第四章 声の行方
第21話
アルビナータがそのとき目覚めたのは、ほんの偶然だった。
数百年は生きているに違いない大木の根元で眠りについていたアルビナータは、静寂の中に響く馬の足音で無理やり起こされた。
意識は浮上するものの、アルビナータはまだ眠りたかった。何時間も歩いて、疲れきっていたのだ。身体は重く、瞼も重い。
昼間に魔力の糸を辿って宿営地を出た後、アルビナータは防御壁に設けられた船着き場から舟で川を渡り、兵士たちに置き去りにされながらもルディシ樹海へ入った。さいわい、船着き場は封鎖されておらず、行商人や旅人の通行に支障はなかったのだ。人々の話によると、船着き場の舟守の一人が泥棒一味の仲間だったらしく、予備の舟を使って逃げたとのことだった。
しかし、夕方になる前には体力が限界を迎えてしまったので、アルビナータは早々と眠りに就いた。疲労は蓄積されるのに何故か飲食を必要としないこの身体は、こういうときに便利である。疲れていたからか、大して時間もかからず意識は沈んだ。
アルビナータが重い瞼をどうにか開けて身体を起こそうとしているうちに、馬の足音はアルビナータの目の前を通過していく。宙に浮く小さな火が、青銀の髪や金の縁取りがされた紫のトゥニカ、緋色のマント、白馬をアルビナータに見せる。
アルビナータは眉をひそめた。
「ティベリウス……?」
どこからどう見ても、この時代の成人男性の普段着であるトゥニカの上に赤いマントを重ねたベネディクトゥス・ピウス帝――ティベリウスである。
しかし彼は、古代アルテティア帝国の皇帝なのだ。いくら彼が優れた魔法の使い手で、ここは彼を慕う精霊が多い故郷と言っても、真夜中に樹海へ、それも盗人が潜んでいるのに護衛もなしで訪れるなんて無防備すぎはしないだろうか。あの親衛隊長が許すとも思えない。
ティベリウスを乗せた愛馬のアルブムは、アルビナータの視界から消えてしまう前に足を止めた。アルビナータが目を凝らしてみると、精霊が数体、彼に近づくのが見える。
アルビナータは布団代わりにしていた上着を羽織ると、足音を殺してティベリウスのところへ近づいた。
「――――ふうん。じゃあ、あっちのほうへ行けばいいんだね?」
アルブムから下りたティベリウスが右手を指差すと、精霊たちは一様に頷いてそうだと肯定した。どうやら精霊たちは、ティベリウスに情報を伝えているようだ。約二十年前にこの地を去った異種族の友が盗人を探していることを、他の精霊たちから聞いたのかもしれない。
今夜は美しい星月夜で、こんなに深い木々の海であるが、木々の枝が届かないところには月や星の光が惜しみなく注がれていた。ティベリウスの青銀の髪は天からの光を受けてきらきらと輝き、それ自体が王冠のよう。そして、彼と言葉を交わす精霊たち。何もかもが、まるで何かの物語の一場面だ。
アルビナータは、現代では見慣れたこの光景を見て、感動よりも胸の痛みを覚えた。
数日前からアルビナータは、宿営地を見学するときや眠るとき以外、大抵はティベリウスのそばにいるようにしていた。それは彼のそばが一番安心するからだったし、彼に気づいてほしかったからだ。彼にアルビナータの姿は見えず、声は聞こえない。でも気配くらいは、と思っていた。
それはまったくの無駄で、彼は一度も気づかなかった。いや、時々周囲を気にすることがあるから、気配くらいは察しているかもしれない。しかしそれらしき人物は見えないから、彼は不思議そうな顔で首を傾け、また前を向くのだ。
アルビナータは、この時間のはるか未来に存在している。過去の世界で生きるティベリウスたちに、アルビナータの姿が見えず、触れられないのは当然なのだ。
それはわかっている。わかっているけれど――――――――
精霊たちと話していたティベリウスはすぐ顔を引き締めた。
「……ううん、嬉しいけど、僕一人でやるよ。これは人間の揉め事だもの、人間だけで終わらせないと。それより皆、他の子たちを守ってあげて。僕が追っているのは悪い人だから、君たちを捕まえようとしたりしているかもしれない」
手伝いを申し出る精霊たちに緩く首を振って断ると、ティベリウスは彼らを見回してそう頼む。精霊たちはティベリウスの願いを快く聞き入れ、一斉に散っていく。
が、草木を無造作に組んで造られた、性別も年齢も不明な裸身の人形のような姿をした樹木の精霊だけはティベリウスのそばに残った。近くでそびえるように立つ、樹齢がどれほどなのかわからない大樹に宿る精霊に違いない。大樹の幹に手を当てている様子がとても自然でそのまま溶け入ってしまいそうに見え、感じて、アルビナータはそう推測した。
樹木の精霊が、不意にティベリウスの背後――――アルビナータをじいっと見つめた。そこに何かあるのではないかと疑う、理知的な目だ。
樹木の精霊と視線が合ってアルビナータはぎくりとし、同時に淡い希望も抱いた。闇の中に弱々しい光が差してきたような心地さえした。
「? どうしたの?」
<そこに誰か、いる。姿を隠している>
「ああ、後ろ? やっぱりいるんだ」
樹木の精霊の断言に、ティベリウスは子供のように頷いた。
「実はね、ここ何日か、時々だけど、近くで変わった気配がするんだ。でも、振り返っても誰もいないんだよ。解呪の魔法をかけてみたけど、誰も現れなくて」
変だよねえ、とティベリウスは首を傾ける。姿も声もしないのに気配をかすかに感じることに心底困惑しているのが、声色から読み取れた。
<あの気配は、人のものではない。でも、人の気配もしている。まるでかつてこの地にいた、グレファス族の白き巫女のよう>
「……それは、貴女が若木だった頃にいたという、白い髪と赤い目の巫女のこと?」
「……!」
容姿に触れられ、アルビナータはどきりとした。
その巫女のことは、アルビナータも知っている。初めて会った日に、ティベリウスが教えてくれたのだ。
族長とその息子の対立によって弱体化していたグレファス族をまとめあげて再興した、偉大な女性なのだという。精霊に愛され、民にも敬愛されていた。あの日、ティベリウスがアルビナータに『君は人間なの?』と問いかけてきたのは、アルビナータが故郷の偉人を思わせる色をまとっていたからなのだと言っていた。
樹木の精霊は頷いた。
<あの巫女にとても似ている。でも、神の気配をまとっている。いずれの神の力かはわからないけれど>
「神の力をまとった人……どこかの神殿の神官かな。でも僕、ちゃんと神事は執り行っているし、悪いこともしてないんだけどなあ」
そう眉を下げ、ティベリウスは苦笑した。
人と人ならざるもののやりとりを見つめるアルビナータの胸や喉、目の奥から、不意に熱いものがこみ上げてきた。それはアルビナータの全身を熱しながら、張りつめていたものを緩ませ、その隙に外へあふれ出ようとしている。
それを抑えようとして、アルビナータは唇を噛みしめた。
悲しいのか悔しいのか、さみしいのか、アルビナータは自分でもよくわからなかった。腹が立っているのかもしれない。一体何に対して激しい感情を覚えているのかも、自分ではわからない。
ただ、胸が苦しいことだけははっきりしていた。
「ここに、います…………私は、ここに…………!」
あふれる思いのまま、アルビナータは声をあげる。小さな声だったが、心の中では叫んでいるつもりだった。
「ティベリウス、気づいてください…………!」
貴方は私が知るティベリウスではないけれど、それでも彼だから。
私はここにいる。確かに存在している。どうか、気づいてください――――――――
アルビナータは地面から石を拾い、ティベリウスに見えるように投げた。一つ、二つ、三つ。勘違いだと思われないよう、不思議を繰り返し演出する。
「……? そこに、誰かいるの?」
宙に浮かび上がった石が投げられるという不思議を見せられたティベリウスは、石が投げられた辺り――――アルビナータがいるほうへ目を向けた。樹木の精霊も不思議そうに、細い葉を何枚も連ねたような眉をひそめる。
「……ねえ、もしここに誰かいるなら、何か文字を書いてくれないかな。何でもいいから」
そう呼びかける視線の先はアルビナータからずれていて、視線は合わない。見えていないのだから当然だ。
けれど彼は、アルビナータの存在を認めてくれたのだ。
嬉しくてこぼれかけた涙を拭ったアルビナータは地面にしゃがむと、古代アルテティア語で自分の名と、十六歳の少女であることを記した。このときほど、古代アルテティア語を現代でティベリウスから学んでおいてよかったと思ったことはなかった。
地面に勝手に文字が刻まれていくのを、ティベリウスは驚きの表情で見ていた。その驚きが去ったのかやがて目を瞬かせると、アルビナータ・クレメンティ、と地面に書かれた名を舌に転がす。名の響きを自分の声で確かめるように。
一瞬、初めて彼と出会った日のことが重なって、アルビナータは息を飲んだ。
「アルテティアの民にはない名前だね。少なくても、ルディラティオ周辺やグレファス族にはない……ねえ、どこから来たの? 君は何日か前から、僕の周りにいるよね?」
『そう。私は、とてもとても遠い場所から来た。ある巻物の軸に金細工を触れさせた途端、ここへ来てしまった。だから、元の場所に帰る手がかりかもしれないと思って、探している』
「? 手がかりがここにあるって、どうしてわかるの?」
首を傾けるティベリウスに、アルビナータはさらに詳しく説明した。
『私が持っている腕飾りの金細工が、ここを示している。宿営地で泥棒や盗品に偶然触れたときから、ずっと一ヶ所を示し続けている。きっとこの金細工と関わりが深いものがあって、まだ泥棒が持っているのだと思う』
「盗まれたものが手がかりなの? それなら駄目だよ。盗まれたものは、持ち主に返さないと」
『わかっている。少し調べさせてもらうだけでいい。きっと何かわかるだろうから』
「それならいいんだけど……でもまずは取り返さないと。君はここで、そこにいる樹木の精霊と一緒に待っていて。僕が取り返しに行ってくるから」
と、ティベリウスはアルビナータのために魔法で小さな明かりをいくつか灯すと、愛馬にまたがろうとする。さっき他の精霊たちから話を聞いていたから、彼らから聞いた手がかりをもとに探しに行くのだろう。
『行かないで。泥棒がこっちへ来ている。金細工がそう伝えてくる。ここで待っているだけでいい』
アルビナータは慌てて小石を転がしティベリウスの注意を引くと、地面にそう文字を書いた。
金細工から伝わってくる力の気配に怯えるアルビナータの心臓が先ほどから、早鐘を打って逃げろと急きたてている。恐ろしいものが近づいてきている、だから逃げろ、と。昼間に触れあって以来、二つの金細工は力の糸で繋がったままなのだ。あの盗人が持ち去った金細工と関わりある物が近づいてくれば、アルビナータに伝わってくるのは当然だった。
同時にそれは、アルビナータの居場所があの盗人にも伝わっている可能性が高いということでもある。盗人がこの金細工の繋がりを辿ろうとしているのは、ありうる話だ。
ティベリウスは疑わしそうな顔をしたが、やがて思い直したのか、一つ頷いた。アルビナータがティベリウスの注意を引くのに使った石を拾い、間違った方向にではあるが差し出す。
「でもやっぱり、ここを離れたいんだ。ここには、その樹木の精霊が宿る大樹があるから。君はこの石で、僕を盗人のところまで連れて行ってくれないかな」
『わかった』
アルビナータは了承を書いて伝える。つい癖で、自分自身も頷いてしまった。
そうしてアルビナータは、ティベリウスが樹木の精霊にアルブムを預けた後、彼を先導した。転んだりつまづいたりしないよう注意を払いながら歩いては、ティベリウスが灯してくれた宙に浮く小さな火の下で石を動かし、力の気配の方向を伝える。
歩くほどにアルビナータは、金細工からこぼれ漂う力が濃くなっていくのをひしひしと感じた。夜闇を歩くのとは別種の恐怖が、アルビナータの胸中で存在感を増していく。自分を叱咤しなければ、足が竦んで動かなくなってしまいそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます