第14話
「おい、クレメンティ。もう閉館時間だぞ」
ページをめくる音と筆を走らせる音だけが繰り返される寒々しい部屋で作業にあたって、どれほどか。隣の作業机から、制止の声がアルビナータにかけられた。
翻訳作業に取り組んでいたアルビナータは、ふっと我に返って筆を止めた。瞬きを繰り返し、作業机に備えつけられている時計を見る。
「もうこんな時間なんですね。気づきませんでした」
「外の鐘の音は、ここには聞こえてこないからな。私は先に戻る。お前も皇帝陛下を心配させないよう、早く帰れ」
「はい」
マルギーニらしい促し方にくすりと笑い、アルビナータは頷く。それを見届けず、マルギーニは収蔵庫を出た。幾重にも鍵と魔法道具で厳重にされた扉が、重々しい音をたてて閉じられる。
静寂が収蔵庫の中に戻り、アルビナータは辺りを見回した。
見たところ、アルビナータ以外誰もいないようだ。棚のほうを軽く覗いてみても、人間の声や足音は聞こえてこない。
「……」
アルビナータは眉根を寄せた。
これはちょうどいいのでは、と思ったのだ。翻訳作業をしていたのは、それが今の最優先業務だからというだけでなく、マルギーニが隣で作業していたから、というのがあった。
帰る前に少しくらい、いいだろう。アルビナータは自分を納得させると、筆を置いた。制服のポケットから、昨日コラードに買ってもらった腕飾りを取り出す。
さらには、横に置いていた図録を開き、あるページで手を止めて横に並べた。
「……やっぱり、同じですよね……」
腕飾りとベネディクトゥス・ピウス帝の章の軸、そしてページに載せられているゴルティクス帝の章の軸の図像を並べ、それらをじっくりと見比べたアルビナータは呟いた。
そう、腕飾りの金細工には、原本二巻と同じヤーヌス神の図像が刻まれていた。構図どころか、彫り方も瓜二つだ。横に刻まれた文は原本二巻と金細工で少々異なるが、内容を鑑みれば、関連があることは明らかである。
文字の筆跡がそれぞれ異なることからすると、おそらく三つとも、違う人物が制作したのだろう。しかし、ヤーヌス神の描写は同じなのだ。同じ教えを受けた職人たちが、この金細工や巻物の軸を制作したに違いない。
つまり、この腕飾りに用いられている金細工は、オキュディアス一族と関わりのある職人が制作した物ということになる。土産物どころか、学術的に貴重な史料だったのだ。
昨日、この金細工を見たときからアルビナータは、ヤーヌス神だけでなく、文章も記憶している原本の軸のものと似ているような気がしていたのである。帰宅してティベリウスに見せたときも、彼はとてもよく似ていると言っていた。しかし二人ともはっきり覚えているわけではなかったので、断言できなかったのである。
だからまずは自分が確かめようと、アルビナータはマルギーニには言わず、仕事をしながらもこっそり確かめる機会を窺っていたのだった。
そうして無事、その機会を得られたわけであるが。掘り出し物の思わぬ価値に、アルビナータは困って眉を下げた。
学芸員としては、これをドルミーレに寄付して研究対象とすべきだとは思うのだ。オキュディアス一族については現存する史料が極めて少なく、これほど重要な著作を残しているにもかかわらず、その実態がほとんど謎に包まれているのである。世のため、少しでも史料を提供すべきだろう。
しかしこれは、コラードが買ってくれた腕飾りなのである。それを研究資料とするのは、どうにも後ろめたい。彼に失礼ではないだろうか。
「……」
悩んだ末、アルビナータは考えるのを放棄した。今すぐ答えは出せない。今日のところはここまでにして、ティベリウスやコラードたちに報告しよう。寄付するかどうか決めるのは、それからでも遅くないはずだ。
そう結論づけ、アルビナータは腕飾りをポケットにしまおうとした。
――――――――が。
腕飾りを持つ指先に、物に当たった感触が伝わってきた。軸に近づけていた手を引いた拍子に、腕飾りを巻物の軸に当ててしまったのだ。
その途端、下から何かが金色に光りだした。
「っ?」
アルビナータはぎょっと目を見開いた。見下ろしてみると、なんと、巻物の軸が金色に輝いているではないか。
金色の光は軸から巻物へも広がり、紙面は水面のように波打った。文字が虹色に輝く。よくある魔法道具のものとも、精霊のものとも違う力の気配が巻物からあふれ、たちまち辺りに広がっていく。
逃げなければ。そう思うのに、アルビナータは床に根が張ったように動けなかった。視線を巻物から外すこともできない。
やがて、巻物の紙面が真っ黒に染まった。その中に一つだけ、壁画や図録などで見たような、古代アルテティア帝国時代の扉が浮かびあがる。
その重々しい扉が、ひとりでに開かれた。
――――人の子よ。まだ我が鍵を使おうとするのか。
怒りを秘めた、深みのある男の声が二つ、アルビナータの脳に直接響いた。
そして、アルビナータはぐいと見えない何かで二の腕を掴まれ、引っ張られた。
「っ――――――――!」
声をあげたのか、あげなかったのか。アルビナータは自分でもわからなかった。一体何が起きているのかも。混乱して、何も考えられない。引きずりこまれるのをどうすることもできず、目を開けているしかない。
闇の中、裂くように眩い光に満ちた扉が開いていく。アルビナータはそこに、トーガをまとい、王杓を持った男が立っているのを見た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます