第19話

「これ、クラウディウス帝の章……そういえば、よく読んだって言ってました……こっちはなんでしょうか……」

 一人でぶつぶつ言いながら、アルビナータは机に置かれた巻物を紐解いては読んでいく。現代で見るものとは彩色の具合がまるで違う巻物が、金で装飾された机の上に広がった。

 己が置かれている状況を強制的に理解させられた夕暮れから、早十日。アルビナータはティベリウスにこっそり同行し、帝国北部の国境、ロディガンシアに来ていた。首都ルディラティオから遠く離れた、帝国の辺境。ティベリウスの故郷たるルディシ樹海が広がる大地である。

 その樹海を望む軍基地のすぐそばに設営された宿営地の、他より一際大きな天幕が、今アルビナータがいる天幕だ。大きさだけでなく、内部も他とはまったく異なっている。設けられては解体される宿営地らしい簡素なものではあるが、調度の数とその贅沢ぶりが、住まう者の位の高さ――皇帝の天幕であることを主張していた。

 現代では見ることができない皇帝の仮住まいに目を見張り、目移りしながらもアルビナータの探索は止まない。できる限り動かさないようにしながら、机に置かれた巻物や胸像、魔法道具を調べ、そのたびに落胆する。

 アルビナータがこうして家探しをしているのは、現代へ帰る方法を見つけるためだ。自分がこの時代へ来てしまったのは、『帝政』の原本の軸と金細工が触れあったことが原因だとアルビナータは理解している。ならば、オキュディアス一族が作った道具を探せば手がかりになるかもしれない。アルビナータはそう推測し、そういうものが置いてありそうな場所の一つである皇帝の天幕の中を捜索しているのだった。

 だが、今のところ、手がかりは見つからない。ここにないとなると、他にオキュディアス一族と関係がありそうなのは、ガイウス・ウィンティリクスの天幕くらいだ。彼の祖父の代までは神官を輩出していた家系なのだから、彼が所有するヤーヌス神像がオキュディアス一族に関係した品であってもおかしくはない。

「でも、どこにあるのかわからないんですよね……」

 ティベリウスの軍基地視察は、軍人としての経験を重ねている異母弟デキウスと会うことを兼ねた、一応は私的なものということになっている。それでも親衛隊を連れているので、軍基地から少し離れたところに設営された宿営地はそれなりの規模だ。少々調べた程度では、あの辺りだろうという程度しかわからない。アルビナータがティベリウスの天幕を調べていたのは、そういう事情もある。

 なくさないよう手首につけた腕飾りの金細工も、今はまったく異常が見られない。こうして見る限りは、ただの装身具だ。

 いつまでもここにいても仕方がない。今はいないようだが、いつティベリウスたちがこの天幕に入ってきるかわからないのだ。アルビナータはまだ何かないかと辺りに目をやりながらも、皇帝の天幕を後にした。

 皇帝の天幕の外へ出てみれば、離れたところから声が聞こえてくるものの、おおむね静かな天幕の数々と通路がアルビナータの眼前に広がる。天幕は等間隔に整然と並び、左右どちらにもまっすぐ伸びて見通しがいい。

 高位の者たちの天幕が並ぶ一画を抜けると、兵士たちの宿舎やその他の施設が見えてくる。そちらでは、宿営地の警護を任された兵士たちが訓練を終え、皇帝や主だった幕僚が出払ったこの自由な時間を思いきり楽しんでいた。広場に集まってふざけあったり、最寄りの植民都市から来た芸人一座の芸に喝采したり。物を売りに来た女性や子供と談笑する姿も見られた。

 古代アルテティア帝国の軍基地は、近隣の植民都市などにも一部の施設が開放されていて、商人が基地内の市場で商売し、住民が軍病院で治療を受けることは当たり前の光景なのだ。兵士が最寄りの植民都市へ行くのも同様である。そうした交流によって現地女性と恋愛関係になり、退役後に植民都市で新しい生活を始める兵士も少なくなかったのだという。

 一時しか存在しない皇帝の宿営地もその例外ではないようで、一体どこから話を聞きつけたのか、設営した翌日から近隣集落の人々が商売をしに訪れて賑やかだ。もし、古代アルテティア帝国についてよく知らない現代の一般人がこの光景を見たなら、少し物々しいところが見受けられる古代の集落、と思うことだろう。

「……」

 現代と変わらない、人々のぬくもりを感じさせる一場面を見つめ、アルビナータは唇を噛みしめた。

 最初の衝撃が去ってから数日は、アルビナータは好奇心が赴くままに古代アルテティア帝国の宿営地を見物していた。どれほど資料やティベリウスの話でありようを知り、想像を働かせても、やはりありのままの当時を体験することには及ばないのだ。本物の古代アルテティア帝国の世界を体験するという知的好奇心への刺激に、ドルミーレ王立歴史博物館の学芸員が抗えるはずもなかった。

 ましてや、ベネディクトゥス・ピウス帝の北方視察なのである。皇帝失踪の真実を知ることができるかもしれないのに、見逃したいわけがない。

 しかし、ここがどれほど学芸員の知的好奇心を刺激すると言っても、所詮は過去の世界。アルビナータがいるべき世界ではないのだ。コラードもルネッタもいないし、ティベリウスはアルビナータが知る彼ではない。誰にも存在を認めてもらえず、誰かと語りあうこともできない。そんな身の上に耐え続けることは、アルビナータには無理だった。

 ティベリウスはこんな気持ちだったのだろうか。師であり友人でもある人が過ごした日々に、アルビナータはこの数日間、何度も思いを馳せた。そして、自分がしてあげられる慰めは彼にとって到底足りないものだったに違いないと、自分の幼さや無力さを改めて思い知り、落ちこみもしたのだった。

「よし! 俺の勝ちだ!」

 アルビナータが宿営地のあちこちをうろうろしていると、一般兵士の天幕が並ぶ通路で、高らかな勝利宣言が聞こえた。歓声に興味を引かれて覗いてみれば、向かいあう二人の男がいかにも勝者と敗者といったふうの感情表現をしている。どうやら、太い縄を使って力比べの類をしていたようだ。暇潰しの方法は、古今変わらないものである。

 この程度なら、微笑ましく見ていられるのだ。が、これに続いて防具をいかに誰が早く磨けるか競争し、負けた者が罰則をするとなって広場が盛り上がるや、アルビナータは硬直した。

 というのも、男たちのやりとりによると下品の部類に入ることが罰則だったのである。健全な十六歳の乙女であるアルビナータには、あまりにも刺激が強すぎる。

 いよいよ始まりそうになって、アルビナータは慌ててその場から逃げだした。逃げる先なんて考えていない。ともかくこの一画から逃げたかった。

「……?」

 適当に通路を走っていたアルビナータは、前方の他に誰もいない通路にいる男を見つけて、目を瞬かせた。

 明るい金髪が眩しい、筋骨たくましい若い男だ。その容姿と身なりからすると、この辺りかもっと北の異民族の血を引く、従者か兵士なのだろう。

 珍しいことではない。広大な領土を有する古代アルテティア帝国には、多くの民族や部族が住んでいたのだ。出稼ぎ先として軍を選び、現代の国籍にあたる市民権を得ようとする者も少なくなかった。

 しかしアルビナータは、この男が気になった。

 誰かの従者らしき男とすれ違ってすぐ、一瞬だけだが振り返ったのだ。その後は、左右の天幕を忙しなく観察している。その目つきがなんというか――――怪しすぎる。

 上層部の誰かの従者なのかもしれない。けれど、何かおかしいとアルビナータに訴えてくるこの感覚は、覚えがある。

「……」

 放っておけず、アルビナータは男の後を追った。

 アルビナータのその勘は的中した。金髪の男は周囲に人気がなくなったことを確かめると、すぐ近くの天幕の様子を窺うや、素早く天幕の中へ入ったのだ。アルビナータが男に続いて天幕の中へ入ると、男は持っていた白い袋に小箱を入れ、さらに辺りを見回している。これで従者が主の持ち物を探しているのだと言われても、さすがに信じがたい。

 この男は泥棒なのだ。兵士たちが緩みきっている隙をついて、従者のふりをして部外者の立ち入りが禁じられた上層部の天幕が並ぶこの区域へ、堂々と入りこんだに違いない。

 アルビナータはそう確信したが、だからといって止められるわけでもない。金髪の男――盗人が慣れた動きで物色し、素知らぬ顔で天幕を後にするのを見ていることしかできない。

 残念なことに、数少ない道行く者たちは堂々とした態度に騙されて、この金髪の男が盗人であることにまったく気づかない。異民族の金髪の従者が珍しくないのでは、それも当然だろう。知り合いなのか盗人に声をかけ、広場で興行をやっている芸人一座を見ようと誘う者さえいる。もしかしたら、下見のために本当に誰かの従者をしていたのかもしれない。

 アルビナータがおろおろしているあいだにも、盗人は軍上層部の天幕からめぼしいものを盗みだしていく。そして大胆にも、特に地位が高い武人の天幕に目星をつけた。従者が一人くらいはいるはず、とアルビナータは淡い希望を持っていたが無駄だった。中へ入ってみれば、地位の割には質素な天幕の中を物色する盗人しかいない。

 このまま物を盗まれるのを放っておくことはできない。なんとかできないかと周囲を見回していたアルビナータは、はっと気づいて身をひるがえした。皇帝の天幕の前に置かれた演説台近くで暇そうにしていた兵士に駆け寄り、彼が持っていたラッパをもぎ取る。

 勝手に宙に浮くラッパを見て兵士がぎょっとするのを尻目に、アルビナータは盗人が物色している現場へ必死に走った。後ろから兵士が追いかけてくる声と足音が聞こえる。

 現場付近までなんとか逃げると、今まさに天幕から出てきた盗人をアルビナータは発見した。その手首には、アルビナータの手首を飾っているものと同じ意匠の、陽光を返す金細工が握られている。

「あの金細工……!」

 アルビナータは思わず声をあげた。それを知らない盗人は、宙に浮かぶラッパを見てぎょっとする。

「貴様、何をしている!」

 駆けつけた兵士も盗人を見つけ、厳しい声をあげた。舌打ちした盗人は兵士めがけて突進して、アルビナータの身体をすり抜ける。

 アルビナータは、何か熱いものが我が身に触れたのを認識した。

 ――――――――その瞬間。

 何の前触れもなく、アルビナータの五感は遠ざかった。

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