第9話
「――――――っ」
息を詰まらせると同時に目を開いたアルビナータは、荒い息をつき、青ざめた色をした天井を呆然と見つめた。動きだした直後の思考では、ここがどこなのかわからなかった。
夢を見ていたのだと理解して、アルビナータは全身に溜まっていた空気をすべて外へ押し出すように息を吐いた。瞬きを繰り返して首を振り、あれは夢だ、と自分に言い聞かせる。心臓は夢の余韻を残してまだ鼓動が早く、身体もまた小刻みに震えていた。
この悪夢を、アルビナータは三ヶ月前から頻繁に見るようになっている。原因は考えるまでもなく、あの誘拐やその後の誘拐未遂事件だ。
所詮は夢だから、どんな内容だったかは起きた端から曖昧になっていく。つい先ほどのことなのに、もう細部がはっきりしない。
それでも、おおよそのことははっきり覚えている。あの日のことを夢に見たのだという事実――――恐怖は消えない。今夜もまた悪夢はアルビナータの心に刻まれ、積もってしまったのだ。
それに、女性が倒れ、自分が悲鳴をあげた場面だけはまだ脳裏にこびりついている。
あの女性は約一ヶ月半前、夜半にアルビナータの下宿先を襲った賊の凶刃を浴びた、大家の女性だ。おおらかで優しく、勇敢な女性。
さいわい、駆けつけた警備隊員たちがすぐ治癒の魔法で応急処置をしてくれたおかげで、一命をとりとめることができた。だが、アルビナータは安心なんてできなかった。できるわけがない。アルビナータを守るために、あの人は傷つけられたのだ。
アルビナータはあの日、自分にはもう普通の学芸員としての日々は望めないことを悟った。だからティベリウスに誘われるまま、ここに住むことを決めたのだ。何もなかったようにして、あの優しい人に甘え、あの場所にいることはできなかった。
「……」
深呼吸を繰り返し、波の音に耳を傾けていくらか心を落ち着けると、アルビナータはゆっくりと身を起こした。月光が差しこむ窓へ首を巡らせば、月光にかき消されそうな星々を抱く夜空と、それにほとんど同化した海が一望できる。
意識はすっかり冴えてしまって、眠気なんて当分訪れそうにない。長息をついたアルビナータは、もぞもぞと寝台から下りた。白い寝巻の上に翡翠色の大判のショールを羽織り、部屋の外へ出る。
明かりとりの窓などから差す光で薄暗い広間でアルビナータが首をめぐらせていると、いつもの土の精霊が近づいてきた。
<アルビ、こっち>
「? どうしましたか?」
<尊いもの、さみしそう>
「え? わっ」
言った端から土の精霊に寝間着の裾を引っ張られ、アルビナータは慌てた。転びそうになってとっさに踏ん張り、土の精霊を宥めて裾を放してもらうと、歩きだした彼の後についていく。
誰もいない中庭の回廊を通り抜け、土の精霊は階段を下りて下層の廊下を進んでいった。部屋の窓から離れているので廊下は薄暗かったが、先を歩く土の精霊が淡く光る宝石を生みだしてくれるおかげで、足元は充分見えている。見回りの時間ではないのか、警備員にも会わない。静寂の中、アルビナータの足音だけが辺りに響いていた。
土の精霊はやがて、いくつもあった小部屋の壁を壊して造られた展示室の中に入った。
数多の道具や書巻を収めた展示ケースや模型、復元図、解説板といったものが所狭しと展示され、古代アルテティア帝国の歴史や文化について丁寧に解説している中、奥へとさらに歩く。
そうしてアルビナータは数体の精霊たちに囲まれた、白い台に置かれて展示されている、損壊しても威厳を失わない彫像の前に佇むティベリウスを見つけた。
付き合いが長いアルビナータでも心を奪われ、胸を締めつけられる、近寄りがたい孤高の世界がそこにあった。透明な膜で彼の周囲だけが遮断されているかのような違和感と迫力が、彼を取り巻いている。
ティベリウスは展示ケースのガラスに手を当て、損壊した彫像を見つめ続けていた。己もまた息づく彫像であるかのように、表情を変えることなく。アルビナータの足音や視線になど、気づきもしない。
ティベリウスが見ているのは、現在ドルミーレで展示されている収蔵品の中で唯一の、ガイウス・ウィンティリクスの所持品である彫像だ。遠方へ行くときには必ず持っておくよう、神官だった祖父からきつく言われていたらしい。ゼペタ戦役のときに見たことがあるそうで、ティベリウスはここで見つけたとき、長い歳月のあいだに一部が損壊した姿であっても一目でわかったのだという。
ティベリウスが、遠い。歩数以上の距離感に、アルビナータは言葉を失った。
声をかけてもティベリウスが会話を拒んだりしないことは、アルビナータとてわかっている。名を呼べば、彼はいつもの穏やかな笑みで応えてくれるだろう。そういう人だ。
だがその後、どんな言葉をかければいいのか。こんな、切なそうな眼差しで過去の遺物を見つめる彼に、何を言えば。
アルビナータがティベリウスに声をかけようとしないのに、焦れたのか。土の精霊はずかずかとティベリウスに近づいていった。
<尊いもの。アルビ連れてきた>
彫像に見入っていたティベリウスに、土の精霊はぴょんぴょん飛び上がりながら言った。それで我に返ったように、ティベリウスは展示ケースから土の精霊に顔を向ける。表情が緩むと彼を取り巻いていた孤独の空気は失せ、同じ世界にいるのだとわざわざ考えなくても感じられるようになった。
さらにティベリウスは、アルビナータにも気づいて顔を向けてきた。青い目に見つめられて逃げ道を失い、アルビナータは息を飲む。
「アルビナータ、どうしたの? また悪い夢を見たの?」
「…………はい」
「じゃあ、僕が薬湯を作るよ。おいで」
アルビナータが躊躇いがちに頷くと、ティベリウスはそうアルビナータの手をとって歩きだした。アルビナータがあ、と言う間もない。
そうして静寂の中、アルビナータはティベリウスに手を引かれて廊下を歩くことになった。アルビナータがそばについていると安心したのか、精霊たちは窓から外へ出てしまう。
「……ティベリウスは、夜に展示室へ行ったりするんですか?」
「……うん、時々だけど。昼間は色々な人が来ているからね。それに僕がここを出る前に、解説版に補足したいって言っていたでしょう? それを見てみようと思って」
ティベリウスが言っているのは、ガイウスが所持していた彫像についての解説版のことだ。
彫像が何を題材にしたかなどを解説しているのだが、この一ヶ月のあいだに『ベネディクトゥス・ピウス帝の親衛隊長ガイウス・ウィンティリクスが所有していた』という一文が追加されている。前々からアルビナータは書くことができたらと思っていて、思いきって彼に相談してみたのである。マルギーニも快諾してくれた。
「原稿を見てもらう前に板へ書いてしまいましたが……あれでよかったですか?」
「うん。僕は、ガイウスがいたことを色々な人に知ってもらえるだけで充分だよ。ガイウスのことは、この時代の人たちにあまり知られていないから。ありがとう、アルビナータ」
文字数の制限もあってあっさりした説明になったのを踏まえてアルビナータが尋ねると、ティベリウスは緩く首を振って嬉しそうに笑む。アルビナータはほっとした。
‘皇帝の間’へ戻ると、ティベリウスは台所のほうへ一人向かった。アルビナータが柱のそばに腰を下ろしていると、しばらくしてティベリウスは戻ってくる。
アルビナータは、手渡された古代アルテティア様式の杯の中で湯気が立つ水面を揺らす、渋みのある植物の匂いがする飲み物を見下ろして目を瞬かせた。
「ティベリウス、これは?」
「グレファス族に伝わる薬湯だよ。ロディガンシアへ行ったついでにルディシ樹海にも行って、材料を集めておいたんだ。アルビナータが悪い夢を見たときにと思って」
「私のために? ……ありがとうございます」
隣に腰を下ろしたティベリウスの細やかな気遣いに、アルビナータは申し訳なさと嬉しさが混じった気持ちで礼を言った。薬湯を口にする前から、手のひらに伝わってくるほどよい温度と共に、彼の優しさが心に沁みる。
アルビナータが心を躍らせて一口飲んでみた途端、予想と違わぬ苦みが口の中に広がった。が、顔をしかめているうちに引いていき、いかにも植物由来といったふうのさわやかな味がとって代わる。
アルビナータは目を瞬かせた。
「変わった味ですね……本当に薬みたいです」
「あはは、そうだね。でも、落ち着くでしょう?」
と、ティベリウスは笑いながら首を傾ける。それには同意だ。水温のおかげなのか薬湯がさっそく効いているのか、二口、三口と飲むほどに身体が温かくなり、頭の片隅に残っていた悪夢の欠片が溶けていくような気がする。
「ティベリウスは、これをお母様に教えてもらったんですか?」
「うん。母さんは巫女だったからね。おばあ様やおじい様も、薬や薬湯を作る方法を教えてくれたんだ。自分で作って、部族の人たちに配ったこともあるよ。皇帝になってからも、この時代に目覚めてからも全然作ってなかったんだけど……よく作り方を覚えているものだよね」
不思議だよねえ、とティベリウスは苦笑した。
ティベリウスの母グロフェは、帝国北部にあるルディシ樹海付近を本拠地とするグレファス族の巫女だったのだという。部族の中で高い地位にあり、族長と共に帝国の要人と交渉することもあったため、地域に常駐する古代アルテティア帝国の一軍団を率いていた将軍と出会う機会を得たらしい。そして、二人は立場を越えて恋に落ちた。
母が妊娠を告げる前に将軍は元老院の命で軍基地を去ったため、ティベリウスは父の顔を知ることなく、父に存在を知られることもなく、グレファス族の少年として健やかに育てられた。十歳のとき、国境外の異民族と手を結んだ他部族の襲撃によって家族を皆失い、知らせを受けて駆けつけた皇帝就任から間もない父帝に引き取られなければ、帝国の辺境で一生を終えていただろう。――――受け継いだ知識をアルビナータのために使うこともなかった。
アルビナータは顔を上げ、視線をさまよわせた。
「……ティベリウスは、その…………」
「……アルビナータは、失踪の原因やガイウスの消息がわからなかったことで僕がどう思っているのか、気になる?」
「……」
口を開いてみるも上手く言葉にできずにいるとティベリウスにあっさり言い当てられ、アルビナータは黙った。同時に、よりによって彼に言わせてしまったことを恥ずかしく思う。
アルビナータの沈黙を肯定と受けとったティベリウスは、しかし表情を重くも切なくもさせなかった。
「そんなにつらいわけじゃないよ。確かに、自分やデキウスの章に知りたいことが何も書いてなかったのを見たときはすごく残念だったけど……けど、書かれていないのだから仕方ないよ。元々、何が何でも知りたいわけじゃなかったし」
「……」
「ただ、自分が何をやってしまったのか、また考えるようになってね。自分のことなんだから、僕が誰よりも知っているはずだし。……今まで何度思い出そうとしてもわからなかったんだし、今思い出そうとしても同じことだと、わかってはいるんだけどね」
最後に小さな一言が付け足されると、アルビナータが思っていたより淡々としていた表情に、無理やりといったふうの笑みに感情がにじみ出た。足掻き続けて疲れてしまい、他にどうしようもなくなった末とでもいうような、諦めと未練。
アルビナータは見ていられず、薬湯の水面に視線を落とした。
「……どうしてオキュディアス一族は、ティベリウスの失踪について何も書けなかったのでしょうか。それに、ルディシ樹海で強い光があったというのも何なのでしょうか……」
「さあ……でも、僕を遠い未来へ運んで、しかも人間とも精霊ともつかない身体にするようなことを、人間の術者ができたとは思えない。だからきっと、僕は神々を怒らせてしまったんだろうね。……あるいは、ルディシ樹海にいる精霊の誰かを怒らせたのかも」
「そんな……精霊がティベリウスに怒ってひどいことをするなんて、まさか」
それはありえないだろう。ティベリウスが精霊に愛されているのは、まだグレファス族の巫女の息子だった頃からなのだ。だから‘精霊帝’と呼ばれていた。そんな彼が、故郷の精霊に呪いのようなことをされるとは思えない。
しかしティベリウスは、首を緩く振った。
「確かに精霊たちは大抵僕に優しいけど、すべての精霊たちがそうというわけじゃないよ。人間嫌いの精霊もいるし。……でも時空を超えるのは、確かに精霊にはできないことだろうね。彼らは大自然の力の欠片であって、理そのものではないから」
と、ティベリウスは祈りの部屋へ視線を向けた。
そこに、ティベリウスが視線を注ぐ意味。――――自分はいずれかの神の怒りに触れたのだという確信。
たまらず、アルビナータはティベリウスのトーガの裾を掴んだ。
「…………ティベリウス。その、無理、しないでください。話を聞くくらいなら、私にもできますから」
「うん。……ありがとう、アルビナータ」
ティベリウスはそう、柔らかに笑んでアルビナータの頭を撫でた。今度は無理をしたふうではない、自然な笑みだ。アルビナータは少しだけほっとした。
「さあアルビナータ、そろそろ寝ないと駄目だよ。明日の仕事に遅刻してしまうよ」
緩んだ空気の仕上げをするように、ティベリウスは明るくした声でアルビナータを促した。厨房の流し台に杯を置くと、またアルビナータの手を引いて先導する。
アルビナータの部屋に着くと、ティベリウスはアルビナータの頭を撫でた。
「じゃあ、おやすみアルビナータ。いい夢を」
「はい。おやすみなさい、ティベリウス」
ティベリウスと笑顔を交わしあい、アルビナータは自室に下がった。それを見送って、ティベリウスの気配も遠ざかっていく。
寝台に入って天井を見上げ、アルビナータは先ほどのやりとりのことを思い出した。諦めに似た息をつき、思考を打ち切って強く目を閉じる。
アルビナータは、ティベリウスが神の怒りに触れたとは到底信じられなかった。神の存在を信じていないし、彼がどれだけ精霊や神に敬意を払っているのか知っているのだ。彼の身に起きたことがどんな魔法使いや精霊にもできない類だとしても、だからといって神の存在やその介入を容易く信じることはできない。
だが、ティベリウスがこの世で唯一の、そして孤独な存在であることは疑いようのない事実なのである。
十六歳の子供でしかないアルビナータでは、ティベリウスの憂いを取り払ってあげることも、核を成しているだろう孤独の深さを完璧に推し量ることもできない。それどころかこうして、彼が守護する箱庭の中で守られてすらいる。――――無力だ。
ただ、心から笑っていてほしい、とアルビナータは強く思う。過去を想って憂うよりも、現代の楽しさに笑っていてほしい――――アルビナータたちと一緒に笑ってほしい。
そう思って、アルビナータはあの彫像が誰の持ち物だったのか解説版に補足したのだ。ティベリウスは自分や統治のことを語るときより、自分のそばにいた人のことを語るときのほうが嬉しそうで、懐かしそうにしていたから。自分の親衛隊長の名を人々に知ってもらえるのはきっと嬉しいだろうと、なんとなく思った。
でもまだ足りない。ティベリウスが抱えるさみしさを慰めるには、もっと何かしないといけない。
誰とも分かちあえない孤独を抱えた彼のために、自分は一体何ができるのだろう――――――――
薬湯の効果は絶大で、アルビナータが意識して呼吸を緩やかにしていると、あんなに遠かった眠気がすぐ訪れた。
これならきっと大丈夫だ。悪い夢なんて見ない。朝はすぐ来るだろう。
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