第3話「諦めたくない」
その翌週、勝文は算数の小テストで100点を取った。解答用紙を受け取るまで不安が拭えなかったが、多くの丸と100点の数字、そして母親の嬉し涙がそれを吹き飛ばした。更に図書館で瑞希に見せた際の彼女の称賛が、歓喜の温度を底上げした。
「凄い! 凄いよ勝文君!」
「ありがとう! 姉ちゃんのおかげだよ!」
「ううん、勝文が諦めずに頑張ったからだよ! おめでとう!」
瑞希は共に跳び跳ねてはしゃぎ、何度も勝文の頭を撫でた。実の家族のように喜びを分かち合ってくれる優しさに、勝文は母親に褒められた以上の喜びを感じていた。
それも、恋心故の感情の動きだろう。
「瑞希姉ちゃん、今の俺、カッコいい?」
「うん、カッコいいよ」
「今の俺、凄い?」
「うん、凄い!」
瑞希が勝文の言葉を否定することはなかった。何度も肯定し、彼の心のガソリンとなるような反応を返し続ける。瑞希が放つ温もりは、勝文の意識を他の女から遠ざけるには充分過ぎた。
「……じゃあ、俺の彼女になってくれる?」
「え?」
勝文は言ってしまった。勉強ができて、スポーツも万能で、ようやく瑞希のお眼鏡にかなう男になれたと実感した。その優越感が心を突き動かし、ポケットから溢れ落ちた荷物のように欲望がポロッと顔を出した。
「俺、運動神経抜群だし、100点取れるくらい頭良くなったし、カッコいい男になったんでしょ?」
「えっと……」
「瑞希姉ちゃんのこと好きだし、これからも姉ちゃんのためにもっともっと凄くなるから」
勝文は瑞希の手を握った。瑞希より弱々しく小さいが、それでも確かに男の手だった。
「だから、俺の彼女になってよ、瑞希姉ちゃん」
「……」
瑞希は静かにしゃがみ、勝文の目線に合わせる。そして、彼の両肩に手を乗せて呟く。
「ごめんね、私は勝文君の彼女にはなれない」
瑞希の返事を受け止めた途端、勝文の瞳から涙が溢れた。自分でも分からないほど、瑞希は自分の願いを聞いてくれると確信していた。
しかし、跳ね返ってきたのは頭の片隅にも残っていなかった予想外の言葉だった。まるで敷かれた行く先のレールを唐突に外されたような、恐ろしい空虚が心を埋め尽くした。
「なんで? まだ100点を一回しか取っていないから? もっと取らないと天才じゃないの?」
「……」
「最近勉強してばかりで、運動の方をサボったから? 大丈夫だよ、これから勉強も運動も両方ちゃんとやるから」
自分の至らないと思われる点を思い付く限り列挙し、改善することを誓う勝文。勝文の言葉を優しく肯定し続けた瑞希が、初めて否定した。今まで感じたことのない焦りが勝文を襲い、早口で彼女の心情を問う。
「ううん、そうじゃないの」
「じゃあなんで? なんでなの?」
勝文の頭で思い付く理由に、瑞希はことごとく首を横に振る。考えられる欠点は出し尽くし、もはや勝文のなけなしの学力で想像できることではなくなった。
しかし、一つだけ、核心的な可能性が頭に浮上していた。聞くのが恐ろしく奥底にしまい込んでいたが、勝文は勇気を出して尋ねた。
「俺が……ガキだから?」
圧倒的な年齢差。それが自分を受け入れてもらえない最大の要因であると、勝文は悟ってしまった。
自分はまだまだ世間の「せ」の字も知らない小僧で、単純な感情に体を突き動かされる人生経験の浅い未熟者だ。恋とは何か、愛とは何か、それらを全く知りもしないまま、男女の付き合いを考え始めた愚か者は、相手にされなくて当然なのか。
「俺がまだまだ小学生で、ガキだから付き合えないんだろ? 瑞希姉ちゃんみたいに大人じゃないから、子供とは付き合えないんだろ? そうなんだろ?」
「……」
瑞希は言葉に詰まっていた。勝文が今指摘したことも、半ば事実と変わらないからだ。相手は小学生で、一時の麻疹のような恋心に侵されているだけ。そのように勝文の感情を軽視してしまっていた罪悪感があり、首を縦に振ることができない。
「ううん。違うの」
「じゃあ……なんでだよ……」
勝文は子供らしく瞳に涙をいっぱいに浮かべ、嗚咽を漏らしながら尋ねた。瑞希も何も答えられなくなり、状況は泥沼と化した。
「瑞希?」
ふと、勝文の背後から男性の声が聞こえた。勝文は二人は振り向くと、そこには背の高い学ラン姿の美青年が立っていた。
「
「瑞希、この間落として失くした消しゴム、僕の部屋で見つけたよ」
男性の姿に、瑞希も気が付いて声をかける。男性は瑞希を呼び捨てにし、そして瑞希は恐らく下の名前で彼を呼んでいる。自分も下の名前で呼んでもらってはいるものの、勝文は自分とは全く違う扱いをしている空気を感じ取った。
「誰、こいつ……」
勝文は不機嫌そうな声で瑞希に尋ねる。実際不機嫌だ。なぜなら、この男性の正体は、小学生である勝文も否が応でも想像できてしまうからだ。そんな瑞希にとっては誇らしい事実を、彼女は全く誇らしくないような覇気のない声で口にした。
「私の……彼氏」
彼氏の名前は
彼は高校で生徒会長を務めており、文武両道は当たり前のこと、瑞希にも負けないほどの温厚で優しい青年だった。瑞希とは読書や映画鑑賞などの趣味が共通して気が合い、昨年のクリスマスのデートの際に告白し、二人は交際を始めたらしい。
「彼氏……いんのかよ……」
瑞希と知也の馴れ初めを、勝文は泣きそうな表情を浮かべながら聞く。自分と彼女だけの特別な関係を築いてきたつもりが、それ以上に親密な恋人同士という繋がりが、瑞希と知也の間に既に形成されていた。
まるで嘘のコースを教えられて競争させられていたような虚しさを前に、胸を押さえて苦しむ勝文。今までの瑞希への恋心の居場所が、どこにも無くなってしまったように感じられる。
「瑞希と仲良くしてくれてありがとね、勝文君」
勝文は知也の屈託ない笑顔が気に入らなかった。隙あらば彼の弱味を握って自分の有利性を上げようと画策したが、見つかるはずがなかった。
相手の粗捜しをしようと考えてしまう時点で、既に知也には及ばないという現実が腹立たしかった。もはや自分は恋のライバルという土俵にすら立たせてもらえない。
「ごめんね、勝文君。でも、勝文君にはもっといい人が見つかるよ。諦めなければ、きっと」
「瑞希姉ちゃんじゃなきゃ、嫌だ」
勝文は相変わらず子供のような意地を張ったまま、考えを改めはしなかった。瑞希の言葉がここまで心に浸透しなくなったのは初めてだ。やはり自分の気持ちを受け入れてもらえず、既に彼氏がいるという現実に耐えられるはずがなかった。
「勝文君は人を見る目があるね」
「え?」
すると、今度は知也が語り始めた。瑞希を奪った(と、勝文の中では決めつけている)男が、背丈が半分にも満たない小さな男の子に、瑞希の優しさを彷彿とさせる穏やかな口調で話す。
「確かに瑞希は魅力的な女の子だよ。ひたむきに誰かを支え続ける優しさは、並大抵の人が真似できることじゃない」
知也は生徒会長としての活動に誇りを持つことができたのは、瑞希の優しさのおかげだと言う。
誰かの代表という立場は批判を受けやすく、嫉妬の対象として冷たい視線を浴びせられることが多い。ただでさえ人徳のある知也は、一部の者からのバッシングに心を痛めていた。
そんな中、瑞希は彼のそばで励まし続けたのだ。誰かを導き、良い未来へと引っ張っていく知也の姿に、自分も心を打たれたと。知也のまっすぐな姿を見て、心から支えたくなったと言った。
二人はお互いの優しさに惹かれ合い、運命の糸を手繰り寄せるように結ばれたのだ。
「瑞希は素敵な女の子だ。そんな瑞希を彼女にしたいと思うなんて、勝文君は人を見る目があるね。凄いよ」
知也は勝文に笑いかける。見れば見るほど笑顔が洗礼されており、自分には勝ち目がないことを実感させられる。自分も瑞希の優しさにどれほど救われたことか。しかし、年齢差という悲痛な現実が自分と瑞希が結ばれることを許さない。
だが、勝文もその現実を許すことはなかった。
「……そうだよ。俺は凄い奴なんだ」
勝文は小テストの解答用紙をくしゃくしゃになる勢いで掴み、荷物を全て抱えて席を立った。もはや100点を取っただけでは満足できない。今自分の目の前に立ち塞がるのは、難関なテスト問題よりも遥かに難攻不落の壁だ。
「俺はいつか、瑞希姉ちゃんと付き合う……いや、結婚してみせる! 瑞希姉ちゃんにふさわしい男は俺なんだ!」
「えっ……///」
瑞希は勝文の唐突な発言に、思わず頬をポッと赤く染める。知也の言葉で、ようやく自分は恋のライバルとして認めてもらえたような気がした。
彼の境遇を聞いて、ますます恋心を諦めきれなくなった。勝文のエンジンとなった恋心は、彼の夢を瑞希と付き合うことから、彼女と結婚することへと一瞬にして飛躍させた。
「諦めない! 絶対に!」
瑞希は勝文の瞳をじっと見つめた。その瞳に宿された思いの強さは、誰が見ても伝わるほど本気だった。勝文はそれだけ言い残し、図書館を後にした。
勝文がいなくなった図書館で、瑞希は知也と向かい合って話を続けた。
「ごめんね、知君。勝文君が迷惑をかけたみたいで……」
「そんなことないよ。それにしても、相当愛されてるんだね。やっぱり瑞希は教師に向いてる」
当然知也は笑って許した。勝文がそこまで瑞希に振り向いてもらおうと必死になるのは、彼女が諦めないことの重要性を説いたからでもある。
諦めなければ何事も成し得ると、己の低能さに悩む勝文を励ました。彼を誤った方向へと導いてしまったのではと、瑞希は後悔していた。
「勝文君の気持ちはだいぶ本気みたいだ。だからこそ、僕も彼に負けないように瑞希を愛さないとな」
「知君……///」
知也も勝文のような、やんちゃな小僧を思わせる笑みを浮かべる。励ましというほどでもないが、少しだけ気持ちが楽になったように思えた瑞希だった。
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