第3話
町から少し離れた崖の上という場所に建てられたドルミーレは、皇帝の別邸だったというには、少々変わった建物だ。
彫像が林立する前庭の奥に、今は本館と呼ばれている建物がある。中庭の周囲に回廊があり、幾つもの部屋が並ぶ、典型的な古代の建築様式だ。解説見学で質問を受け付けていた一画――通称‘皇帝の間’はその最奥の、二階建ての部分にあたる。
この本館で変わっているのは、崖をくり抜くようにして地下の階を造り、明かりとりの窓を開けて、使用人の部屋や倉庫、貯水槽などに充てていた点だ。そちらの階へ使用人などが直接出入りするための玄関も設けられている。硬い岩盤の崖だからこそできる建築だが、このような構造の建物は、古代アルテティア帝国時代では他に発見されていない。
その、かつては使用人たちが出入りしていた玄関を出たアルビナータは、なだらかな斜面を歩いて前庭へ向かった。ドルミーレが開館する際、元別邸だけでは手狭だからと、古代アルテティア様式の別館を新たに建てているのだ。
本館へ向かう来館者が横切る前庭には、長年の風雨で崩れ落ちた古代の彫像に代わって、現代の美術家たちによる古代アルテティア様式の人物像が林立している。人物像は現存する古代の彫像の模造品だけでなく、古代風に見せかけて現代の要素も表現した遊び心あふれる作品も何体か混ざっていて、古代世界に浸る以外の楽しみかたもできる庭だ。多くの来館者が足を止めて近くから人物像を楽しんだり、あるいはベンチに腰かけて足を休めていた。
今日もドルミーレは来館者で賑わっている。それを目で確かめ、嬉しく思いながら、アルビナータは別館に入ろうとしたときだった。
――――が。
「おい、お前が‘巫女の学芸員’か」
「っ」
高慢、という言葉をそのまま音にしたような男の声に、アルビナータは肩をびくりと揺らした。心臓が大きく跳ねる。
そちらを向くと、傲慢な声が人の姿をしていた。一目で富裕層、いや貴族だとわかる贅沢な身なりをした壮年の男だ。太い指には見せつけるためとしか思えない大きな宝石をあしらった指輪がいくつもはめられており、あまり趣味がいいとは言えない。
声をかけてきた、男の、人――――――――
「おい、聞いているのか」
「――――っ」
男の声と表情に苛立ちがあらわになり、アルビナータの心臓はますます激しく鳴り響いた。男が手を伸ばしてきても、竦んでしまったアルビナータは反応することができない。
――――が。
「あら、どうかなさいましたか?」
どこかわざとらしい問いの声が、男が伸ばした手を止めた。
次に現れたのは、先がくるりと巻いた金髪の若い女だ。唇は赤く、目は新緑の緑。装飾品は一切なく制服を着ているだけなのに、大輪の花を背負っているような華がある。
社交場では花となること間違いなしのこの美女は、ルネッタ・フローラ・レオンカヴァッロという。名将を何人も輩出した大貴族レオンカヴァッロ家の令嬢であり、アルビナータとは部門違いの先輩学芸員だ。
ルネッタは男の前に立ち、アルビナータを背に庇った。恐ろしい存在から引き離されたという確信で、アルビナータは心底安堵する。
「レオンカヴァッロの……」
「ええ、大将軍の娘ですわ」
貴族同士の付き合いがあったのか怯んだ様子を見せる男に、ルネッタは笑みを含めた声音で、あえて父親の地位を強調して答えた。
「侯爵、この子をあまり驚かさないであげてくださいませ? この子は怯えやすいんです」
「それはすまなかった。が、わたしは‘アウグストゥス’にお目にかかりたいのだ。取次ぎを願いたい」
「あら侯爵。諸侯にはこのドルミーレだけでなく国王陛下からも、本人の許しなく‘アウグストゥス’への謁見およびアルビナータ・クレメンティと面会することを禁じる――との通達が出されていること、ご存じのはずでは?」
「そこをなんとか。私はどうしても、‘アウグストゥス’にお会いしたいのだ」
有無を言わせないルネッタの拒絶に、それでも侯爵は食い下がった。
こうした富裕層からの接触は、今回に限ったことではない。ティベリウスの存在が世に知られるようになった三ヶ月前から、肩書や地位を笠に、ティベリウスやアルビナータとの接触を望んでひっきなしにドルミーレを訪れるようになっている。大方、‘アウグストゥス’への謁見を許されたという箔が欲しいのだろう。職員を買収し、ひそかに関係者以外立ち入り禁止区域へ立ち入ろうとした富裕層が何人いたことか。ティベリウスも精霊たちに乞われてドルミーレを離れる前、アルビナータのことを大層心配していたものだった。
ルネッタは両腕を組んだ。
「応じられませんわ。館長や国王陛下の命に背くわけにはいきませんもの。……それに」
そこで一度言葉を切るルネッタの声音に、艶やかな色が混ざった。細い指が別館のほうを指さす。
アルビナータと男がつられてそちらを向くと、アルビナータも見慣れた土の精霊が男を睨みつけていた。身の丈の何倍もある矛を片手に持っていて、今にも振るいたそうだ。
アルビナータは血の気が引いた。これはまずい。土の精霊は、かなり怒っている。
一方のルネッタは、むしろ面白がっている表情だった。
「あのとおり、土の精霊が黙っていないと思いますよ? 何しろこの子も‘アウグストゥス’と同じように、精霊に愛されてますから」
「……っし、失礼する」
歴戦の武将でもない王都の貴族が、土の精霊の怒気に立ち向かえるはずもない。男は顔面蒼白になって、逃げるように去っていった。
だが。
「わ、私の指輪がぁっ!」
アルビナータのそばまでやってきた土の精霊が矛をぶん、と振った途端。逃げている途中の男がぎょっと自分の指を見下ろすや、悲鳴をあげた。人目もはばからず、手から土がぼろぼろと落ちていくのを嘆く。
「……」
「いい仕事ね、土の精霊さん」
<アルビ、いじめる、許さない>
唖然としているアルビナータの横で、ルネッタはにっこりと土の精霊に笑いかけた。えへん、と矛を消した土の精霊は胸を張る。
彼は土の精霊なのである。それも、このドルミーレを含む山の有力者ときている。加工された宝石を土に変えるくらい、簡単なことだろう。
しかし、矛で脅して追い返した上にあれは少々やりすぎではないだろうか。精霊への危害は法律で禁じられているのだが、例外はある。人間に危害を加える土の精霊の排除を、とあの侯爵が騒がないといいのだが。アルビナータは心配になった。
それより、と一転してルネッタは心配そうな顔でアルビナータのほうを向いた。
「アルビナータ、大丈夫? 怖かったでしょう?」
「はい、でもルネッタさんが助けてくれましたから」
「いいのよ。可愛い後輩をいじめる奴は来館者じゃないもの」
と、ルネッタはにっこり笑う。両腕を組み、まったく、と息を吐いた。
「国王陛下の命に逆らおうなんて、いい度胸してるわ。大体、古代アルテティアについての知識なんて欠片もないくせに、‘アウグストゥス’と何を話すつもりかしら」
「……」
薔薇もかくやというような棘ばかりの評価である。前から嫌いなんだろうなあ、とアルビナータは曖昧に笑うしかなかった。
二人と一体のあいだに、一応は和やかな空気が漂っていたときだった。
「っコラード!」
突如ルネッタがぐるりと顔を巡らせ、アルビナータが目を瞬かせた次の瞬間。ルネッタはそう歓喜の声で叫ぶや走りだした。
アルビナータがそちらを向いてみると、すでに逃げだしたコラードの背中が見える。
「いい加減、こっちくんなよ姉貴!」
「そんなこと言わないでちょうだいな!」
行動で拒否を示すコラードと追いかけるルネッタの足は止まらない。アルビナータが止める間もなく、二人はあっというまに関係者用の玄関から本館へ入ってしまった。
<今日も、仲良し>
「……そうですね」
あれは、仲の良い姉弟がすることなのだろうか。土の精霊のほのぼのとした評価に人間とのずれを感じながら、アルビナータは生温い表情で相槌を打った。
そう、コラードとルネッタは、三歳違いの姉弟なのである。姓が違うのは、コラードがレオンカヴァッロ家当主の私生児で、母方の姓を名乗っているからだ。どういう事情なのか、アルビナータは王立学院時代にコラードから聞いている。
使用人が当主の子を身ごもって職を辞し、我が身の先が長くないと知って当主に我が子を託した――――まあ、富裕層の家庭なら珍しくない話ではある。が、生粋の貴族令嬢が下町育ちで粗野な性格の異母弟をこうも溺愛しているのは珍しいだろう。アルビナータも、ルネッタがコラードを追いかけ回しているのを初めて見たときは驚いたものだ。今はもう見慣れたし、ドルミーレの職員たちも誰一人止めない、ある意味では日常の一幕であるのだが。
アルビナータは土の精霊を見下ろした。
「精霊さん、私は仕事に戻りますね。助けてくれてありがとうございました」
<大丈夫?>
「大丈夫ですよ。別館へ行くだけですから。あちらにも学芸員はいます」
というより、別館は一部の区域を除いて、学芸員が作業するための区域となっている。だからこういうことは起きない。
それでも土の精霊は心配のようで、別館までのわずかな距離を歩くあいだ、アルビナータの護衛になってくれた。
元々アルビナータは精霊に構われやすい性質であるが、この精霊はこうして、何かとアルビナータを気にかけてくれている。去年アルビナータが久しぶりにドルミーレを訪れたときも、一度会ったきりだというのに再会を喜んでくれた。アルビナータにとっては、種族が違う祖父のようなものかもしれない。
気のいい先輩に親切な精霊、不思議な恩師にして友人。厳しい上司もいる。
七年前に憧れ、目指して辿り着いたアルビナータの職場は、今日も穏やかで陽気で、平和だ。
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