみると、君が身につけている腕飾りのものと、本当にそっくりな金細工だね。同じ職人が彫ったのかな」

「そうなのかもしれません。これは市場で人に買ってもらったものなので、どういうものなのか、私はよく知らないんです」

「市場で? じゃあ、元々は一つだったものが、何かの理由で別々に売られてしまったのかもしれないね。こんなに手のこんだ品なら、金細工一つだけでも高く売れるはずだもの」

 ティベリウスは一人納得したように頷く。金細工の意匠がまったく同じであることを不思議に思っている様子も、不思議な道具を持つアルビナータに対して不信感を持っている様子でもない。

 当然だろう。盗人が腕にはめていた金細工の未来の姿こそ、アルビナータが持つ腕飾りの金細工だなんて、一体どうやって思いつくことができるのか。刻まれた文や神の姿がまったく同じで、しかも触れあうことで反応を示していたとはいえ、この時代の人間が想像できないのは無理もない。

 現代へ戻るための手がかりをやっと見つけられたことに、アルビナータは胸を高鳴らせた。これを持っているだけで現代へ戻れるわけではないが、まずは一歩前進したのだ。

「とりあえず、これは、今は君が持っていてくれないかな。さっきの様子からすると多分、君の腕飾りが力を無効化してくれるだろうから」

「はい」

 アルビナータは頷き、拾ったばかりの腕飾りを失くさないよう胸ポケットにしまった。金属の冷たく硬い感触と共に、あの力の振動がかすかに肌に伝わってくる。

 ティベリウスはじゃあ、と頷いた。

「あとは、残りの盗品だね。この男の仲間が持っていたぶんは兵たちがほとんど取り戻したけど、この男が持って逃げたぶんはまだ見つかっていないんだ。兵が一味を捕まえようとしたときにこの男だけ、他の仲間を置いて逃げたみたいで」

「……それで貴方は皇帝なのに、盗まれた物を取り返すためにわざわざ夜の樹海へ来たんですか?」

「うん。ここは僕の故郷で、僕ならここの精霊たちに色々と教えてもらえるから。兵たちがしらみつぶしに探すよりも効率的だろう?」

「……確かに」

「でしょう? それに、何人かが少しのあいだ樹海へ入るくらいならまだしも、親衛隊がもう少し大きな規模で防御壁を越えていたら、この辺りに暮らす部族が警戒するだろうし。精霊たちも人間が荒らしに来たって、快く思わないしね」

 アルビナータにそう答え、ねえ、とティベリウスは続けた。

「アルビナータ、一緒においでよ。その金細工はガイウス……僕の親衛隊長の持ち物の一つなんだ。どうしてあんなことが起きたのか、彼か、彼の家族の人ならわかるかもしれない」

「これ、親衛隊長さんのものなんですか?」

「うん。それでもし、その金細工を調べても元の場所に帰れなかったら、皇宮にいればいいよ。皇宮には帝国だけじゃなくて他の国や地域から来た人が多く出入りしているし、ルディラティオもそうだもの。君と同じところから来た人が見つかるかもしれない」

 どうかな、とティベリウスは首を傾ける。

 帝国の皇帝からの厚意に、アルビナータは戸惑った。

「それはとてもありがたいのですけど、でも、他の皆さんが何と言うか…………」

「うん、ちょっと怪しむかもしれないけど、きっと大丈夫だよ。君は悪い子じゃないもの。僕、君に盗人を捕まえるのを手伝ってもらったって言うから」

 と、ティベリウスはアルビナータの懸念を笑って否定する。猛反対されるとは思ってもいないらしい。あるいは、説得できると確信しているのか。

 いや絶対、色々と言われるだろう。ティベリウスはこの大帝国でもっとも高貴、もっとも大切な存在なのである。素性がはっきりしないあやしい小娘を拾って皇宮に住まわせるなんて、周囲が反対するに決まっている。というより、しないほうが問題だ。

 しかしそこで、アルビナータはふと気づいた。

 ティベリウスは三十年足らずの生涯で、一度も妻帯しなかったのだ。様々な史料によれば、妾もおらず、女奴隷に手をつけることもなく、臣下の者たちが勧めても困った顔をして断っていたという。あまりにも結婚の意思を見せないので皆嘆いていた、と記録されている。

 後継者の血筋にこだわらない国だったとはいえ、それでも世継ぎをもうけようとしなかったのは変わった話である。母親が異民族である己を引け目に思い、父が皇妃とのあいだにもうけた異母弟デキウスの成長を待って座を譲るつもりでいたのでは――――と推測する歴史家も現代にいるくらいだ。あるいは、妻を持たないことが精霊の力を借りるための代償だと考えていたのでは、とも。

 そんな清い皇帝が、女を連れ帰った。しかも、皇宮に住まわせるという。――――周囲がどう思うのかは、明らかだ。

 もしかしなくても、これはまずいのではないのだろうか。確かにティベリウスの周囲の者たちにも受け入れられるかもしれないが、それは別の意味からのような気がしてならない。現代で王族二人と親しくしていたので、貴族社会の考え方の一端くらいはアルビナータも知っている。この時代も現代も、大して違いはないだろう。

 しかし、ティベリウスに保護してもらうのがアルビナータにとって最良であるのも事実である。アルビナータは悩んだ。

 ――――と。

「陛下!」

 疾走する馬の足音がしたかと思うや、人を呼ばわる声が樹海の静寂を破った。低くもよく通る、張りのある男の声だ。

 そんなことはまったく想像していなかったものだから、アルビナータもティベリウスもびくっと肩を揺らして驚いた。声に怒りが多少入っているように聞こえたからもあるだろうか。

 大柄な黒馬は、まっすぐにアルビナータたちのほうへ駆けてくる。乗っているのは魔法道具の明かりに照らされた、黒髪に鮮紅の瞳、生成り色のトゥニカ姿の、見るからに鍛えぬかれた体躯の男だ。少し斜め後ろを、ティベリウスの愛馬アルブムがついてきている。

 ガイウス・ウィンティリクス。ティベリウスの身辺を警護する親衛隊長は、馬たちの足が二人の前で止まるや、黒馬から下りた。

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