第三章 扉の向こう
第15話
それは、木陰が熱風をよく冷ます、穏やかな昼下がりだった。
「――――だから、この葉をこうやってよく揉むとね」
そう言って、ティベリウスは数本の指に挟んでよく葉を揉み、その指を傍らの少年の鼻先に近づけた。
ティベリウスの指先から漂う葉の匂いを嗅いだ少年は、目を瞬かせてティベリウスを見上げた。
「いい匂い……! 杉と花が混ざったような匂いがします兄上!」
「うん。それと、これをすり潰して飲めば喉の痛みに効くんだ。冬場に重宝するよ」
素直な感想に微笑んで、ティベリウスはさらに説明を加える。へえ、とまた栗色の髪の少年は軽く感心の声をあげた。
七つの丘とその周辺に築かれた永遠の都、ルディラティオ。その丘の一つ、クレアーレの上に建てられた皇宮の一隅で、ティベリウスは異母弟のデキウスと共に、執務から解放されたひと時を楽しんでいた。
ただし、二人が腰を下ろしているのは皇宮の屋根の上である。風の精霊たちに誘われて、魔法で上ったのだ。デキウスは最初こそ初めて体験する高さに少々緊張していたが、もう馴染んでまったく気にしていない。それどころか、見下ろすルディラティオの広大な景色にはしゃぐ余裕さえあった。
「兄上も、冬場に具合が悪くなったらこの葉で喉を癒していたんですか?」
「うん。僕はあまりそういうことにならなかったけどね。他の人たちが具合が悪くなったときは、樹海へ行って草を採っていたんだ」
「兄上は、小さい頃から人々の役にたっていたのですね」
デキウスはティベリウスから渡された葉を眺め、それからきらきらした目でティベリウスを見た。
「兄上、私はいつか、ルディシ樹海へ行ってみたいです。兄上が生まれ育った場所を見てみたい」
「うん、興味を持ってもらえるのは嬉しいな。……防御壁の向こう側だから、そう簡単に行けないけど」
アルテティア帝国は帝政に移行する前から異民族の侵略に悩まされており、二人の父の御代、北方を流れる川沿いに長大な防御壁を築いて襲撃に備えるようになっている。ルディシ樹海があるのは、その川のすぐ向こうだ。
防御壁の向こうの異民族ともそれなりに良好な関係を築いているとはいえ、ルディシ樹海は皇帝や皇子が軽々しく行っていい場所ではない。二人の父が防御壁の向こうの巫女と恋に落ちたのは、当時はまだ将軍で、同盟関係にあるグレファス族と防御壁を越えての交流が可能だったからなのだ。
デキウスは口をとがらせた。
「でも、軍基地の視察は大事なことではありませんか。ルディラティオの外は、クレトゥス島の別邸までしか私は知りません。父上が将軍だった頃の任地ですし……辺境の地理や異民族の文化を知るのも、皇族には大事なことでしょう?」
「うーん、まあそうなんだけど……皆、納得してくれるかなあ」
異母弟にねだられ、ティベリウスは苦笑する。行かせてやりたいのは山々だが、臣下の者たちが渋い顔をする様子しか思い浮かばない。
でも、大事な異母弟の頼みごとなのだ。
「……まあ、確かに色々な場所を見てみることは大事だからね。世の中のすべてを見ることはできなくても、どんなものか想像するための手がかりを知っておいたほうがいい」
「……! じゃあ!」
「まずは、ガイウスやアグリッパに相談してみよう。彼らならそんなに反対しないだろうし。根回しも手伝ってもらって、なんとかあちらへ行けるようにするよ」
「! ありがとうございます兄上!」
やったあ、と両手を上げ、デキウスは喜色満面で異母兄に礼を言う。今年で十五だというのに、こうして相好を崩すと小さな子供とそう変わりない。
その無邪気な喜びように、ティベリウスまで嬉しくなって自然と顔がほころんだ。これはどうにか約束を果たしてやらねばならないと、異母兄としての使命感も芽生える。
時に年齢より幼い様子を見せるこの腹違いの弟が、ティベリウスはとても大事だった。防御壁の向こうから突然やってきた兄を一心に慕い、頼ってくれるのが嬉しい。皇帝に就任してからはじっくり話をする機会が減ってしまっていたから、なおのこと、こうして何も気にせずただの兄弟でいられる時間は愛しくてならなかった。
――――――――と。
「陛下、皇子殿下! そろそろ時間です! 下りてください!」
下のほうから、よく張った大きな声が二人を呼んだ。見下ろしてみると、親衛隊長のガイウスが二人を待っている。
「もう時間みたいだね。じゃあデキウス、下へ下りようか」
苦笑し、ティベリウスは地面へ手のひらを向けた。魔力によって淡い緑の階段が、ティベリウスとデキウスの前に築かれる。
二人が地面へと下りると、はらはら顔で二人を見上げていた侍従たちは一様にほっとした表情で二人を迎えた。家庭教師からの呼び出しを侍従に告げられたデキウスは嫌そうな顔をしていたが、ティベリウスが優しく諭すとがっくりと肩を落として踵を返す。
「兄上! 約束の件は忘れないでくださいね!」
それでも去り際に、デキウスは振り返って念押しをする。ティベリウスはわかってるよ、と笑いながら返事してやった。
ガイウスは不思議そうにティベリウスを見下ろした。
「陛下、約束とは……?」
「ああ、デキウスがルディシ樹海へ行きたがっていてね。父上が将軍だった頃の任地だったし、僕がよく話すからかな」
「なるほど。皇子殿下は別邸へ行かれる以外、ルディラティオの外へ出ることはめったにありませんからね」
「でしょう? だから勉学のためとか理由をつけて、僕の視察に同行させるか、あちらの軍基地で勤務させてやれたらいいんだけど」
アルテティア帝国では、十七歳を過ぎた皇族や良家の子弟が軍務の経験を積むことは珍しくない。むしろ見聞を広めたり人脈を築くためと推奨されており、元老院議員や州長官の大半は軍経験者だ。
ティベリウスは十六歳で皇帝に就任したため経験できなかったが、デキウスには経験させてやれるだろう。こっそり軍基地を抜けてルディシ樹海へ行くのも、まあ騒ぎを起こさないなら許容範囲内だ。起こしたら起こしたで、叩きあげの武将たちにしっかり怒られればいい。それも経験である。
「皇子殿下を軍基地へ、ですか……よりによって辺境になんてと、反対する者は多そうですが」
「うん。だから、まずはアグリッパに相談しようと思って。あと、ガイウスのお父さんにも協力してもらえたらいいんだけど……」
と、ティベリウスはちらりとガイウスを見上げる。ガイウスは苦笑した。
「わかりました。父に話をしてみましょう」
「ありがとう、ガイウス」
ガイウスの協力を得られ、ティベリウスは笑顔になった。
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