第5話

 雨はほどなく止んだ。

 犬神は顔を険しくして足取りを早めた。

 雨が止めば風が出る、風で歓楽街の様々な匂いが混ざれば、たどりきれなくなる。その前に目的の香水の匂いの行きつく先を見つける必要があった。


 そして幸いにして、それは大きな雑居ビルに行き当たった。

 エレベーターではなく、階段に匂いは流れている。しめたものだった。階段の匂いを辿って登った先は3階、24時間営業のネットカフェだった。


 その押し扉を開くなり、なかからむっとした人の匂いがした。エル・デグランの匂いはしない。部屋の目立つところで動作している除菌機能付きの空気清浄機が、残り香すら消しているのだ。

 それでもヒトの匂いがするのは、テナント自体に染み付いた匂いである。


 長期滞在、連続使用の客が多い、いわゆる住所不定の労働者が宿泊施設としてブースを長期利用できるタイプのネットカフェだ。

 香水の匂いは掻き消えていたが、かわりに別の匂いがしていた。

 血飲み系だが、嗅ぎ慣れぬ若い女の体臭である。ヒトとしての匂いがまだいくらか混ざっている。おそらく血統としても無所属と思われる匂いだ。


 ……血飲みは鬼籍に転化して昏睡状態から目覚めたからといって、すぐに完全な血飲みになるわけではない。

 日光アレルギーや犬歯の異常発達など顕著なものを中心に概ね3ヶ月程度かけて体が変質していく。

 転化の覚醒を迎えた日から数日ごとに少量の血から摂取を始める。


 その血は人血だけではない。普通は先天性の血飲み体質、通称『真祖』ないし、それに近い体質の血飲みの血を数滴混ぜる。

 これは体質変化時の体感的な負担を軽減する効果があり、この時混ぜられる血によって体臭など軽微な特徴づけが生じる。これを古くは『暖簾分け』などと俗称した時期もある。

 血飲みの特定共同体を血統と呼ぶのも、この体質変化の時期に摂取した血の繋がりに由来する。

 実際体質変化が済んだ後も、100日程度同じ方法で真祖の血を摂取する事で、他の血統へ乗り換えることもできる。……


 女の匂いはほかにもいくらかあるが、鬼籍の匂いはこの無所属の血飲みただ1人だ。

 犬神は一度店を出て、清時にメッセージを打った。


『加害者が潜伏しているかもしれない店に来た。特定はできない。何か店員に聞き出すネタはないか』


 ほどなく、画像が一枚返信されてくる。


『今朝家を出たときの服。被害にあった時は違う上着を着ていたらしい』


 それを見て、犬神はその上着の画像だけが大写しになるように画像を拡大して、店にもう一度入った。


「月院当主の名代で来た。この上着をきた客は来てないか」


 店員は少々お待ち下さい、といって備え付けの内線をかけた。相手はオーナーで、月院の関係者が来ていると伝えた。

 程なく店の奥のスタッフルームからポロシャツ姿の中年男性が出てきた。彼は犬神の変異した風体に動じる風もなく聞いた。


「あのー、証明できるものとか、お持ちですか?」


 犬神は携帯のカメラロールから、先月焼肉屋で撮った二人並んだ画像と、月院清時のやや古い名刺を出し、裏面を見せた。そこには清時直筆の花押が記されている。

 これを見て、オーナーは店員に「お通して」と指示し、店員もこれに従った。


 ブースの間の狭い道を通り、女性専用エリアのひとつのブースの壁板を叩いた。

 叩いた壁の部屋から、エル・デグランの匂いがした。

 犬神はさっと店員を壁際から下がるように廊下側へ押して、前に立った。


 カーテンを開けて顔を出したのは20代かもあやしい幼い顔だった。その口元はマスクで覆っている。

 人狼系の犬神にとっては、顔をそむけたくなるような濃厚なスパイス系香水の匂い。それに重なって転化間もない吸血系鬼籍者特有の半ば人間味の残った体臭がしていた。

 犬神はフードを下げ、すかさず自分の仕事用の名刺を出し、深々と頭を下げた。


「この街の鬼籍者界隈の探偵業を営んでおります。犬神と申します。少しお話聞かせていただいてよろしいですか」

「探偵さん、ですか」

「はい、不審な点ございましたら、警察等呼んでいただいて結構です。現在ちょっと緊急で人探しをしておりまして、何かご存知のことはないかと」

「あ、はあ」

「いきなりで失礼なんですが、マスクを外していただいて構いませんか?」


 そういわれて、少女はおそるおそるマスクを顎にずらした。

 犬歯が上唇を押し上げるように口角からにわかに飛び出している。

 歯科で削り落としの処置を受けていない血飲みの顔つきである。


 今は差別に配慮して血飲みと呼ばれているが、古くは吸血鬼と呼ばれて来た。後天性の被差別身分者である。それを象徴する身体的特徴の一つがこの牙状に肥大化し、露出した犬歯がある。

 この外見に起因する差別を避けるために、歯科技工が発達した近代以降では、血飲みの鬼籍者は、犬歯を人並みにまで削り落とす傾向が強い。


「なるほど、ありがとうございました。重ねて伺いたいのですが、この界隈の血飲みの支援等はお受けになられていますか?」

「え、それは……」

「あ、えーと、こういうやつです」


 そういって、犬神は背負った斜めがけのバッグから、四つ折りの折り目のついたチラシを出して見せる。


『赤いまごころ・月院寺共催 炊き出しと血飲みさん向け飲用血液配給の会 

 新町みどり公園にて毎月火曜実施中。無料での健康相談・法律相談も受け付けています。

 ※飲用血液は血統用の血を配合していません。希望される方はご相談下さい。』


 フリーウェアのイラストを活用した牧歌的なコピー紙のチラシである。

 これを見て、少女はあっという顔をしてブースの中に戻り、壁に貼っていたと思しきマスキングテープのついた最近のバージョンのチラシを見せた。


「火曜日に、飲むための血のパックと生理用品をもらいました。あと、豚汁のうどんも」


 それをきいて、犬神はジャケットの後ろの裾から垂れたしっぽをふさふさと揺らした。


「あの豚汁うどん、美味しいですよね。私もたまに就労の相談の手伝いに行って、余ったのを裏でもらって食べてます」

「あの、探してる人っていうのは」


 そう問われて、携帯から先ほど清時から送られてきた画像の顔の部分が映るように見せた。

 これを見て、少女の表情がにわかにこわばる。

 その肩越しに、犬神はちらと彼女のブースの中を見た。


 大型ディスカウントストアで売っているようなぺらぺらの寝袋と大きな鞄、そして壁のコート掛けには手にした携帯に映っている女性が着ているものと同じダブルボタンのツイードジャケットが掛かっている。

 まだ、そこからほのかに人間の女の匂いがしていた。どぶ板通りの店で嗅いだ血と同じ人間の匂いだ。


「あと、あの上着がここにある理由を聞いても、よろしいですか?」


 そうきくと、彼女はおそるおそるうなずいて、ブースの中から貴重品を入れていると思しき小さなバッグを手に出てきた。


「ここだとほかのお客さんに聞こえるので、どこか、外の店で」


 そう言われて、犬神はこくりとうなずいた。

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