第18話

 ドルミーレの来館者たちが名残惜しそうに坂を下りていき、空では夜の帳が下り始める時刻。カタレッラに再び収蔵庫を開けてもらい、奥で震えていた水の精霊から話を聞いたティベリウスは、‘皇帝の間’のアルビナータの部屋へ向かった。

 アルビナータの部屋にコラードはおらず、代わりに精霊たちが寝台の周りを取り囲み、心配そうにアルビナータを見守っていた。しかしティベリウスが部屋に入った途端飛び上がり、逃げてしまう。一体として残らない。

 収蔵庫の作業机の上に転がっていた腕飾りをティベリウスが持っているのだから、精霊たちの反応は当然だ。この腕飾りの金細工からはまだ、尋常ならざる力の気配が漂っている。近づけば自分たちなどひとたまりもないと、本能で察知したのだろう。

 精霊たちが危険を察知して逃げたことを気にせず、ティベリウスは腕飾りを寝台横のテーブルに置いた。

 途端、ティベリウスは収蔵庫に漂うものよりはるかに弱いが同じ力から解放される。先ほどからつきまとっていた感覚が失せ、ティベリウスは安堵の息をついた。

 ティベリウスはこの腕飾りを掴んでいる間中、収蔵庫の中へ入ったときのような、吐き気や目眩、どこかへ吸いこまれそうな感覚にとらわれ続けていた。ティベリウスの意識を吸いこもうとする力は強く、少しでも気を抜けばティベリウスはアルビナータの二の舞になっていただろう。

 寝台に横たわるアルビナータを見下ろし、ティベリウスはぐっと両の拳を握った。

 ティベリウスは昨夜、アルビナータにこの腕飾りを見せてもらっている。だがそのときは、力の欠片すら感じなかったのだ。今のティベリウスは、かつてよりも力の気配に敏感になっているのに。普通の腕飾りにしか見えなかったから、見過ごした。

 重い扉が開く音に続いて焦りを乗せた足音が聞こえてくるや、コラードが部屋の扉を荒々しく開けて姿を現した。

 ティベリウスがアルビナータの手を握り、認識できる状態にすると、コラードはすぐ口を開いた。

「ティベリウス、アルビは」

「まだ起きないんだ。ルネッタは大丈夫? 他の皆も」

「ああ、姉貴は医務室でまだ青い顔してたがそれだけだし、他の奴らも無事だ。けど、物は全然無事じゃねえ」

 と、コラードは両腕を組んだ。

「収蔵庫は魔法道具がほとんどやられた。扉も一枚は潰れて、前室の作業場側のも魔法が剥がれる寸前、保存管理部門が予備の魔法道具で保存環境を再構築してるとこだ。本館の展示室は点検してる最中だが、俺が聞いた限りじゃ保存環境用の魔法道具は別館に近い部屋のが壊れたみてえだな。ちなみに、動力制御室の管理人は大混乱中だ」

 そう報告し、コラードはくそ、と前髪を掻きむしった。

「一体なんなんだよ。変な色になってるところからするとその腕飾りのせいだろうけど、コッタのおっさんは何も言ってなかったぞ。収蔵庫に入った姉貴とアルビ以外、皆平気だし……」

「うん。……多分、これが誘発したんだと思う」

 ティベリウスは言って、『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章をコラードに見せた。

「『帝政』のお前の章が?」

 コラードが眉をひそめると、ティベリウスは重々しく頷いた。ほらこれ、と、巻物の木の軸と腕飾りの金細工に刻まれたギリル語の文を示す。

「アルビナータが昨夜、言っていたんだ。コラードに買ってもらった腕飾りに、僕の章の軸に刻まれたものと同じヤーヌス神の図像と似た文がある、もしかしたらこの腕飾りもオキュディアス一族が作ったものかもしれない――――って。だから、二つを比べてみようとしていたんだと思う」

「ああ。確かに昨日、巻物の軸と似てるような気がしたって、買った後であいつが言ってたな」

 苦々しい顔で、コラードは舌打ちした。

『オキュディアス一族に何か関係がある品かもしれません』

 アルビナータはティベリウスに腕飾りの金細工を見せ、そう目を輝かせていた。こんなに似た文と同じ図像の細工を、三部作の巻物の軸を見たことがない者が作れるわけがない。最低でも、オキュディアス一族の原本を見ることができた人物であるはず。収蔵庫の作業机の上からも、アルビナータが自分の推論を確かめようとしていた様子がうかがえた。

「……仮に、その腕飾りの金細工もオキュディアス一族に関わるものだとして。アルビはなんで倒れちまったんだ?」

「うん、多分…………アルビナータの精神は今、巻物の中というか、僕の治世の何年目かに飛んでいるんだと思う」

「……は?」

「間違いないよ。この金細工は、ヤーヌス神の鍵と同じ力を持ってるんだ。アルビナータは、ヤーヌス神の鍵を使って時間の扉を開けてしまったんだよ」

 何言ってるんだお前と言わんばかりのコラードに、ティベリウスはそう断言した。

 ティベリウスとてこんな事実、嘘だと思いたい。だが刻まれている二つの文とこの不可思議な事象からすると、そうとしか考えられないのだ。

『これは神の御力を留めて刻んだもの。我ら時刻む者の使命。河の向こうを眺める扉の一つ』

 『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章の巻物の軸には、そう刻まれていた。巻物を河辺の扉に例えている。

 一方、腕飾りの金細工に刻まれている文は少し違う。

『これは神の御力を留めて刻んだもの。我ら時刻む者の使命。河を見つめる鍵』

 この金細工は神の力を有した鍵なのだと、文は示しているのだ。

 ヤーヌス神は、あらゆる扉の鍵を持つ神だ。物事の内と外を同時に見つめる、始まりと終わりを知る神。またそうしたことから、過去と未来といったものまでを象徴するともされている。

 疑う余地はない。ヤーヌス神の扉である巻物と鍵である金細工が揃ったことで、時空の扉が開かれ、アルビナータの精神は吸いこまれてしまったのだ。

 オキュディアス一族にまつわる噂――――神の力を借りて時空を超え、真実を書き記しているのだ――――は、真実だったのである。

 ティベリウスが表情と雰囲気を崩さないのを見て、さすがにコラードもそれが事実なのだと理解したようだ。くそ、と吐き捨てた。

「もしそうだとしたら、どうすりゃいいんだよ。時間に関わる魔法なんて学芸員用の資料室にも置いてねえし、警備員だって使えねえぞ。今すぐ魔法使いに聞けるわけねえし……」

「うん。だからコラード、手伝ってほしいんだ」

 と、ティベリウスがコラードに頼もうとすると、彼はあのなとティベリウスを睨んだ。

「何のために、俺がこっちに戻ってきたと思ってんだ。わざわざ姉貴や館内のことを伝えるためだけに来ねえっての。後輩がわけわからんことになってて、俺にできることがあるならやってやるに決まってるだろ」

 コラードは高らかに宣言する。ただでさえ怖いと言われがちな目は強い意志を湛えてさらにきつく、狩りの態勢に入った猛獣を思わせる。

 そう、彼はアルビナータを、王立学院に在籍していた頃から気にかけていたのだ。手伝ってほしいなんて、言う必要もないことだった。見た目で少々損をしているが、後輩を可愛がっている先輩なのだと改めて感じ、ティベリウスは頬を緩めた。

 ティベリウスがしてもらいたいことを話すと、コラードは唸った。

「……それが今のところ、唯一アルビを連れ戻せそうな方法なんだな」

「うん。外れているかもしれないけど、今はこれ以外、アルビナータの精神をこの時代へ連れ戻す方法を思いつかないんだ」

 それは、ティベリウスの希望が多分に混じった推測でしかない。多少魔力が増し、世界の理について感覚で理解できるようになっているとはいえ、ティベリウスは学者でも神でもないのだ。

 しかし、アルビナータを過去世界から連れ戻す可能性があるなら、試すしかない。

 コラードは、わかったと頷いた。

「じゃあ、ちょいと行ってくる。お前も、自分の章の中にアルビがいるっていうなら見つけろよ。魔法が得意な‘精霊帝’なんだからな」

「うん。――気をつけて」

「おう。肉体労働は任せとけ」

 そう、おどけた物言いで場の空気を和ませたコラードは、ティベリウスの髪をくしゃりとかき回す。今度ははっきりと頼もしい笑みをひらめかせ、部屋を出て行った。足音が遠ざかっていく。

 ティベリウスは、乱された髪を撫でた。緊張と不安から強張っていた頬や口元がふと緩む。

「すごいなあ……」

 コラードが来るまでは後悔で沈んでいた心が、少しだけ心が軽くなっている。彼とこの事態の情報を共有したからか、信じて任せてもらえたからか。

 かつて常に傍らにあった青年の頼もしい姿が、ティベリウスの脳裏をよぎった。

『大丈夫ですよ、ティベリウス様。俺も精霊たちも、皆も貴方の味方です』

 故郷を離れルディラティオへ来てすぐに出会い、皇子だった頃からずっと、ティベリウスを公私の両面で支えてくれていた親衛隊長。身分をわきまえ、ティベリウスに友として接してくれることはなかったが、彼の笑顔や力強い言葉にどれほど励まされたことか。

「…………よし」

 一つ頷いて表情を改めたティベリウスは、アルビナータの頬を一撫でしてから、念のため部屋に防護の魔法をかけた。回廊へ出て、集まっている精霊たちに告げる。

「皆、申し訳ないけど、ここから離れてくれないかな。これからここで、あの巻物を開くから。僕にも悪い影響があるだろうし、何かあっても君たちを守れるかわからない。他の子たちにも、今夜は‘皇帝の間’へ近づかないよう伝えて」

 ごめんね、とティベリウスは精霊たちに謝る。精霊たちは一様に不安そうな顔を見合わせたが、この状況や腕飾りから漂う力の異様さは彼らも理解しているのだ。ティベリウスやアルビナータのことを気にしながら、‘皇帝の間’を離れていく。

 それを見送ってから、ティベリウスは書斎の書棚に飾ってある鉱物の置物を持ち出した。床に膝をつき、そばに鉱物の置き物を、目の前にティベリウス・ピウス帝の章の原本を置く。

 鉱物の置き物に絡めておいた腕飾りを手にした途端、床がぐらぐらと不規則に揺れているような錯覚にティベリウスは囚われた。目眩と吐き気に耐えながら、原本を開く。

 すると力が原本からあふれ、不快な感覚が一層ひどくなった。ティベリウスは顔をゆがめ、目を閉じて深呼吸を繰り返す。意識が原本のほうへと引きずりこまれそうになるのに抵抗する。

 無理やり目を開け、ティベリウスは鉱物の置物を原本の端に置いて重しにした。破れてしまわないよう、ゆっくりと紙面を広げていく。

 そうして原本を広げた先に、一部分だけ、文字が揺らめいている箇所があった。まるで絶えず波紋を広げる水面越しに見ているかのように、その部分だけ文字が常に揺らめいている。

 ここだ。この時期にアルビナータは引きずりこまれている。確信し、ティベリウスは唇を硬く引き結んだ。

「……」

 深呼吸を一つして覚悟を決め、ティベリウスは腕飾りを持つ手で紙面に触れた。

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