第11話
仕事が終わった後。アルビナータはまっすぐ‘皇帝の間’へ帰らず、関係者専用の玄関から本館を出ると、崖の先のほうへ歩いていった。
ほどなくして、朽ちて倒れた柱が散乱しているのが見えてきた。玄関からは隠れていて、‘皇帝の間’の東側のテラスや二階のバルコニーが見える。夕日の光を返す海面は眩しく、行き交う船や島は黒い影になって細部までははっきり見えない。
精霊たちが数体遊んでいるほうへ、アルビナータは歩いていった。立ち止まり、周囲とは違う古代アルテティアの遺物を見上げる。
――――と。
「アルビ」
遺物の周囲を飛んでいた風の精霊が不意にアルビナータの背後に視線を向けたので不思議に思ったのも束の間、聞き慣れた声が聞こえてきた。振り返ると、先輩学芸員がアルビナータのほうへ歩いてきている。
「コラードさん、帰りですか?」
「おう。明日は実家へ行かなきゃなんねえからな。姉貴に見つかる前に逃げねえと」
と、コラードは肩をすくめる。前回のどたばた劇を思い出して、アルビナータは半笑いになった。
コラードとルネッタは半年に一度、休日を利用してルディラティオの実家へ顔を出している。二人の父親である将軍は子煩悩で知られており、クルトゥス島で働く子供たちを恋しがるあまり、そんな約束をとりつけたらしい。
当然、ルネッタが異母弟と一緒に実家へ帰りたがらないわけがない。だからコラードは早々と仕事を切り上げ、姉より先に本土への連絡船に乗るつもりなのだろう。
コラードは遺物に顔を向けた。にやりと口の端を上げて、視線だけアルビナータに寄越す。
「お前もどうしたんだ? 自分そっくりの女神様を鑑賞か?」
「似てないですよ。……ちょっと寄り道しにきただけです」
苦笑し、アルビナータは自分も遺物を見上げた。
二人の視線の先にあるのは、クレメンティア女神像だ。多くの像と同様に両腕は損壊してしまっているが、凛とした立ち姿は失われていない。往時には貨幣などに描かれているように、左手に王杓、右手に皿を持っていたはずである。
アルビナータは九歳の夏、この山を統べる土の精霊の導きによって、この女神像の前でティベリウスと出会った。
アルビナータの生家であるクレメンティ家は、珍しい書庫を自宅の敷地内に有した、優秀な学者を何人も輩出している学者の名家だ。アルビナータの父も著名な歴史学者で、その上自宅に様々な分野の学者を招くことも珍しくなかったので、アルビナータにとって学問は同世代の子供よりも身近な存在だった。難しい数学の問題に取り組み、歴史談義に聞き入るのを見ていた学者たちから『さすがクレメンティ家の娘』と言われたものである。
両親はそんな学問好きな娘のため、このドルミーレを旅行先に選んでくれた。一通り館内を回ってアルビナータがあまりに興奮したままだから、絶対に帽子を外さず、人気のない場所へ行かないという条件で、前庭を一人で散歩することも許してくれたのだ。――――もっとも、アルビナータはその約束を不可抗力だが守れず、後でしっかり怒られたのだが。
だがこの奇跡の出会いによって、アルビナータは一層古代アルテティアのことを知りたくなったのだ。ティベリウスも別れを惜しんでくれて、アルビナータが家に帰ってしばらくしてから、ルディラティオにある実家へ会いに来てくれた。そうして二人は数年後、ふとしたことでアルビナータの両親に知られてしまうまでひそかに交流していたのだ。
その交流の中でアルビナータはギリル語など、古代アルテティア帝国についての知識をティベリウスから学んでいった。また彼に乞われ、現代の読み書きや習慣などを彼に教えた。そうしてアルビナータは、ドルミーレの学芸員になると決めたのだ。
この場所は、そんなアルビナータの歩みが始まった地だ。だからか時折、アルビナータはここへ足が向く。
コラードは茶化した色を顔から消した。
「……ティベリウスのことか」
「……はい」
アルビナータは表情を曇らせ、小さく頷いた。
「一応は、普段と変わらないんです。でも、祈りの部屋に籠っていることが多くなっていて、精霊たちも心配していて…………本当は、あの日から無理をしているのかもしれません」
自分の章を読んで以来、ティベリウスが悲嘆に暮れている様子をアルビナータは見ていない。だが、何年も共にいたのだ。今までと違う様子なのはなんとなく感じられたし、精霊たちも彼がぼんやりしていると口々に言うのだから、彼が憂いを抱えたままであるのは間違いない。ガイウスを疑ってしまったのも、その一例だろう。
「精霊たちと話したりガレアルテを一人で散歩したりはしているようですけど、それはいつものことですし。他のことで気を紛らわせることができればいいのですが……」
「なら、お前と一緒に出かけりゃいいんじゃね? お前らが二人で歩いてたら町中大騒ぎだろうが、魔法でティベリウスの姿を隠せば大丈夫だろ」
「いえ、それが……ティベリウスには現代の魔法が効かないんです。実家で家族にティベリウスのことを知られたのも、魔法道具で姿を隠したつもりが全然効いてなかったのが原因で」
「おいおい、もうほとんど神話か伝説級のありえなさだな」
まあお前は‘皇帝の巫女’だから当然か。コラードは、呆れともからかいともつかない声音と表情でぼやいた。
町を歩くことを周囲から止められているわけではないのだから、堂々と二人でガレアルテを歩けばいいだけだとはアルビナータも思うのだ。しかし‘アウグストゥス’は、現代での座所たるドルミーレへ足を運んでさえその姿を見ることが難しい、稀有で特別な存在なのである。ガレアルテを歩きその姿をさらせば、人々に囲まれることは間違いない。それでは気分転換にならないだろう。
「しかし、そうなのか。じゃあ他は、そうだな……」
首を捻って考えていたコラードだったが、何か思いついたのか、不意に口の端を上げた。
「なあアルビ、明日、何か予定あるか?」
「? いいえ、特にないですけど」
突然話を変えられ、目を丸くしてアルビナータが答えると、よっしゃ、とコラードは大げさなくらいに喜んだ。
「あの、コラードさん?」
「アルビ。お前明日、昼からガレアルテに行かね? 俺、朝起きてすぐ屋敷出るつもりだし。昼飯前には合流できるはずだ」
アルビナータの呼びかけを聞いているのかいないのか、コラードはそう、アルビナータを誘ってくる。話が見えてこず、アルビナータは首を傾けた。
「コラードさん、それとティベリウスの気分転換のどこに関係が……」
「だから、お前がガレアルテに行って、見たり聞いたりしたことをあいつに話せばいいんだよ。お前から見た町の様子は、また違うわけだし。土産に何か買っていけば、あいつも喜ぶだろ」
「はあ……」
名案だろとばかりのコラードであるが、それのどこが気晴らしになるのだろうか。気晴らしというのは、自分から何かをしたりどこかへ行くことで気分転換を図るものではないのだろうか。アルビナータはコラードの発想が理解できなかった。
「…………ルネッタさんは…………」
「姉貴がついてきたらどんなことになるか、お前知ってるだろ」
答えを予想しつつもアルビナータが尋ねてみれば、この一言である。学生時代、気ままな彼女と振り回される彼氏の構図を展開したルディラティオでの雑貨店巡りを思い出し、アルビナータは押し黙った。
つまり、アルビナータの護衛をし、ティベリウスの気晴らしになるような土産話をガレアルテで見つけてくることを口実に、コラードはあの立派な屋敷と家族から逃亡するつもりなのだ。かの‘アウグストゥス’のためという理由なら、ルネッタや大将軍も引き下がらざるをえまい。
もう十九なのに未だ家族にべたべたされているコラードの心情は理解できなくもないのだが、家族からの脱出計画に巻きこまないでほしいというのが、アルビナータの率直な気持ちだ。とばっちりをくらうのは御免である。
それに――――――――
「…………怖いか?」
アルビナータが眉をしかめて黙っていると、コラードは不意に、さっきまでの軽かったり苦々しかったりした声音を改めた。目に、アルビナータを案じる色が浮かぶ。
「……はい」
首を振ることはできず、アルビナータは素直に認めた。
そう、アルビナータがコラードの計画に消極的な理由の八割方は、人ごみが怖いからなのだ。出張のときはドルミーレからコラードとティベリウスがついていてくれたが、今度は一人でガレアルテへ下りなければならない。アルビナータにとってそれは恐怖以外、なにものでもなかった。
コラードは、だろうな、と何度も頷いた。
「けど、いつまでも一人じゃ町へ出ないってわけにゃいかねえだろ。大博覧会のときは俺とティベリウスがいたけど、お前だっていつか一人で解説見学したり、ルディラティオかどこかへ出張することになるだろうし」
「……」
「それに、ずっと籠りっきりなのは身体にわりぃぞ。馬鹿な貴族と無理に会う必要はねえけど、たまには仕事以外でも外へ出ろよ。俺も、食材とか本とか探すのに付き合ってやるから」
な、とコラードは諭すように、宥めるようにアルビナータを口説いた。
正論だ。コラードが言うように、いつまでも人ごみを怖がっているわけにはいかない。学芸員の仕事は基本的に裏方だが、だからといって人前へ出ないわけではないのだ。私生活だけならまだしも、仕事に不都合があっては社会人として失格だ。
心配するなとばかり、コラードは頼りがいのある笑みを刷いた。
「解説見学や大博覧会は逃げずにちゃんとできたんだし、お前にゃ‘アウグストゥス’と精霊の守護があるんだろ? 俺と合流するまでは、あいつらに守ってもらえ。その後は、ガレアルテは俺の庭みたいなもんだ、俺が守ってやるよ」
だから安心しろと言わんばかりに、コラードはアルビナータの頭を撫で回した。
悩んだ末、アルビナータはこの頼みとも気遣いともつかない提案に頷くことにした。コラードのそもそもの目的はどうあれ、彼はアルビナータのことを案じてくれているのだ。自分でもどうにかしたいと思っているのだから、断る理由はない。
追いついてきたルネッタとコラードのどたばた劇を見送った後、アルビナータはふう、と息をつく。はるかな過去を映す瞳でヤーヌス神像を見下ろすティベリウスが、瞼の裏に浮かびあがった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます