第22話
不意にティベリウスが、アルビナータが持っている石に手を伸ばした。もちろんアルビナータの手はすり抜け、石だけを掴む。止まってくれという合図なのだろう。
アルビナータはそれを見て驚き、思わずティベリウスを振り仰いだ。彼が指を唇に当てているのを見て、言葉を飲みこむ。了承の意味を兼ねて、ティベリウスの邪魔にならないよう脇にどく。
二人が黙るだけで完璧な静寂が訪れ、少し離れたところから聞こえる足音が際立って聞こえてくる。力の糸から伝わってくる力も強くなっていく。
心臓の音がうるさくて、胸が痛い。アルビナータはごくりと息を飲んだ。
頃合いを見計らって、ティベリウスは木立から姿を現す。アルビナータも、身を隠すのは無駄と知りつつそっと顔を覗かせた。
それがよかったのか、悪かったのか。一目見て、アルビナータは絶句した。
二人の視線の先にいた金髪の盗人は、昼間にアルビナータが見たときとはまるで様子が違っていたのだ。
顔は青ざめて口をだらしなく開け、手をだらりと下げているさまは亡骸が歩いているようなのに、目だけはぎらぎらと得体の知れないもので輝いていた。自分の意思で歩いているようには到底見えない。
全身にまとうのは、空虚で圧倒的、暴威とさえ言える荒々しい力――――あの扉から放たれていた力の流れだ。その気配はアルビナータにも伝わってくる。
おそらく、盗人は腕飾りから放たれるこの力に精神を飲まれたのだ。強い力は時として生き物の心身を狂わせ、押しこめていた醜い感情を引きずり出したり、人ではないものにしてしまいすらする。だから魔力の耐性を持たない者は、強大な力を放つ物や場所へ不用意に近づいてはならない。王立学院で、魔法学の教授が口を酸っぱくして言っていたものだ。アルビナータが平然としていられるのは、精神だけがあの領域を超えてこの時代へ飛んできたという、特殊な状態だからなのだろう。
ティベリウスをぼんやりと見ていた盗人は、彼の斜め後ろで立ち竦んでいるアルビナータに視線を向けた。獲物を見つけた目が、さらなる歓喜を浮かべる。
そして盗人は、アルビナータに向かって突進してきた。
恐怖に飲まれたアルビナータが動けずにいると、ティベリウスが剣を抜いて盗人に斬りかかった。獣のように俊敏な動きでそれを避けられても、アルビナータから盗人を遠ざけるためか、次々と剣を振るう。現代では、剣なんて振り回せる程度しか習っていないと言っていたのに。
続く攻撃を鬱陶しく思ったのか、盗人は動こうとしないアルビナータをひとまず捨て置き、標的をティベリウスに切り替えた。剣を避けるためよりはるかに速い速度で、ティベリウスに襲いかかる。
「くっ……!」
剣では間に合わないと踏んでか、ティベリウスはとっさに魔力の壁を築いて盗人の突撃を防いだ。すると盗人はそれに対抗するように、今度は力を放ち攻撃してくる。ティベリウスも防戦一方ではなく、魔法を放って盗人に立ち向かった。
力と力がぶつかりあって風が生まれ、木々の枝葉を揺らした。可視化された力のきらめきが辺りを照らす。
力と力のせめぎあいが長く続くにつれ、次第にティベリウスは顔をゆがませるようになった。
軍属の魔法使いたちが羨むほど強大な魔力の持ち主であったと伝えられているティベリウスが、だ。
当然だろう。盗人が放っているのは、身につけている腕飾りを通じてこの世に放出された、あの領域に漂っている力だ。底があるのかもわからないあの強大な力を相手に戦い抜くなんて、いくらティベリウスでもできないに決まっている。
壁を壊そうとする力の波を防ぎながら、ティベリウスは盗人に向けて力の刃を放った。が、刃は盗人に届く前にかき消されてしまう。もう一度放とうとしても隙は窺えず、攻撃を防ぐのでティベリウスは手一杯だ。
それほどの力を、一流の魔法使いでもない一般人が操りきれるはずもなく、盗人の身体は勝手に傷を負っていく。だが、精神を力に飲まれた盗人はそれをまったく気にせず、狂気の表情で力を放ち続けるのだ。死ぬまで攻撃をやめないに違いない。
盗人の身体が限界を迎えるのが先か、ティベリウスが力負けするのが先か。二つの未来が頭をよぎり、アルビナータは思考が真っ白になった。
これが、歴史の真実なのだろうか。ベネディクトゥス・ピウス帝がルディシ樹海で失踪したのは、部下の失態の後始末をつけようと樹海へ一人で入り、正体不明の小娘を助けようとしたからなのか。
ならば彼を助けず、アルビナータはこのまま見ているだけでいいのか。正しく歴史が紡がれるために。はるかな未来でティベリウスに会うために。
――――でも、それでいいのか? また、見ているだけ?
冷徹な研究者の思考に、心の声が落ちた。
仕方ないだろう。これが正しい歴史だ。気に食わないからと言って、歴史を改変してはならない。
大体、魔法を使えないアルビナータにできることなんて――――――――
「……!」
反論の途中で、アルビナータは大きく目を見開いた。
ある。それが有効なのかどうかはわからないが、できることが。
アルビナータはよろよろと立ち上がった。
やめろと訴えている心の声が聞こえる。目に、自分をさらおうとした男たちの恐ろしい幻影が見える。
血走った目をする者、にやにや笑う者、冷たい表情をしている者。――――――――短剣を振りかざす者。
「…………っ」
白刃を思い出し、アルビナータの全身が大きく震えだした。立ったばかりだというのに、膝がくずおれそうだ。防衛本能は思いつきを全霊で拒否し、確実に生き延びる道を選ぼうとしている。
けれど、このままではティベリウスが殺されてしまう。我が身とアルビナータを守ろうとしたばかりに。
『早くお逃げ!』
「――――――――っ」
暴漢に刃を浴びせられたアニータが、それでもアルビナータを逃がそうと叫んだ声を思い出した瞬間。全身の震えと拒否を無視し、アルビナータは何も持たずに走りだした。
この時間に属していないアルビナータの身体は、ティベリウスの身体をすり抜け、彼が放つ力も通り抜け、盗人へ向かっていく。足音でかそれに気づいたティベリウスが声をあげ、力の糸の動きで気づいた盗人の目がアルビナータを向いた。
「アルビナータ!」
盗人がアルビナータに向けて力を放ち、ティベリウスが悲鳴のような声をあげる。アルビナータはぎゅっと目をつむった。足を動かすのはやめない。
衝撃は何もなかった。何一つなく、アルビナータは自分がまだ走っているのを自覚する。生きていると理解して瞼を開けてみると、盗人の驚愕した表情がすぐ目の前だ。もう、腕一本も距離は開いていない。
そしてアルビナータは、盗人が手に持つ装身具に自分の腕飾りの金細工を押し当てた。
刹那、アルビナータの視界が真っ白になった。あの領域の扉が見え、アルビナータの周囲に漂うきらめきを吸いこんでいく。
同時に何故か、扉の向こうから何かとても馴染みのあるものが飛んできているような気がした。
ものすごい速さで縮んでいく世界にアルビナータがいたのは、一体どれだけの時間だったのか。アルビナータが現実を認識したとき、あれほど強大だった力は消え失せ、場を満たしていた光も失せていた。ティベリウスも力を収めたため、辺りには静けさと力の残滓が争いの痕跡として残っている。
盗人がその場に膝をついて倒れてきたので、アルビナータは渾身の力で彼を抱き留めた。が、かなりきつい。息が詰まって身動きがとれない。
剣を鞘に収めて駆け寄ってきたティベリウスが、アルビナータに代わって盗人の身体をゆっくりと地面に寝かせた。傷つきはてた男の胸はかすかに上下していて、それが彼の生をかろうじて証明していた。
自分にできることは何もないと考えていたアルビナータは、ふと気づいた。金細工が腕飾りと触れ合わせることで、自分はあの空間へ飛翔したのだ。ならばもう一度触れあわせれば、何か起きるのではないのか、もしかすれば無尽蔵の力を封じることができるのではないか。門扉の神ヤーヌスが持つ鍵の力を秘めた金細工なのだから。そんな考えが先ほど、アルビナータの脳裏によぎったのだ。
その推測は正しかった。盗人はあの領域からこうして解放された。
終わったのだ。アルビナータはそれを視覚で認識し、ぺたんとその場に座りこんだ。
ティベリウスもそれに続き、アルビナータの前に腰を落とした。疲れた、とばかりに長い息をつく。
「無茶なことをするね、アルビナータ。あんな強い力を放っている人に向かっていくなんて……草を踏む足音で気づいたときは、肝が冷えたよ。君は普通の女の子なんだから、あんな危険なことはもうしちゃ駄目だよ」
と、ティベリウスは指を一本立ててアルビナータを諭す。まるで子供に説教するような仕草と表情。まったく迫力がない。
その動作に、アルビナータは違和感を覚えた。
――――ティベリウスが、アルビナータを見ている。
そう、気づいてみれば、最高級のサファイアを思わせるティベリウスの青い目がアルビナータにまっすぐ降り注がれていた。この時代では一度も目が合ったことはないのに。現代にいるかのように二人は今、互いの顔を見ていた。
アルビナータの疑問を表情から汲み取ったのか、青い目が柔らかく細められた。
「どうしてかはわからないけど、突然、君の姿が見えるようになったんだ。だから、多分」
そう言って、ティベリウスはアルビナータに手を伸ばした。アルビナータの頬に触れ、真っ白な髪に触れる。
ほら触れた、とティベリウスは子供のように無邪気に笑った。
「ありがとう、アルビナータ。君の勇気のおかげで、僕は死なずに済んだ。僕の臣下の持ち物も無事だった。……ありがとう」
礼を繰り返し、ティベリウスはアルビナータの頭を撫でる。
アルビナータの髪は、風でも自分の手でもないものに揺らされていた。触れる手は温かく、懐かしい感覚をアルビナータに伝える。――――ティベリウスがたまにしてくれる、アルビナータにとっては馴染み深い感覚。
アルビナータの肩と唇が震えた。
「――――っ」
一つ、二つ、三つ。アルビナータが長い睫毛を瞬かせるたびに、大きな鮮紅の目から落ちていく。止めようとしても無駄で、次から次へと雫は落ちていくのだ。
ぎょっと目を見開いたティベリウスはやがて、痛ましそうに顔をゆがめた。
「…………一人ぼっちで、誰にも声をかけてもらったり触ってもらえなくて、さみしくて怖かったんだね。でも、もう大丈夫だよ。僕はここにいるから。……君も、ここにいる」
アルビナータの頭をまた一つ撫でて、ティベリウスは言う。その声は優しさや労わりの心だけでできていて、心を撫でる見えざる手のようだ。アルビナータの心にゆっくりと沁み入り、こちらへ来てから堅く閉ざしていた扉をゆっくりと開けていく。
もう、怖いものはないのだ。そう思うと、また泣けてきた。
アルビナータの涙は止まらない。彼女が心のままに泣いている間、ティベリウスはアルビナータの頭を時々撫でてくれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます