第10話
窓のない、塗装が剥がれた煉瓦造りの部屋に、かりかりと音が響いていた。
『――――第八の月、美しい満月の夜。ルディシ樹海にあるグレファス族の集落にて、のちのティベリウス・アウレリウス・ベネディクトゥス・ピウスは生まれた。髪は青銀、瞳は鮮やかにして澄んだ青。小さな身からこぼれる力は只人ならぬほど。誰もが自然と頭を垂れた。樹海に住まう精霊たちもまた、尊き方が産まれたとささやきあい、喜んだ』
『彼が十歳のとき。グレファス族の集落を近隣のネグロス族が襲った。作物に病あって食糧が少なくなったところ、北方の蛮族たるシダルク族にそそのかされたからである。シダルク族もまた糧に不足しており、また領土を求める欲も強かったので、かねてより求めていた地を侵略する意欲に燃えていた――――』
『ああ、哀れなる少年の目の前に広がるは、慣れ親しんだ、破壊された思い出の地。親しき人々の亡骸や、日々を過ごした我が家。失われたものの中には、人々を導く神官たる母方の祖父ジーグス、母たる巫女グロフェもあった』
『血族を失った少年ティベリウスは生き残った者たちと共に、死者たちの墓作りを手伝った。黒い煙は絶えることがなく、五日経ってようやく消えたのだった――――』
そこまで書いてようやく作業に一区切りがつき、アルビナータは手を休めた。大きく伸びをし、白い息を吐き出す。
夏であるというのに冷気が漂い、どこかへ通じる通路が何本も伸びる、薄暗い広間。その中央にある大きなテーブルには、帳面と巻物、そして辞書が広げられ、魔法道具による明かりに照らされている。
アルビナータの唇から白い息がこぼれるのは、この部屋がドルミーレの所蔵品の収蔵庫だからだ。別館の中にある収蔵庫は展示ケースの中同様、一年を通して低い温湿度で一定に保たれている。出入口周辺には大きなテーブルや数客の椅子も揃えてあり、外へ出なくても作業ができるようになっている。
もちろん、別館には作業場があり、そこで資料を扱うことは許されているのだ。しかし資料の劣化を徹底的に防ぐため、あるいはこの静寂を好んで、ここで何時間も作業をする学芸員も少数だがいる。アルビナータもそんな先輩たちに倣い、収蔵庫の中で作業に勤しんでいるのだった。
『帝政』幻の三巻を入手した翌日に、ティベリウスの父帝の巻も本物の写本と断定されて、しばらく。アルビナータはマルギーニに、『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章の翻訳を任された。就職一年目の小娘が負うには重すぎる大役なのだが、ドルミーレでギリル語を読むことができるのは、マルギーニとファルコーネ以外ではアルビナータしかいない。少しでも早くこの書物の内容を翻訳し、世の研究者に提供するためには、一年目の新米だろうと関係なくこき使う必要があった。
原文を書き写しては現代語を帳面に書き連ね、原文を正確に表現できているかと思考錯誤を繰り返していると、「歴史」と総称される三部作は、確かに何人もの筆者によって執筆されたのだと納得させられる。この章を執筆したオキュディアス一族の者は他の章とは違い、自分の感情を殺して客観的に書くことができない性質のようで、いたるところに己の感情をにじませ、詩的な描写を散りばめているのだ。歴史書というよりは、巷の小説を読んでいるような気にさせられる。現存する他の章にはない特徴だ。
章の最後の部分を読んだときは文章を味わう心の余裕なんてなかっただろうが、こんなふうに自分の誕生や家族の死が語られているとティベリウスが知ったら、どんな顔をするだろうか。想像して、アルビナータは瞳を揺らした。
時計を見てみると、翻訳を始めてからそれなりの時間が経過していた。窓がなく、分厚い壁や扉に遮られて人の声が一切聞こえてこないここでは、時計を見ないと時間感覚が麻痺してしまうのだ。時間を忘れて収蔵庫の奥に籠っていたせいで、収蔵庫の外で作業をしている保存管理部門の学芸員に気づいてもらえず、唯一の出入口に鍵をかけられ、研究部門の学芸員が一晩収蔵庫の中に閉じこめられて凍死しそうになった――――なんて笑えない実話もある。
そろそろ出ないと身体によろしくない。アルビナータはまだ翻訳したい気持ちをそう納得させるとテーブルの上を片付けた。『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章を持って、薄暗い収蔵庫の中、棚に掲げられた番号を確かめながら奥へ向かう。
しばらくして、アルビナータの後ろのほうから足音がした。静かな収蔵庫の中、軽く響きながらこちらへ近づいてくる。アルビナータは足を止め、振り返った。
足音の主は、白い上着を着たルネッタだった。彼女は、収蔵庫と収蔵品の管理を司る保存管理部門の所属なのだ。
ルネッタはアルビナータのほうへやってくると、心配そうな顔を向ける。
「アルビ、大丈夫? そろそろ出たほうがいいと思うんだけど」
「はい、もう出るところです。ルネッタさんはこれから目録の点検ですか?」
杜撰な管理体制だった頃からの積み重ねで実際の収蔵庫と大きくずれがある目録や台帳を、週に一度収蔵庫を見回って実物を確かめ、修正するのは保存管理部門の業務の一つなのである。
ええ、とルネッタは苦笑した。
「収蔵品目録に入っていない昔の収蔵品は、まだまだたくさんあるもの。なのにまたああして新しいのを手に入れようとするんだから、館長は欲張りよねえ」
ところでアルビナータ、とルネッタは話題を変えた。
「大展覧会あたりからこっち、馬鹿どもがつきまとってきたりしてないかしら?」
「いえ、今のところはまだ」
「ならいいけど……‘アウグストゥス’がお帰りになっていると知ればまた来るようになるでしょうし、もし何かあったらすぐ私や主任や、館長に言うのよ? もちろんコラードにもね」
にっこりと、しかしどこか不穏な気配がにじむ微笑みでルネッタは言う。何度も言い聞かされていることではあるが、アルビナータは今回も頬を引きつらせて頷くしかなかった。
奥へ向かうルネッタを見送り、アルビナータは巻物の棚へ向かった。その途中で、今度はティベリウスを見つける。
「あ、アルビナータ。休憩中?」
「はい。ティベリウスもですか?」
「うん。翻訳していたら、ちょっと『神名記』を読みたくなって……」
「ああ、それならこっちだと思いますよ」
言って、アルビナータは身を翻すとティベリウスを案内した。収蔵品は、目録での登録名の頭文字ごとに棚へ置かれているのだ。
「弟さんの章の翻訳はどうですか?」
「うん、順調だよ。今日は、デキウスがフォールムの建設やコロッセオの改修を始めたところまで翻訳したんだ。ほら、ルディラティオの南のほうに残っている、大きな広場とその近くの遺跡」
「ああ、あの遺跡ですね」
頭の中で遺跡を思い浮かべ、アルビナータは頷く。王立学院時代に実習で調査に行ったことがある。古代アルテティア帝国の頃、劇場だった建物だ。ティベリウスも神話劇などをしばしば観覧していたのだと、アルビナータは以前聞いた。
うん、とティベリウスも首を傾け微笑んだ。
「僕が皇帝だった頃に支えてくれた人たちが、デキウスにもよくしてくれたみたいだよ。クラウディア様やアグリッピナも、僕がいなくなって落ち込んでいたあの子を励ましてくれて…………」
「そうなんですか……じゃあきっと時間はかかってもきっと立ち直って、だから、賢帝と呼ばれるくらい功績を残せたんでしょうね」
「うん。……そうだといいな」
そう、淡い笑みを口元に浮かべてティベリウスは目を閉じる。はるか古に置き去りにしてしまった異母弟に、時空を越えた祈りを捧げるように。彼を支えただろう人々に感謝するように。
――――――――と。
通路に、数匹の透明な魚――収蔵庫に棲みついている氷の精霊たちが飛び出してきた。
アルビナータは驚き、とっさにのぞけってかわすものの態勢を崩す。肩が壁に当たる。
「あ……!」
手の中から感触がなくなり、アルビナータは声をあげた。しかしもう遅い。
物が床に落ちる音がして、アルビナータの顔や指先から血の気が引いた。肩の痛みを忘れて、音がしたほうへ駆け寄る。
「アルビナータ? どうしたの?」
「あ、あの、ティベリウスの章を落としてしまって……」
「ああ……アルビナータは大丈夫? どこかにぶつかったりしてない?」
「平気です。それより巻物が……」
と、アルビナータはおろおろしながら巻物を見下ろした。
何しろ箱の中に入っているのは世界にたった一点しかない、『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章の原本なのだ。魔法である程度は良い保存環境の中に置かれていても、巻物そのものは歳月を経ているので脆くなっている。巻物の軸に傷一つ入るだけでも大事だ。
こんな薄暗いところでは、木箱の中身がどうなったかはっきり確かめられない。どうも大変なことをやらかしてしまったらしいと慌てる氷の精霊たちを宥めるのもそこそこに、アルビナータは木箱を抱え、早足で収蔵庫内の作業場に戻った。綿を敷き詰めた木箱から巻物を取り出し、拡大鏡も使い、巻物を細部までくまなく検める。
見たところ、特に傷はないようだ。アルビナータはほっと安堵の息を吐いた。こんな人類の宝、何よりティベリウスの生涯の記録に傷をつけたりなんてしたら、後悔の海で溺れてしまうに違いない。
それにしても――――――――
「…………やっぱりすごいですよね、この彫金技術」
巻物の軸に視線を落とし、アルビナータはほうと感嘆を漏らした。
アルビナータが見つめる巻物の軸には、金箔で装飾されていた痕跡が残る、精緻な細工がされていた。神の横顔を起点に、ギリル語の文が二列で刻まれている。
アルビナータの横から覗きこむティベリウスも、うん本当に、と首肯した。
「オキュディアス一族は鉱山を所有していて財力もあったみたいだから、腕利きの金細工職人に彫らせたんだと思う。手元に置いておくためだからかな。あの櫃に巻物を入れた人は、ギリル語も古代アルテティア語も読めなくて、とりあえずしまっただけなのかもしれない」
「そうかもしれませんね」
何しろ帝国の東西分裂以降、古代アルテティア語は時代が下るにつれ少しずつ変化し、今のアルテティア語になる前にほとんど原形を留めなくなってしまったのだ。古代言語学が発達する以前に生きていた者なら、知識人でも読めないのは当然だろう。ギリル語は言うまでもない。
自分の章の原本を見下ろすティベリウスの表情が、不意に変わった。青い瞳が感情を帯びて揺れる。
「……やっぱりガイウスが関係しているのかな」
「……」
ぽつりとこぼれたティベリウスの呟きに、アルビナータは反応することができなかった。ティベリウスが言いたいのは、自分の失踪についてに違いないからだ。
現存するガイウス・ウィンティリクスの唯一の所持品である彫像は、ヤーヌスという神をあらわしている。前と後ろに髭を蓄えた男の顔があり、右手に王杓、左手に鍵を持つという特異な姿をした、門扉の神。人間の世界と天上の世界を繋ぐ門の番人ともされ、古代アルテティア帝国では儀式で祀る神へ供物を捧げるために、まずヤーヌス神へ供物が捧げられていた。帝国がまだ王政だった頃から祀られている、独自の神話はなくとも重要な神なのである。
そして、『帝政』の原本の軸に刻まれている神もまた、ヤーヌス神だ。オキュディアス一族の守護神も。
古代アルテティアの神々の存在を信じるティベリウスが、そうした事実を結びつけて考えるのは当然だろう。――――自分はヤーヌス神を怒らせてしまったのではないか、ガイウスも自分の失踪に関係しているのではないかと、考えないわけがないのだ。
アルビナータはぐ、と拳を握り締めた。
「……私にはわかりません。ですが、ガイウスさんはティベリウスの親衛隊長だった人なんでしょう? それに、信頼もしていて……なら、ガイウスさんがティベリウスが世界からいなくなるようなことをするとは思えません。仮に何か関係があったとしても、それは事故のはずです」
緩々と首を振り、アルビナータは巻物の紙面に置かれたティベリウスの手の甲に己の手を重ねる。
ティベリウスは軽く目を見張ってアルビナータを見下ろすと、頬を緩めた。
「…………そうだね。ガイウスが僕に呪いをかけるはずがないよ。ガイウスはとても優しくて、誠実な人だったもの」
言って、ティベリウスは目を伏せる。
その、疑ったことを恥じるような、悔いるような色の横顔。
アルビナータは、胸が締めつけられる想いがした。
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