第12話

「じゃあティベリウス、いってきますね」

「うん。いってらっしゃい」

 アルビナータが振り返ると、関係者用の出入り口まで送ってくれたティベリウスが、心配そうな顔でアルビナータの頭を撫でる。

「アルビナータがガレアルテに行くことは、町にいる精霊たちにも風の精霊を通して伝えておいたよ。だから気にかけてくれるだろうけど、念のために気をつけてね」

<気をつけて>

「はい」

 ティベリウスに続いて、土の精霊もぴょんと跳び上がってアルビナータに挨拶する。そんな彼らに笑顔を返し、アルビナータは久しぶりに一人でドルミーレの外へ出た。

 休館日である今日はガレアルテ行きの乗り合い馬車の運行がないので、徒歩で急な坂道を下りていく。休館日を知らないのか、知っていて尚なのか、坂を登る観光客の姿はいくらかいた。館内に入れないだけで、前庭で散策程度ならできるのだ。‘皇帝の間’で暮らすようになってから数度あった休日でも、日中に展示室のほうへ行くと賑やかな声が外から聞こえてきたものだった。

 坂道を下りていくと、クルトゥス島で唯一港を有する町の街並みが見えてきた。

 白い外壁と青い屋根で統一された建物、大通りで人々を見下ろす彫像、人々が思い思いに過ごす広場。港には多くの船が停泊しており、水夫が倉庫群と船を往復し、観光客や荷車が船と町を行き交っている。

 さらに町へ近づけば、島民よりも多い観光客で賑わう大通りの様子が音声も含めて鮮明になっていく。軒を連ねる店先の商品を目に留めた人々が足を止めているのも、店頭の見世物に喝采を送っているのも、食堂からは美味しそうな匂いが漂っているのも、町のすべてがアルビナータに届く。

 こんな曇り空でなければ、それらはさんさんと降り注ぐ日差しを浴びて鮮やかに目に焼きつくことだろう。美しい町だ。

 アルビナータは、ガレアルテを前に立ち止まった。

 町を歩く人々の動きが気になって仕方がない。灰白色の頭巾を深く被り、外れないよう飴色の装身具で留めてはいるが、万が一のことがある。

 もし、この人ごみの中に悪い人がいたりしたら――――――――

 そこまで想像が膨らんで足が竦みそうになり、アルビナータは慌てて首を振った。風の精霊が上空からついて来てくれているのだ。もしアルビナータに何かあっても、助けてくれる。怖いことなんて何もない。

 大丈夫だと自分に暗示をかけるように言い聞かせ、アルビナータはガレアルテへ一歩踏み出した。

 ガレアルテを歩くのは久しぶりでも、それまでは普通に歩いていただけあって、町の地図はすぐ頭の中に浮かんできた。頭の中の地図に従い、アルビナータは周囲を警戒しながら、早足で目的地へ向かう。

 行き交う人の流れを極力無視し、早く着くことばかりアルビナータが考えていたときだった。

「おい、クレメンティのお嬢か?」

「――――っ!」

 横からかかった男の声に、アルビナータは驚きのあまりびくっと肩を震わせ、振り返った。叫ばなかったのが不思議なくらいだ。

 声をかけてきた人を見上げ、アルビナータは目を瞬かせた。

「シ、シモンチェッリさん……?」

 黒髪に黒目、大柄な体格、よく日に焼けた精悍な顔立ち。上等な身なりは思いきり着崩していて、どこの没落貴族か金持ちのどら息子かといったふうである。酒場にいても違和感はなさそうだ。

 そんな身なりでもアルテティア王国国王の伝令という役職を拝命しているミケロッツォ・シモンチェッリは、やめてくれよ、と照れくさそうに笑った。

「ミケロッツォでいいって。あんたは仕事以外での知り合いなんだし、他の奴みたいに姓で呼ばれると居心地が悪い」

 と、そこでたおやかな女性の姿をした風の精霊が、アルビナータのそばまで下りてきた。少々不穏な顔でミケロッツォを見る。アルビナータの様子を見て、警戒しているのだろう。

 アルビナータは苦笑した。

「大丈夫です。さっきはちょっと驚いてしまっただけで、この人は私の知りあいなんです」

「そうそう。それにお嬢の友達が、俺の主なんだ。お嬢に何かしたら、俺はただじゃ済まねえよ。だから安心してくれ」

 と、ミケロッツォはアルビナータが風の精霊に話しかけたのに続いて、風の精霊に白い歯を見せて笑った。

 ‘お嬢の友達’とは、現国王と王弟のことだ。二人が王子だった頃、家庭教師を務めていた父に連れられて王城に出入りしていたある日に出会って以来、アルビナータは友人として交流している。二人は学問への関心が非常に高く、気が合ったのだ。アルビナータがミケロッツォと顔見知りであるのも、そうした縁からだった。

 それでも風の精霊はまだ不審そうにしていたが、やがてふわりと二人の頭上へ上昇する。

 ミケロッツォは気にしたふうもなく、風の精霊を見上げた。むしろ感心したふうだ。

「前からあんたは精霊に懐かれてたけど、もっと懐かれてねえ? というかお姫様?」

「皆、心配してくれてるんです。あの子がついてきてくれるのも、ティベリウスが頼んでくれたからですし」

「ああ、なるほど。そういやあんた、今は安全のためってことで、博物館の奥で‘アウグストゥス’と一緒に暮らしてるんだったっけ。‘精霊帝’の頼みなら聞くよな、そりゃ」

 ミケロッツォは一人、うんうんと何度も頷いた。

「しかしそれだと、陛下だけじゃなく王弟殿下からも相当恨み言の手紙届いてるんじゃね? ファザーリがあんたのところへ手紙届けたって聞いたけど」

「……ええ、まあ」

 文面を思い出し、アルビナータはそっと視線を逸らした。

 なにしろあの二人は、古代アルテティア帝国の皇帝、特にベネディクトゥス朝の三皇帝に強く憧れているのである。王城の図書室で三皇帝の功績についての書物を何冊も読みふけっていたのを、アルビナータは何度も目撃しているし、共に語りあったものだ。ティベリウスへの厚遇は、私情がかなり入っている。

 そんなものだから、二人から届いた手紙は当然、何故今まで私に‘アウグストゥス’のことを教えてくれなかったのだ、という趣旨が紙面の半分近くを占めていた。反論のしようがない。アルビナータは平謝りの返信を書くしかなかった。

 アルビナータの表情から色々と察したのか、なんなのか。ところでお嬢、とミケロッツォは苦笑しながら、鞄から王家の紋章の封蝋がされた手紙を取り出した。

「これ、陛下から‘アウグストゥス’への書簡だ。陛下は一度、‘アウグストゥス’から帝国のことを色々聞いてみたいらしくてな。悪いが、代わりに‘アウグストゥス’へ届けてくれねえか? あんたなら、陛下も許してくれるだろ」

「はい、わかりました」

 アルビナータはこくんと頷き、手紙を受け取った。

 それからアルビナータはミケロッツォに頼まれ、目的地の前まで歩きながら彼を道案内することになった。クルトゥス島へ来るのは初めてだという彼に町のことを説明しながらなので、歩みはゆっくりだ。できるだけ説明に集中しようとしたこともあって、アルビナータは人の流れの中に身をさらす恐怖をそれほど感じなくて済んだ。

 他愛もないことを話しているうちに、住宅地のすぐそばにある、こじんまりとした宿屋に二人は到着した。

 通りから離れていて、辺りは波の音だけ。洒落た看板がなければ宿とわからない。隠れ家のような雰囲気があった。

 しかし、アルビナータは先ほどまでの足取りで中へ入ることはできなかった。落ち着いていた気持ちが一気に暗く、重くなる。

 そんなアルビナータを心配したミケロッツォが、一緒に中へ入ろうかと言ってくれたのを断り、彼が片手を上げて去っていくのを見送った後。アルビナータは改めて宿屋に向き直った。

 途端、恐怖がアルビナータの胸を支配した。先ほどから聞こえていた音声や映像が、改めて脳裏で再生される。

 いつもの帰り道、物が人に当たる音。

 背後の気配、短剣を片手に睨みつけてくる男。

 そして――――――――

「――――っ」

 アルビナータはぎゅっと目を瞑って首を何度も振り、ゆっくりと呼吸を繰り返した。震えながら、思い出したくない記憶を全身で拒絶する。大丈夫、と何度も呟いて自分に言い聞かせる。

 不意に、風や火の気配、身体に触れるものを感じた。横を向くと、先ほどの風の精霊に加えて火の精霊がアルビナータを見ていた。アルビナータの様子がおかしいのを見かけて、心配してくれたのだろう。

 強張っていたアルビナータの身体から、力が少しだけ抜けた。

「……ありがとうございます。私は大丈夫です。……大丈夫になりますから」

 精霊たちに無理やり笑んで、アルビナータはもう一度深呼吸をした。小路の先からかすかに聞こえてくる、波の音に耳を澄ませる。

 記憶の中の映像や音声が小さく弱くなるのを待って、アルビナータは意を決して宿の中へ入った。

 中へ入ってすぐ視界に入ってくるカウンター席で暇を持て余している様子の女主人は、アルビナータを見るなり目を見開いた。

「おや、アルビナータじゃないか! 久しぶりだねえ、元気だったかい? ったた……」

 椅子から立ち上がろうとして、女主人――アニータはすぐ顔をしかめて背を丸めた。

 アルビナータは慌てて駆け寄り、アニータを支える。

「アニータさん、大丈夫ですか」

「大丈夫だよ、ちょっと急ぎすぎただけさ」

 アニータは困ったように笑った。

「まったく、不思議なものだね。傷はほとんど治ってるっていうのに、痛みはとれやしない。これじゃ傷が治ってるんだかわかんないね。ま、私もいい歳だから、治るのが遅くて当然なんだけど」

 と、アニータは肩をすくめてみせ、丸めていた背をゆっくりと伸ばす。おどけた物言いと仕草は、アルビナータに配慮してのものであるのは明らかだ。

 気遣われているのが申し訳なく、頭巾を下ろすアルビナータの手に力が籠った。

 一ヶ月半前。アルビナータはこの女性が賊に斬られるのを見ているだけだった。一瞬の出来事だったからというだけではない。男たちの荒々しい気配やぎらついた目に、足が竦んだのだ。短剣を抜いた賊たちの目が向いた途端、頭の中が真っ白になった。

 アニータはそんなアルビナータのほうへ賊を行かせまいとして――――斬られたのだ。

 だから、アルビナータはガレアルテへ行くのが嫌だったのだ。ガレアルテへ下りてここを訪れれば、さらわれたときのことや、アニータが斬られたときのことを思い出してしまうのはわかりきっている。恐ろしいことなんて、思い出したくない。

 それでも、ガレアルテへ下りた以上はここを素通りすることはできない。アルビナータを守ろうとして、魔法を使わなければ死んでしまっていたような重い怪我を負った人なのだ。見舞わずにいることなんてできなかった。

 そうしたアルビナータの罪悪感と恐怖を、表情から感じとったのだろう。あたたかな笑みを浮かべ、アニータはアルビナータの頬を包んだ。

「そんな顔をしなくていいんだよ、アルビナータ。言っただろう? 私たちは被害者なんだから、ごめんなさいなんて言う必要はないんだよ」

「……はい」

 深い傷の治療をしたときと同じ言葉を紡ぐ声も、笑みも、手もただあたたかい。委縮するアルビナータの心をほぐし、広げていく。アルビナータは、そのぬくもりで緩んだ涙腺から涙がこぼれるのをこらえなければならなかった。

 それからアルビナータが互いの近況についてアニータと少し話していると、宿の扉が荒々しく開けられた。緋色を基調とした私服姿のコラードがカウンターの前に飛びこんできて、ふうう、と大きな息をつく。

 アニータは呆れ顔になった。

「おやおや、アルビナータの次はコラードかい。どうしたんだい、そんなに息を切らせて」

「アルビと待ち合わせですよ。今日はこいつが外へ出るのに付き合うんで。……すんませんけど、水もらえます? ついでに、何か食べさせてもらえるとありがたいんですけど」

「はいはい。今ちょうど食材の仕入れに行ってるところだから大したものは作れないけど、それでいいならね。アルビナータも食堂へおいで。あんたの分も作ってあげるよ」

 まったく、とでも言いそうな顔でアニータはそう肩をすくめた。痛みを残す身体に配慮した足どりで、ホールに隣接した食堂へ歩いていく。

 食堂は店の規模と外装に相応しく慎ましやかなもので、木製のテーブルや椅子の傷、石壁のくすみや汚れが経た歳月を感じさせる。そこからにじみ出る雰囲気は丸く緩やかで、あたたかい。女将の人柄をそのまま表しているようだと、いつものことながらアルビナータは思う。

 海が見える窓辺のテーブルに腰を下ろし、アルビナータは汗ばんだ顔を服の袖で拭っているコラードと向きあった。

「コラードさん、走ってきたんですか?」

「ああ、お前をあんまり待たせるわけにはいかねえからな。……あ、どうも」

「どういたしまして。料理はすぐ運ぶよ」

 そう笑って、水が揺れるコップを持ってきた下働きの少女はすぐ厨房へ引っこむ。カウンター越しに見える厨房では、アニータが自慢の腕を振るっている最中だ。野菜と魚が見えているから、きっとオリーブソースをかけた魚に野菜を添えたあの一品だろう。

 コップの水を一気に飲み干し、一息ついてからコラードは口を開いた。

「で、どうだ? 久しぶりに一人で歩いてみた感想は」

 問われ、アルビナータは俯くと、膝の上に置いた両の拳をぎゅっと握りしめた。

「……正直言うと、まだ怖いです。精霊さんたちが守ってくれているとわかっていても、大丈夫だって自分に言い聞かせないと町へ入れなくて……知り合いの方にここまでついてきてもらいましたし。周りを見る余裕もありませんでした」

「精霊の護衛付きでも、一人で山を下りてここまで来られただけで今は充分だろ。これを繰り返せば、いつかは護衛なしでも普通に歩けるようになるさ。ティベリウスが言ってただろ。焦るな」

「……はい」

 こくんとぎこちなくアルビナータは頷く。よくできました、と言うように、コラードは満足そうに口の端を上げた。

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