第20話
気づけばアルビナータは、己の身体に対する認識さえもが失せ、意識だけになっていた。音も光も失せた闇と一体化してしまったかのようだ。己の腕や足がどこにあるのか、アルビナータはまるでわからなくなっていた。
その代わりに、前方に門扉があるのをアルビナータは認識した。アルビナータの背丈の何倍もありそうな、王城の門を思わせる巨大な門扉だ。輝かんばかりに白い身はそれだけですさまじい存在感があり、触れるのが躊躇われるほど。鎮座していると表現しても、違和感がない。
普通のものではないに違いないこの扉は、元いた時代に通じているのではないだろうか。希望を抱いたアルビナータは、勇気を出して扉に近づいてみることにした。前へ、と強く願い、扉に近づく。
だが、扉に触れるまでもう少し、というところで、アルビナータの意識は停止した。
扉の向こうから、ティベリウスの気配がしたから。
身体があったなら、アルビナータは無意識のうちに呟くか、強く名を呼ぶかしていただろう。だが今はない。意識の中で名を呼ぶしかない。
何故扉の向こうからティベリウスの気配が、とアルビナータが疑問を意識に浮かべた途端だった。
アルビナータ、と呼ぶ驚いた声が、アルビナータの意識に落ちた。
驚きに染まったアルビナータの意識は、考えることもしなかった。まっすぐに扉へ突進する。扉の向こうにティベリウスがいる。そのことしか考えられなかった。
しかし、扉にアルビナータの意識が触れても、扉はアルビナータをティベリウスのもとへ連れて行きはしなかった。
――――――――私の鍵を返せ
声なき声がアルビナータの意識を支配したかと思うと、後ろへ強く突き飛ばされたかのような衝撃がアルビナータを襲った。
直後、意識だけになったときと同様の唐突さで、世界が変わる。雑多で無秩序な情報が意識へ流れこんでくる、時間が流れる世界にアルビナータはまた放り出されてしまう。
失せていた感覚がゆっくりと戻ってくるのに伴い、アルビナータは身体の重みと足裏の地面の感触を感じた。しかし、思考が追いつかない。アルビナータは一瞬自分がどこにいるかもわからず、肩で息を繰り返した。
「な、に……今の…………」
途方もなく長い時間を過ごしたような感覚と恐怖が、アルビナータの身体から離れない。中でも、意識に刻みこまれた声なき声が一際恐怖だった。性別や年齢がわからず、響きもない意思だけではあったが、だからこそか洗脳じみた強制力を帯びた強さを感じさせる。
「――――――――っ」
心臓がうるさく早鐘を打って、胸が痛い。記憶を辿って恐怖を再び味わい、アルビナータは我が身を抱きしめ、ティベリウスが自分の名を呼んでくれたことを何度も思い返した。そうしなければ、全身を浸す恐怖に心が折れ、潰されてしまいそうだった。
そうして少し落ち着いてから、アルビナータは腕飾りの金細工が脈打っていることに気づいた。手首の上に心臓を乗せられているようで気持ち悪い。アルビナータは、今すぐ腕飾りを外して捨ててしまいたい衝動に駆られた。
「……」
原因は考えるまでもない。あの扉を思い出しかけて、アルビナータは強く首を振った。無理やり思考を現実に引き戻す。
アルビナータが心を落ち着かせようとしているあいだに金髪の盗人は、自分を捕らえかけた兵士を殴り倒し、逃げていた。屈強な兵士たちが、盗人を追いかけていく。
アルビナータは少し悩んで、殴り倒された兵士にラッパを押しつけて盗人の後を追った。しかし、追いつけるわけがないのだ。すぐに息がつらくなって、足を止める。
盗人が逃走しているという伝達はたちまち兵士たちに伝わり、さらにラッパが鳴り響いて、宿営地の中はにわかに騒がしくなった。他の一般兵や上官たちがばたばたと行き交い、上官たちの天幕がある一画や犯人が逃げたほうへ向かう。市場のほうで、賑わいとは違う騒ぎの声が聞こえてくる。近くではともかく見つけだせ、ぐすぐずするな、といった上官の叱咤と、兵たちへの指示が飛んでいた。
アルビナータが門のほうへ向かうと、兵たちが盗人を今まさに追おうとしているところだった。どうやら盗人は、宿営地へ荷を運んだ帰りの馬車に乗って逃げたらしい。兵たちの会話からすると一人は捕らえられたようだが、残りは逃がしてしまったとも言っていた。
ともかく兵たちは焦っていた。当たり前だ。皇帝たちの不在中に宿営地の親衛隊上層部の天幕から物を盗まれたなんて大失態、一体どんな顔で帰還した皇帝たちに報告できるというのか。なんとしても皇帝の帰還までに盗人一味を捕らえ、盗まれた物を取り返すのだと意気巻いていた。
アルビナータは深呼吸をすると、魔力の糸を見つめた。
盗人が持っていたあの袋の中に、アルビナータが身につけている腕飾りの金細工と関連のある品が入っていることは明白だ。だから金細工は、盗人が袋ごとアルビナータを通り抜けた途端に反応し、アルビナータをあの領域へと連れ去ったのである。そうとしか考えられない。
なんとしても、もう一度盗人を見つけなければならない。そして、金細工と関連があるに違いない品を手に入れなければ。
幸運なことに、魔力で紡がれた糸のような気配が腕飾りの金細工から盗人が逃げた方向へ伸びていた。偶然とはいえ、二つの金細工が触れあったためだろうか。ならば、この糸を辿っていけばあの盗人のもとへ辿り着けるはずだ。
仮に見つけたとして、どうやってあのたくましい男から腕飾りを奪えばいいのかわからない。そもそも、アルビナータの足で、兵士たちより早くあの男に追いつくことができるのだろうか。
だが、行動しなければ元の世界へ戻るための手がかりは失われてしまうのだ。迷ってなんていられない。
だから、アルビナータは追いかけた。
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