第23話
気づけばティベリウスは、仰向けになって倒れていた。
辺りは真っ暗で、月や星の光も見えない。魔法道具の明かりさえない。それでも海の音や風が頬を撫でていく感触は絶えておらず、ここが‘皇帝の間’の中庭を望む回廊であることをティベリウスに理解させた。
だるい身体をゆっくりと起こし、ティベリウスが意識すると、小さな炎がいくつも宙に浮かび、ティベリウスと巻物を照らした。さらに力を周囲へ向ければ、力の波を受けて失せていた魔法道具に魔力が再び宿り、炎を燃やして中庭全体を照らす。
壁に背もたれたティベリウスは、全身にまといついた疲労感から、深い息を漏らした。
底に文字を沈めた水面のような紙面に触れたティベリウスは、つい先ほどまで五感を失い、意識だけになってどこかにいた。
どこか、としか言いようがないそこは、おそらくは時空の隙間と言うべき場所だったのだろう。圧倒的な存在感を放つぼろぼろの純白の扉を中心に、古今東西の時間の欠片が無数に存在し、同時に進行も逆行もしていた。あるものは高速で、またあるものはゆっくりと。場所も速さも流れていく向きもばらばらの時間の欠片が、ティベリウスを取り巻いていた。
数多の時間が同時に過ぎたり逆行したりする不思議な光景にティベリウスが圧倒されていると、不意に純白の扉がまるで生き物であるかのようにどくんと脈打ち、それに呼応して時間の欠片がゆがみ、別のものを映しだした。どれもが異なる時間と場所であったが、すべてティベリウスが過ごした時間であることは共通していた。
樹海で精霊たちと遊んだ幼き日々。
ガイウスと初めて会った日。
父や異母弟と共に別邸に滞在した夏。
戦陣のひたひたと迫る恐怖。元老院での討議。他にもたくさん。
そうした懐かしい記憶にティベリウスが心を奪われていると、突然扉の向こうから、求めていた気配を感じた。欲してやまなかった声さえも。
――――ティベリウス?
その声に誘われてティベリウスもまた彼女の名を呼び、純白の扉を開けようとした刹那。扉は激しい力でティベリウスを拒絶した。私に触れるなと、貴人が一喝するかのような意思をティベリウスの意識に刻みつけて。――――そして、ティベリウスはここへ戻ってきたのだ。
つい先ほどまでいた場所を思い出し、ティベリウスは見下ろす両手をぎゅっと握りしめた。
現代に目覚めてからのティベリウスは、過去のことを自分でも驚くほどよく覚えていた。あの薬湯の作り方はその一つだ。久しく作っていなければ思い出しもしていなかったのに、アルビナータに作ってあげようかと思いついた途端、材料も作り方も正確に思い出すことができた。純白の扉を取り巻いていた己の記憶もそうだ。ティベリウスは覚えていた。
けれど、純白の扉に触れた刹那に見えた記憶だけは、まったく覚えのないものだった。
何もないところから投げられる石。
ひとりでに地面に記されていく文字。
超人的な力を持つ盗人との戦い。
突然目の前に現れた、泣きじゃくる少女。
どれ一つ、ティベリウスには記憶になかった。
「どうして僕は覚えていないんだ……!」
久しく味わったことのなかった荒々しい感情がこみ上げ、ティベリウスは叫んだ。
ティベリウスはまだ、十六年前、自分はもはや人間と交流することができないのだと悟ったときの深い失望を覚えている。内海の向こうに広がる熱砂の大地にたった一人放り出されたような、人間世界との断絶を全身で感じるあの気持ちを。アルビナータと出会うまでの間、味わい続けた感情なのだ。簡単に忘れられるものではない。
精霊たちと過ごす時間は確かに楽しく、孤独を忘れていられた。だが、眼前の人間と交流できない悲しみと孤独が完全に消えることはなかった。存在に気づいてもらおうと色々としてみても、それは誰かの悪戯か、怪奇現象としかとられることはなく。諦めばかりが積もった。
けれどもし、あの瞬間を自分が忘れてしまっているだけだったのなら。
自分と同じ境遇の人はいたのだと、覚えていたのなら。
もう自分は人間と交流することができないと、諦めたりしなかったのに――――――――
身の内に激しい後悔が湧き、ティベリウスは自分の身体をきつく抱きしめた。そうでもしないと、何故、もし、という心中を埋め尽くす問いが唇から飛び出しそうだった。
深呼吸を繰り返し波の音に耳を澄ませ、ティベリウスはあらぶる心を落ち着かせる。早鐘を打っていた鼓動が穏やかになってきたのを見計らって俯けていた顔を上げ、そこでふと気づいた。
何故、アルビナータの姿が過去のティベリウスに見えるようになったのだろう。アルビナータの身体はこの時代にあって、精神だけがあの時代に飛ばされているのだ。だからあの時代の自分には彼女の姿が見えず、彼女も強く望むことで物を掴むことができていたのではなかったのか。
腕飾りの金細工だって――――
「っ」
腕飾りを手にしている感触がないことに気づき、慌てて自分の手を見下ろしたティベリウスは愕然とした。
ないのだ。持っていたはずの腕飾りが、ない。
「……!」
ティベリウスは、弾かれたようにアルビナータの部屋へ向かった。
扉代わりの布を開けると、寝台は空になっていた。
――――精神だけでなく肉体までも、過去の時間へ引きずりこまれてしまったのだ。おそらくは先ほど、あの時代の腕飾りの金細工と触れ合わせたことによって。時空の扉が開き、魂と肉体が一つになろうとしたのだ。
「っ……!」
何が起きたかを理解し、ティベリウスは叫びだしたい衝動に駆られた。何もできない無力感に打ちのめされ、膝がくずおれそうになる。
「神々よ…………どうかアルビナータを過去の時間に留めないでください…………彼女がいるべき時間はここなんです。彼女を家へ帰らせてあげてください…………」
両手を握りしめ、ティベリウスは頭を垂れて神に祈る。そうすることしかできなかった。
どれほどの時間、願い続けていたのか。静寂を、扉が開く音が打ち破った。
「ティベリウス! お前が言ってたやつ、持ってきたぞ! おい、どこだ!」
扉が開く音がするや、コラードの足音と彼の声が続く。祈りを捧げていたティベリウスはばっと顔を上げた。歓喜が胸に湧く。
ティベリウスは急いで部屋の外へ出た。氷の魔法で、自分の居場所をコラードに伝える。
ティベリウスがそこにいることを知ったコラードはその場に座りこみ、背を壁に預けて疲れきった様子で、ティベリウスに頼まれていた物に目をやった。
「おいティベリウス。なんなんだよ、それ。そいつ入れてた展示ケースは粉々だったし、手に取った途端、目眩がするわ吐きそうになるわで最悪だったんだが。しかも途中から、心臓抱えてるみたいにどくどく脈打ちだして、余計に気持ち悪かったしよ。吐きそうになったぞ俺。これもアルビが時空を超えた影響か?」
『そうかもしれない。僕も巻物に触れたら、この世界じゃないところへ精神だけ飛ばされてしまった。そこから先へは行けなかったけど、あの世界の向こう……僕がルディシ樹海へ視察に行った頃にアルビナータはいるはず』
「……つうことは、お前が失踪する直前ってことか。よくわかんねえけど……お前の推測は当たってたんだな?」
『うん。あの方法でいけると思う』
コラードの問いに、ティベリウスは即答する。それと同時に、暗澹としていた気持ちに光が差し込んだような心地になった。
そう、まだアルビナータは救い出せる。――――いや、絶対に救いださねばならない。
コラードは長い息をついた。
「ったく、オキュディアス一族もとんでもないもん作りやがったよな。要するにそれも腕の金細工もあの三部作の原本も、過去の時代を覗き見するための道具ってことだろ? そりゃどんな極秘事項も暴露できるよな。実際に起きたことをそれ使って覗き見して、そのまま書きゃいいだけなんだから。精神だけが飛ばされるなら、その時代の人間に見られる心配もねえだろうし」
『うん……でも、アルビナータの身体は消えてしまったよ。向こうで彼女が何かをしたみたいで……あの時代の僕にも姿が見えるようになっていたよ』
「はあ? ちょっと待て、それやばいだろ絶対!」
ティベリウスの報告に、コラードは顔色を変えた。
当然だ。現代の制服をまとったアルビナータは、あの時代では今以上に珍しい外見をしているように見えるに違いないのである。しかも、見るからに大人しそうな容姿をしている。奴隷商人やならず者にとって、格好の獲物だろう。
もちろんティベリウスは、皇帝だった頃の自分がアルビナータにひどいことをするとは思わない。しかし、あの時代では奇異に見えてしまう彼女を保護し、悪意から守ることができるのか。皇帝として多忙な身である以上、どうしたって彼女のことばかり気にしていることはできない。周囲の者に任せた後、彼女がどうなるか保証はできないのだ。
『わかっている。だからコラード、何が起こるかわからないから、下がっていて。できればアルビナータの部屋に』
「わかった。……頼むぞ」
そうコラードは真剣な表情でティベリウスにすべてを託すと、アルビナータの部屋へ避難する。それを見届けてから、ティベリウスは中庭と柱廊を除いた‘皇帝の間’全体に結界を張った。あの力に自分が抗えるとは到底思えないが、しないよりはましだ。
金細工は、始まりと終わりを知るヤーヌス神の力を秘めた鍵だ。巻物の軸は扉。紙面が時空を定める道標。
その鍵を失くしてしまった今、ティベリウスはもう、自分の章に触れてもあの時代を垣間見ることはではない。時空の狭間へ行くことも。
だが、この時代から神を召喚すればいいのだ。ヤーヌス神に供物を捧げ、儀式をおこなえばいい。そして、鍵を返すことを条件に、ティベリウスもあの時代へ連れていってもらうのだ。――――他に方法はない。
望みを叶えるのだと決意しても、ティベリウスの心はわずかも躍らなかった。胸に浮かぶのはただ、アルビナータの無事を祈る気持ちと、彼女を必ずこの時代に連れ戻すのだという決意だけだ。
準備を終え、ティベリウスは自分の腕に反対の手の指を当て、力を乗せて胸元へ引いた。力の刃はティベリウスの白い肌を裂き、ティベリウスの身体は傷口を中心にかっと熱くなる。
「…………っ」
グレファス族でも古代アルテティアでも、儀式には生贄がつきものだった。だがここに羊や山羊、牛はいない。ならば、多大な魔力を秘める自分の血を生贄の代わりにするしかない。
紙面にティベリウスの血がどんどんしたたり落ちていく。鮮血が紙面ににじみ、瞬くあいだに文すら見えないほど紙面を染めあげる。
でも、まだだ。まだ足りない。魔力を秘めているとはいえ、ちょっとやそっとの量では命の代替にならない。もっと血と魔力を注がなければ。
死ぬのは怖くない。アルビナータを救えるなら、命なんて惜しくない。
急速に血を失って頭の芯がじんと痺れ、思考が停滞しそうになる。それを意思の力で無理に動かし、ティベリウスは紙面に触れて唇を開いた。
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