第16話
数体の精霊を侍らせ、‘皇帝の間’の中庭に面した回廊に腰を下ろしていたティベリウスは、空に響く音で、沈んでいた意識を浮上させた。
瞼が重く、まだ焦点がはっきりしていない。眩しさもあって、ティベリウスは何度も瞬きを繰り返した。そのあいだにも、魔法道具の鐘の音が空を震わせている。
「……ああ、僕、寝ちゃってたんだ……」
大分寝ちゃったみたいだねえ。空に混じる色や閉館を告げる鐘の音で時刻を察し、ティベリウスは周囲にする精霊たちに、恥ずかしそうに笑った。
午前中は‘皇帝の間’の書斎で異母弟デキウスの章の翻訳に励んだティベリウスは、午後からは回廊で収蔵庫から借りた巻物を紐解いていた。精霊たちを侍らせて読書をするには、回廊が最適なのだ。ティベリウスを慕って集ってくる精霊たちの中には火を司るものもいるので、念のため書斎には近づかせないほうがいい、というのもある。
そうして、段々と目が疲れてきて。いつのまにか、うたた寝をしてしまったようだ。生き物として不可欠な行為を特に必要としないティベリウスであるが、それでも疲れると眠くなってくるものなのである。
しかし、そのおかげで、久しぶりに懐かしい夢を見た。あれは確か、ゼペタ戦役が終わってしばらくした頃の記憶だ。デキウスが行商人から買った品に紛れこんでいたのだという葉を見せてきたので、説明してやったのである。それがおねだりに発展し、ティベリウスは少々苦労を買うことにしたのだった。
記憶を辿り、ティベリウスは知らず頬を緩ませた。
ガイウスがいて、デキウスがいて。侍従や精霊たちが見守ってくれていた。夏の日差しが眩しい、皇宮の一角の昼下がり。
何もかもが完璧で満たされていた、幸せな日々の一幕――――――――
ティベリウスは、中庭を挟んだ向かいの部屋を目を向けた。その向こうに見える海――――回廊に、在りし日の光景を思い描く。
だからこそ、手元にある巻物の存在がどうにも悲しく、重かった。過去に浸っていられたのは束の間で、ティベリウスは広げられた巻物に視線を落とすと、ため息を一つついて丁寧に巻き直していく。
「……」
ティベリウスがうたた寝してしまうまて読んでいたのは、オキュディアス一族が著した『王政』――――アルテティア帝国が王を戴いていた頃を記した歴史書の一つ、第二代国王ゼフォンの治世を記した写本だ。そのそばにある、きちんと巻かれたほうは初代国王のもの。ティベリウスは正午からずっと、この二巻を隅々まで読むことに時間を費やしていたのだった。
かつて何度も読んだ書物をティベリウスがもう一度読み直しているのは、どちらの王も、治世の最後に謎の失踪を遂げていると文献に記されているからだ。特にゼフォン王は、ルディラティオの郊外の森にある泉へ精霊に知恵を借りに行ったきり、人々の前に二度と現れなくなったとされている。――――ティベリウスと似ているのだ。
まったくもっておこがましいが、自分の身にも伝説上の王たちと同じような何かが起きたのかもしれない。そう考えたティベリウスは、ルネッタに筆談で頼んで貴重な写本を収蔵庫から持ち出させてもらい、先ほどまで読んでいたのだ。
だが、目的の記述はどこにも見つからない。ティベリウスの胸中に、落胆がまた一つ募った。
ティベリウスが探しているのは、単に、己の身に降りかかっただろう出来事についての記述だけではない。さらに一歩踏みこんだ――――神とも精霊ともつかない我が身を人間に戻す、あるいは元いた時代に帰る方法だ。
今までも探さなかったわけではない。だが近頃のティベリウスは、現代で目覚めた直後以来の真剣さで、己の身をどうにかする方法を探していた。様々な歴史的文献や魔法の研究論文、今では研究を禁じられた類の魔法の書籍もコラードたちを通じて入手し、目を通している。先日の外出も、知己の精霊たちに乞われたからというだけでなく、長寿の精霊に知恵を借りるためでもあった。
ティベリウスがこれほど我が身のことを本格的に調べるようになったきっかけは言うまでもなく、三ヶ月前に起きたアルビナータ誘拐事件だ。
あの日、ガレアルテの上空を飛んでいた風の精霊にアルビナータが誘拐されたことを聞かされ駆けつけると、彼女が閉じこめられているガレアルテの港の倉庫は炎に包まれていた。人々の消火活動は大した効果がなく、窓から中へ入った風の精霊が、かろうじてアルビナータを守っている状態だった。
このままでは、アルビナータが死んでしまう。この時代でやっと見つけた、心優しい人間の友が。
恐怖に駆られ、ティベリウスは魔法で水を生みだし、消火した。さらに火の精霊を鎮め、後先考えず、アルビナータのそばに駆けつけたのだ。そして、気を失った彼女に触れた。――――触れてしまった。
それ以来、ドルミーレの一学芸員でしかなかったアルビナータの立場は一変した。
この世で唯一の異能を持つ少女として身を狙われ、人にも悪夢にも怯えるようになったアルビナータの姿は見ていられなかった。だからティベリウスは、この‘皇帝の間’での下宿を提案したのだ。
しかし、ずっとここにいればいいとは思わない。ティベリウスにとってアルビナータは、大事な友人なのだ。本来は人とのふれあいを嫌う性質ではないことも、そばで見てきたから知っている。
彼女には、多くの人と出会いや出来事を重ねて学者となり、良き妻、良き母となる――――そんな当たり前の人生を歩んでほしい。この場所にいつまでも住んでいてはきっと、人の賑わいの中で生きる喜びを忘れてしまう。ここはもう、アルテティア帝国の栄光の残骸でしかないのだ。
けれど、それだけでは駄目だ。ただアルビナータがガレアルテへ下りるだけでは、ティベリウスを呼び寄せるための人質として、彼女はまた悪意ある者たちに狙われてしまうに違いない。
ティベリウスがこの時代からいなくならなければならないのだ。そうすれば、アルビナータの異能は意味を失くす。彼女は自由になれるのだ。
今すぐは無理でも、いつかはアルビナータを自分から解放してやりたい。その一心がティベリウスを駆りたてている。だが後世の写本を調べる程度では、その方法は見つからないらしい。
アルビナータは優しいから、ティベリウスのこの願いを知ればきっと、苦ではないと言うだろう。他の者たちも、異を唱えるかもしれない。だからティベリウスは誰にも打ち明けず、ただ興味があるからということにして、論文や書籍をコラードたちに求めていた。
だがこうも手がかりを掴めないのでは、やはり、現代の魔法学者の知恵を借りるべきなのかもしれない。ティベリウスは学者でも魔法使いでもなく、人知れず知識を得る手段も限られているのだ。文献を集めて一人きりで研究するのは、限界がある。
そう考えながらティベリウスが棚に置いてある時計を見ると、ドルミーレの閉館時刻が過ぎていることを針は示していた。とは言っても作業に区切りがつくまで残業する者は少なくないので、すぐ帰り支度する者は少数派だ。アルビナータも特に書庫や収蔵庫へ行っていると、‘皇帝の間’へ帰ってくるのは遅い。
『王政』を収蔵庫へ返すついでに、アルビナータを迎えに行こう。思いついて、ティベリウスは精霊たちにそう言い置くと‘皇帝の間’を出た。
そうして、ティベリウスが収蔵庫へ向かっている最中だった。
ティベリウスは突然、空気に異変を感じた。音ではなく、力によって震えたのだ。
そうたとえば、魔法が使われたときのような。
博物館であるドルミーレは、多くの場所で魔法道具を使っている。収蔵品や展示品の保存環境の維持は言うに及ばず、物の運搬や医務室での応急処置、行事の演出。不審者を魔法で拘束することもある。魔力が感じられることそのものは、珍しくない。
だがこの力の波動は、今まで館内で使われてきたどの魔法とも違う。もっと強大な力が働いた痕跡だ。奥深く、あるいは遠くの激しい揺れが届いたような感覚がティベリウスの身体を震わせている。
精霊たちはすぐさまこの異変に気づいて不安がり、ねぐらへ逃げ帰った。建物の屋根で羽を休めていた海鳥も敏感に察知し、羽根を落として逃げていく。
ティベリウスも不安を覚え、周囲を見回した。
魔法が放たれたのは、少なくても本館ではない。だが敷地内なのは確かだ。ティベリウスの感覚が告げている。
「アルビナータ……!」
いても立ってもいられず、ティベリウスは走りだした。
本館を出た直後、コラードと数人の学芸員が別館からやってくるのが見えた。
「ティベリウス? どうした。アルビなら収蔵庫だぞ」
宙に浮く『王政』を見つけてか、本を片手にしたコラードが言う。魔法使いではない彼は、魔法の発動に気づいていないようだ。
ティベリウスは、普通ではない魔法が下層で使われたことを皆に話そうとした。が、アルビナータが傍らにいないことを思い出して口をつぐむ。彼女がいなければ、大声を出しても無意味だ。
だからティベリウスは魔法で氷を生みだし、宙に『ついさっき、とても強い魔法がどこかで使われた。心当たりない?』と現代語を書いた。
「とても強い魔法……? そんなのありましたっけ?」
と、コラードが眉をひそめる。話を聞いていた他の学芸員たちも、顔を見合わせ首を振った。もたらされた知らせに、不安そうな顔をする。
念のため魔法がどこかで使われていないか確認したほうがいいと宙に書いて、ティベリウスは踵を返した。
心配しすぎではないかと、冷静な自分は言っている。魔法が使われても、その対象は彼女とは限らないだろうと。何よりここは、警備員や精霊たち、自分がいるドルミーレなのだ。国一番の魔法使いが相手だろうと、アルビナータをさらわせはしない。
わかっている。それでも、心配なのだ。
別館へ入ると、ティベリウスの感覚がさらにざわついた。感知する力の波動から収蔵庫が震源なのだと確信し、ティベリウスはぞっとする。
しかし、収蔵庫へ繋がる扉がある保存管理部門室に近づくと、学芸員たちは普通に作業や帰り支度をしているのだ。誰も、すぐそばで強大な力が発生したことに気づいていない。それが、余計に不安を煽る。
ちょうど作業を終えたところらしいルネッタが、勝手に開いた扉と宙に浮く『王政』を見てか、ティベリウスの存在に気づいた。
「あら、‘アウグストゥス’。『王政』の返却ですか? ……あ、ちょっと待ってくださいな。すぐ紙と筆を用意しますわ」
と、ルネッタはそばにあった作業机の紙と筆に手を伸ばすが、ティベリウスはそれより先に氷の魔法を使った。強力な魔法が収蔵庫で使われたので今すぐ部屋から退避してほしいこと、収蔵庫の鍵を貸してほしいことを宙に記す。
するとルネッタはすぐ表情を引き締め、部門主任のカタレッラを呼んで鍵を用意してくれる。アルビナータが中にいることを知っているに違いない。
ティベリウスは彼女と共に前室へ入り、さらにもう一つ、魔法道具の重い扉を開けた。
いや、開けようとして、扉がただの金属の塊になっていることにティベリウスは気づいた。
「これ、もしかして魔法が解けてる……?」
いつもと違う扉の様子に気づいたのか、ルネッタが呟いた。
ドルミーレの収蔵庫とその前室の扉は、王立魔法研究所の魔法使いたちが開発した、おそらくはこの国でもっとも堅固な魔法の扉の一つなのだという。どんな武器や魔法でも壊すことはできず、中の環境を一定に保ち続ける。さいわいにしてドルミーレがこの扉まで賊の侵入を許したことはないが、強度は作成時に確認済みだとティベリウスも聞いている。
そんな扉にかけられた魔法が、解けてしまった。それだけ強大な力が放たれた証拠に他ならない。
ここから先は危険だ。確信し、ティベリウスは中へ入らないようルネッタに氷で宙に書いて忠告した。ルネッタは頷き、扉から離れる。
それを確認してから冷気に閉ざされる収蔵庫の中へ入った瞬間、ティベリウスのすべての感覚がゆがんだ。頭の中も身体の中も引っかき回されているかのような不快感と目眩に襲われる。
なんだ、これは。
ティベリウスはふらついて壁に手をついた。まるで足元が泥沼へ踏み入ってしまったかのように心もとなく、どこまでも沈んでしまいそうだ。
ばらばらになりそうな感覚と意識を集めて注意を凝らさなくても、冷気と共に満ちる、重いあの力の残滓がはっきりと感じられる。最悪の事態が一瞬頭をよぎり、さらに作業机に目を向ければそれが半ば当たっているのを見て、ティベリウスは血の気が引いた。
「アルビナータ!」
ティベリウスはふらつきながら作業机に近づき、『王政』を置くと、突っ伏すアルビナータの肩を揺すって呼びかけた。しかし彼女は目を開けず、されるがままだ。
「アルビナータ! ねえ起きて!」
もう一度呼びかけてみても、アルビナータは起きてくれない。首筋に手を当てると、かすかに脈打ってはいた。生きているのだとティベリウスはわずかに安堵するが、彼女が目覚めないことには変わりない。
何が起きているのかわからないが、いつまでもここにいては、アルビナータの身体に毒だ。ひとまず部屋の外へ出ようと、ティベリウスは彼女の身体を抱え上げた。
収蔵庫から出て扉を閉じると、ティベリウスはようやくあの不快な感覚から逃げることができた。足裏の床の硬さがもたらす安堵は、長時間風の精霊の背に乗って空を飛んだ後の比ではない。深呼吸を一つすると引っかき回された感覚が正常になっていくような気がして、一層安心感が広がった。
しかし、こうして異常な場所から逃れても、アルビナータはまったく目覚めようとはしない。息はしているが顔色は死人のそれで、身体も冷たくなっている。上下する胸を見なければ、死んでいるようにしか見えない。
泣きそうな気持ちでアルビナータを抱え、ティベリウスが前室を出ると、ルネッタは扉の前で壁にもたれていた。顔色がひどく悪く、立っているのもつらそうだ。ティベリウスが先ほど味わった状態をまだ味わっているに違いない。
今はアルビナータに触れている。話しても大丈夫だ。
「ルネッタ? 体調が悪くなったの?」
「少し気分が悪くなっただけですわ。大分ましになりましたし、お気になさらず」
青い顔をしたルネッタは、無理やりといったふうで微笑んだ。ルネッタの強がりに、ティベリウスは何も言えなくなる。
「ルネッタ! それにクレメンティも……! ‘アウグストゥス’、これは一体……!」
不意に、重い足音と共にそんな焦った声が聞こえてきた。丸々と肥えていて、いつも厚着をしているというひどい冗談と自嘲が絶えない保存管理部門主任のカタレッラだ。他の者たちを廊下へ逃がしてから、様子を見に戻ってきたのだろう。
「カタレッラ。アルビナータが収蔵庫で倒れたんだ。ルネッタも具合が悪くなっている。介抱してあげて」
「なんとまあ……ほれルネッタ、大丈夫か?」
カタレッラは息を飲み、扉の近くでぐったりしているルネッタに近づいた。彼女は平気だと言っているが、顔色の悪さは隠しようがない。
「僕はアルビナータを部屋へ連れて行く。まだ危険かもしれないから、念のため、収蔵庫には入らないよう皆に伝えて」
「わかりました」
丸い顔に緊張感を浮かべ、カタレッラが頷く。それを見るや否や、ティベリウスは早足で部屋を出て‘皇帝の間’へ向かった。
その途中、コラードがティベリウスを発見した。ティベリウスの腕の中にいるアルビナータを見るなり、血相を変えて駆け寄ってくる。
「おい、ティベリウス。どういうことだ」
「わからない。収蔵庫で倒れていたんだ。さっきの力のせいだと思う。一緒に中へ入ったルネッタも具合が悪くなっていて……」
「姉貴も?」
コラードの目に心配の色が浮かぶ。ティベリウスがカタレッラに介抱を頼んだことを話すと、ほっとした顔を見せた。
「コラード、アルビナータを部屋へ運んであげて。僕は収蔵庫へもう一度行くよ。何があったのか、調べないと」
「了解。……無茶すんなよ」
コラードは頷き、ティベリウスから渡されたアルビナータを抱え上げる。その背を見送り、ティベリウスもまた身をひるがえした。
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