第4話

「私、ですか?」

 研究部門主任のマルギーニ・ベッカリアの指名に、アルビナータは思わず目を瞬かせた。

 閉館時間を過ぎた後。本館の地階にある研究部門の学芸員室で、会議が開かれた。数日前から学芸員たちのあいだで話題になっていたこと――――誰を大展覧会に派遣するか、を決めるためだ。

 そこでマルギーニは、アルビナータを指名したのである。

「今回は巻物を中心に収集したいが、私は所用で行くことができないからな。古代アルテティア帝国で使われた言語に精通しているお前なら、巻物の価値を見抜くことはできるはずだ。真贋はともかく、巻物をよく検分してほしい」

 大きく頷き、マルギーニはそう理由を説明した。

 大展覧会は、王都ルディラティオで開催される、王家主催の博物市だ。アルテティア王国は学術研究に熱心な国柄、国有地で発見されたり民間から寄付された博物も積極的に好事家や各種博物館へ公開し、売り渡すようにしている。アルテティア王国の様々な分野の研究者にとって、大展覧会は史料と巡りあえるかもしれない機会なのだ。

 アルビナータは表情を曇らせた。

「でも、私は」

「わかっている」

 アルビナータが反論しようとすると、マルギーニは遮り、コラードに顔を向けた。

「だから、コラードにも行ってもらう。多少は緊張せずに済むだろう。コラード、異論はないな?」

「ありませんよっと」

 アルビナータの前に座るコラードは、ひらひらと手を振って辞令に同意した。

「アルビ、そんなに気負う必要はねえよ。別に『帝政』を見つけてこいってわけじゃねえんだし。まあ、できたらいいんだけどよ」

「はあ……」

「そうだ主任。いっそ、‘アウグストゥス’にも頼んだらどうすか? こいつも安心でしょうし、帝国の皇帝としてあの時代を生きてたわけですし。歴史的に価値のある物だけじゃなくて、個人的に知ってる物を見つけたりするかもですよ」

「ああ、それは私も考えていた。……皇帝陛下について、今はまだ論文として発表していないが研究を進めている学芸員や学者が来るかもしれんしな」

 と、マルギーニは憂いを瞳に浮かべた。

 ティベリウスは今から十六年前、ルディシ樹海の中で一人目覚めた。何故そうなったのか、ティベリウス自身にもわからない。二十七歳の夏に帝国北部を視察していたことまでは覚えているのだが、その後に自分が何をしたのか、どうしても思い出せないのだ。彼の治世に関するどの文献でも、ベネディクトゥス・ピウス帝は視察中に突如姿を消し、二度と人々の前に姿を現すことはなかったと記されている。

 長い時間を超えてしまったことを樹海に棲む精霊たちから聞かされたティベリウスはさらに、自分が人間に姿や声を見聞きしてもらえず、飲食も必要としない身になってしまっていることを理解せざるをえなくなった。これで、現代の人間として生きることなどできるはずもない。精霊たちと共に気が向くまま、あてもなく大陸中をさまようしかなかった。

 七年前、たまたま立ち寄ったドルミーレで、自分を見つめる少女――アルビナータと出会うまでは。

 マルギーニはそんな古の若き皇帝の境遇に同情し、何か心の慰めになるものを見つけられれば、と考えているのだろう。しかしアルビナータには、人ごみの中に極端に怯える性癖がある。解説見学で緊張していたのも、侯爵に怯えたのも、この性癖のせいだ。国中から好事家と研究者が集まる場なんて、考えるだけで身体が竦む。

 だが、古代アルテティア帝国の資料を発見する場への出張なのだ。喜べないのは、ドルミーレの学芸員ではない。

「……わかりました。行きます。ティベリウスにも都合を聞いてみます」

「頼んだぞ」

 渋々だがアルビナータは小さく頭を下げ、辞令を了承する。ほっとした顔になって、マルギーニは大きく頷いた。

 会議が終わると、アルビナータは手早く支度を整え、研究部門の職員室を出た。関係者以外立ち入り禁止区域を奥へと進んでいく。

 その途中、すれ違った掃除業者の中年女性が提げている鞄にトーガ姿のティベリウスの人形が吊り下げられているのを見て、アルビナータは思わず笑みをこぼした。

 元々、義務教育で必ず学ぶ容姿端麗な賢帝ということで‘アウグストゥス’は比較的知名度の高い人物であったが、彼を題材にした商品は現在、これまでの比ではない売れゆきなのだ。彼の姿を一目見ようと、ドルミーレの来館者数もぐっと増えた。先ほどの女性も、そんな昨今の流行に乗ったのかもしれない。

 アルビナータが閑散とした廊下をドルミーレの奥へと歩いていくと、やがて‘皇帝の間’の出入り口が見えてきた。両脇にはいかにも造って間もないといった質感と色合いの、兵士の像が置かれている。これでも、侵入者を阻む魔法道具なのだ。

 ここの通行には学芸員でも身分証明が必要なのだが、アルビナータには作動しないよう設定されている。なのでアルビナータは足を止めず、中へ入った。いくつもの部屋へ繋がる広間を抜け、昼間にティベリウスを迎えた、‘皇帝の間’の中庭へ出る。

 そうして、眩しい光にアルビナータが瞬きを繰り返すうちに見えてきた、柱廊に取り囲まれた中庭は今日もまた、人間を拒む幻想に包まれていた。

 夕暮れに照らされた中庭の中央、海風を受けては水面が揺らめく水浴び場の周辺。そこでは様々な大自然の要素から生まれた精霊たちが集い、思い思いに過ごしていた。色とりどりの光と共に彼らが放つ大自然の気配は中庭の隅々にまで満ちていて、そのせいでか、波の音は絶えないのに海から漂う潮の匂いがどうにも遠い。風の精霊たちがどこかへ飛ばしてしまっているようだ。

「アルビナータ、おかえり」

「はい。ただいま、ティベリウス」

 柱の一つの根元に腰を下ろし、精霊たちに囲まれていたティベリウスはアルビナータに気づくと、ふわりと微笑みを浮かべる。アルビナータはそれにほっとした気持ちで答えた。

 この‘皇帝の間’に、アルビナータは一ヶ月半ほど前から下宿している。ドルミーレはティベリウスの存在が明らかになって以来、現国王の命によってティベリウスに返還され、国賓である彼の私有地という扱いになっているのだ。博物館も形式上は彼の好意によって運営が継続していることになっていて、居住区である‘皇帝の間’に自分の友人を住まわせるのは彼の自由なのだった。

 とはいえ、言ってみれば廃墟に少しばかり補強工事をしただけの、皇帝の住居というにはあまりにも粗末な建物である。そのため‘皇帝の間’にはこれまた国王の命によって現代の調度が大急ぎで運びこまれ、王都の一流職人たちが古代様式の物を完成させ次第、交換していく手筈だ。今おこなわれている内装の塗り直し工事も、国王からティベリウスへの心遣いの一環といっていい。ティベリウス自身は、そこまでしてくれなくてもと苦笑していたが。

 貴族が所有していた時期に小部屋を改装して作られた小さな台所で料理を作ったアルビナータは、食堂へ料理を運んだ。席に着いていたティベリウスの分も皿を並べていく。彼は特に食事を必要とする身ではないのだが、味がわからないわけではないのだ。

 ティベリウスは、ワゴンに載せられた瓶を見てぱっと明るい表情になった。

「ねえ、もしかしてそれ、ワイン?」

「はい。島の農家の方が、ティベリウスにと館長に届けてくださったんだそうです。一樽持ってきてくれましたから、あまり飲みすぎないでくださいね?」

「うん」

 と、ティベリウスは嬉しそうに手を合わせる。視線は瓶に釘付けで、アルビナータの忠告を聞いているのか疑わしい。酔うことはないとはいえ、大丈夫かなあ、とアルビナータは少々心配になった。

 彼は儚げな外見に似合わず、酒が好きなのだ。それもかなりの酒豪で、現存する文献によれば、宴席で何杯も飲もうとするたびに周囲が必死に止めていたのだという。理由は言うまでもなく、ほろ酔い顔による周囲の精神面への影響がすさまじすぎるからである。アルビナータも興味本位で彼に酒を提供したことがあり、これは止めたがるはずだ、と心から納得したものだった。

 ティベリウスが外遊で見てきたことについて話が弾んだ夕食が終わり、アルビナータが後片付けをしようと立ち上がったとき。ティベリウスがアルビナータを呼んだ。

 その声色と表情の真剣さに、アルビナータは目を丸くした。

「ティベリウス、どうしました?」

「……僕がいなくなった後にガイウスがどうなったか書いてあるような物は、まだ見つかってないんだよね?」

「…………はい。ガイウス・ウィンティリクスに関する新しい資料が発見された話は、少なくてもドルミーレには入ってきてません」

「…………そっか」

 やや躊躇ってからアルビナータが頷くと、ティベリウスはそうため息をついた。

 ガイウス・ウィンティリクスは、ティベリウスの親衛隊長だった人だ。代々役人と神官を輩出してきた家系でありながら軍人の道を選び、功績を挙げてティベリウスの父帝の側近となった男が父親なのだという。ティベリウスが彼のことを語るとき、公私の面でいつも支えられたのだと、表情を緩めて語るのがいつものことだった。

 親しかった者たちの消息がどこかの史料に記されていないか、ティベリウスがアルビナータに尋ねるすることは珍しくない。が、このガイウスのことは、特に気にかけていた。自分が失踪してしまったせいで、周囲があの真面目な親衛隊長を責めていなかったか、何より彼自身が己を責めていなかったか――――と心配しているのだ。自分が失踪したルディシ樹海のほうへ外出していたからかもしれない。

 だが今のところ、主君を失った後のガイウスの消息を示す史料は発見されていない。そのため、主を失った後は責任をとって親衛隊長の職を辞し、一私人として残りの生を過ごしたと推測されている。

 せめて、記していたという手記の一片でも見つかればいいのに。もしくは『帝政』のデキウス帝の章。アルビナータは悔しく思った。

 コラードも口にしていた『帝政』は、オキュディアスという歴史家一族が記した歴史書だ。時の皇帝ごとに章分けをし、その生涯を追いながら、古代アルテティア帝国の帝政期を最初から最後まで記している。章ごとに筆者は異なっているが過去の発掘調査などの研究結果から、古代アルテティア史の研究に必須の一次史料というのが研究者の間での定評である。帝政以前の歴史を記した『王政』や『共和政』も同様だ。

 しかし、著されてからの長い年月の中で、合わせて何十巻とあっただろう三部作の原本は失われ、今では写本が十数巻現存するだけだ。欠けている章は、写本の一部分でも貴重な発見になる。

 自分の章の最後か、異母弟であるデキウス帝の章のどこかにガイウスの消息が記されていれば、ティベリウスも心穏やかでいられるだろうに。そう思えてならなかったからなのか。言わなければと考えもせず、アルビナータの口は自然と開いた。

「……今度、ルディラティオで大展覧会があるんです。国に寄付された、色んな歴史的資料や美術品の即売会で……ティベリウスも行ってみませんか」

「僕も?」

 ティベリウスは目を丸くする。はい、とアルビナータは頷いた。

「私とコラードさんが任されることになって……それでコラードさんが、ティベリウスも誘えばいいんじゃないかと提案してくれたんです。もしかしたらティベリウスの失踪に関する手がかりを研究中の学者に話を聞いたり、縁のある何かを見つけることができるかもしれないからと。主任も了解済みです」

 どうでしょう、とアルビナータは不安そうにティベリウスを見上げる。

 ティベリウスは表情を緩めた。

「……行かせてもらえるなら、僕も行くよ」

「!」

「ガイウスやデキウスたちに関する物が何か見つかるかもしれないし……僕がどうしてあの時代で失踪したのかも、何かわかるかもしれないなら、行くしかないよ」

 ティベリウスはそう言って、精霊たちが遊ぶ中庭へ目を向けた。

 その鮮やかな青の目には、はっきりとした郷愁が浮かんでいた。きっと今、ティベリウスは精霊たちも、アルビナータも見ていないだろう。

 アルビナータの胸はざわついた。

 目の前にいるのに、ティベリウスが遠い場所にいるような気がして。

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