第2話「凄い人」



 学校から帰った勝文は、外出しようとすると母親に止められていた。


「こらっ、遊びに行くのは宿題を済ませてから!」

「遊ぶんじゃねぇよ! 宿題しに行くんだよ!」

「え……?」


 あまりの衝撃発言に、母親は思わず握っていた勝文の腕を離した。よく見てみると、彼の片方の腕には計算ドリルとノート、筆箱が抱えられていた。解放された勝文は、ロケットのごとく家を飛び出す。


「行ってきまーす!」


 勉強より三度の飯が好きだった勝文が、自分から進んで宿題をやると言い出した。姿を見て、これは明日は雨と雷と雪と雹が同時に降るのではないかと思う母親だった。






「瑞希姉ちゃん……いるかな?」


 ノートとドリルを抱えながら、自習スペースへ向かう勝文。図書館で瑞希と共に宿題を済ませる魂胆だった。放課後は図書館で勉強しているという彼女の発言を頼りに、彼女の後ろ姿を探す。


「あっ!」


 瑞希の綺麗な青髪が目に入った。もはや砂浜に落ちたゴマを探すよりも容易いほど、彼女の青髪は閑静な図書館の中、美しく輝いていた。

 彼女は高校3年生で、来年の2月に大学受験を控えているらしい。相当勉強に集中しているようで、勝文は話しかけづらい空気に道を塞がれた。


「……」


 勝文は本棚の影から獲物を狙うライオンのように顔を覗かせて待ち続けた。


「あっ!」


 すると、またもや瑞希は消しゴムを落とした。先日と同様肘が当たってしまったのだ。勝文は今度は負けじと真っ先に駆け出した。

 まるで本物のライオンのように、俊敏なハンターを彷彿とさせる動きで消しゴムを掴み取る。慌てて拾いに来る瑞希に、勝文は自信満々に差し出した。


「ありがとう。勝文君、優しいんだね」

「えへへっ、まぁね!」

「ふふっ」


 勝文の必死な様子に、思わず瑞希も笑ってしまう。その笑顔にまたもや鷲掴みにされる。落とした消しゴムは掴み損ねるも、勝文の心を意図も簡単に掴んでしまう瑞希の恐ろしさに、勝文は頬の火照りを隠せなくなる。


「それにしてもよく落とすね」

「うん、家族にあんたはおっちょこちょいだなって、よく言われるの……」


 普段はしっかり者のイメージがあるも、意外と可愛らしい一面も兼ね揃えているらしい。ますます瑞希と距離を近付けたくなる。これからも彼女が消しゴムを落としたら、自分が真っ先に拾ってやろう。勝文は決意した。


「今日も本を借りに来たの?」

「ううん、宿題しに来た!」

「おぉ~、偉い! 真面目だね♪」


 瑞希は勝文の頭を撫でた。彼女の優しさが温度として感じられ、勝文は分かりやすく照れる。


「ここで一緒にやっていい?」

「うん、いいよ」

「やった!」


 瑞希は快く受け入れてくれた。彼女の成す所作の、何から何まで美しいこと。勝文は彼女のそばにいられることで、妙な優越感に浸る。




「ぐぬぬ……」


 勝文はしばらく瑞希の隣で、黙々と計算ドリルの問題とにらめっこをする。しかし、普段から全く勉強していないため、余りの出る割り算の問題が解けずに難航する。問題の26÷6=が、嘲笑うように勝文を見つめる。


「勝文君、大丈夫?」

「だ、大丈夫! こんなのすぐにできるから!」


 恥ずかしいところを見せまいと、教えてあげようかと聞かれても平気なふりをする。しかし、ノートに次の数字が書き込まれないまま、無駄な時間が通り過ぎていく。




「ろくいちがろくー、ろくにじゅうにー」


 すると、瑞希が突然九九の6の段を唱え始める。勝文は彼女の高い声に驚き、まじまじと見つめる。


「ろくさんじゅうはちー、ろくしにじゅうしー」

「ろくしにじゅうし……あっ!」


 勝文は=の後に「4あまり2」と書き込む。完全に彼女に助けられてしまった。必死でできる男のふりをしていたが、勉強が苦手なことは既に気付かれていたようだ。


「ありがとう、瑞希姉ちゃん」

「どういたしまして♪」

「姉ちゃん……教えてくれる?」

「うん、まかせて」


 瑞希の話す言葉何もかもに、ことごとくときめいてしまう。勝文は勇気を出し、教えてくれるようと頼む。瑞希は自分の大学受験の勉強を抱えているにも関わらず、快く引き受けた。


「どこが分からない?」

「えっと……」


 彼女の優しさは窓から差し込む暖かな光のように、ストンと心に落ちる穏やかさを含んでいた。それが何よりもいとおしいと感じる勝文だった。外から差し込む光が茜色に変わるまで、勝文は彼女の手厚い指導を受け、ノートにかじりついた。


「姉ちゃん、よかったらこれからも勉強教えてくれる?」

「うん、私でよかったらいつでも♪」

「あ、ありがとう……」




 それから週に3,4日ほど午後に図書館に通い詰め、瑞希に勉強を教えてもらうことになった。瑞希は教師を目指しているらしく、子供の接し方や個別指導の練習にもなって丁度いいと、勝文を笑顔で迎えた。

 彼女の笑顔が何度も見たくて、優しさに甘えてしまいたくなって、勝文は友人との約束がある日もそれを断り、彼女の待つ図書館へと駆けていった。




「瑞希姉ちゃん……///」


 勉強が苦手な勝文でも、流石に気が付くことができる事実がそこにあった。既に勝文は恋に落ちていた。




 勉強を教えてもらいながらも、勝文は瑞希は何気ない会話を楽しむようになった。勝文は自分の功績を商品を買ってもらいたい販売員のように語る。

 先週の体育のサッカーの授業で、ハットトリックを決めたこと。今までのクラスメイトとの腕相撲で、一度も負けたことがないこと。運動会のバトンリレーのアンカーに選ばれ、強者走者を追い越してゴールしたことがあること。


「そうなんだ! 凄いね、勝文君」

「えへっ、でしょでしょ♪」


 瑞希の「凄いね」の一言を得るために、ありったけの自慢話を頭の中から引き出す。その度に瑞希は暖かい笑顔で褒めてくれる。それが勝文にとっては、母親からの称賛より何億倍も嬉しかった。


「……でも俺、勉強だけはダメなんだよね」


 しかし、自分が誇れるのは運動ばかりで、勉強に関してはてんで拙劣だった。普段の小テストは平均点を上回ったことはない。よく母親にも叱られている。

 そもそも勝文という名前自体、どんなものにも負けない強い男の子になるようにという願いを込め、付けられた名前だそうだ。だが、勉学の運にはことごとく嫌われた人間と成り果てている。


「俺、何でも勝ちたい。どんな勝負でも負けたくない。勉強でもクラスのみんなに勝ちたいんだ……」

「……」


 そのことも打ち明ける間でもなく、既に瑞希には分かりきっているようだった。せっかく愉快に上がっていた勝文の頭が、ドリルに吸い寄せられるように垂れ下がっていく。


「そっか、じゃあ頭も良くなって勉強できるようになれば、もっと凄い人になれるね」


 それでも瑞希は前向きに捉え、勝文の頭を上げさせる言葉を繰り出した。できないことを嘆くのではなく、できるようになった自分の姿を想像し、それに近付くために努力を重ねていくという可能性を、勝文は瑞希の言葉から見つけ出した。




「ねぇ、瑞希姉ちゃん。俺が天才になったら、カッコいいと思う?」


 勝文は重たい頭を上げ、恐る恐る尋ねた。




「もちろん! 運動ができるだけじゃなくて頭も良いなんて、凄くカッコいいよ!」




 瑞希の言葉が、勝文の未来へのレールを敷いた。今この日、この時、この瞬間から、勝文の努力は瑞希の期待に応えるための物と化した。

 自分が優れた男になればなるほど、瑞希は称賛の声を浴びせてくれる。彼女に認められることが、自分が立派な人間として成長できた証のように感じられ、気分が高揚した。


「じゃあ、俺、頑張る! 凄い人になる!」

「うん! 勝文君なら、きっとできる! 人間諦めなければ何でも叶うんだから! 頑張って!」


 突発的に沸き上がった恋心は、勝文を狂ったネジ巻きオモチャのように突き動かした。勝文はその日の宿題を秒殺で終わらせ、図書館を後にした。




 その日以来、勝文は日々の宿題をめんどくさがらずに早急にこなし、加えて図書館から学習本を借りて自主勉強を始めるようになった。

 自分の苦手なかけ算や割り算、漢字やことわざなどの問題集を解き、自分の弱点と向き合った。瑞希も勝文に付きっきりで教えた。苦手は問題をたくさん解き、慣れていくことで間違いを減らせる。


「諦めなければ……何でも叶う!」


 瑞希から貰ったアドバイスを元に、勝文はノートの上で鉛筆を走らせた。


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