第4話
雨だれの合間、店の数メートル手前から規制線のテープが貼ってある。
その前には人垣ができ、その中には既に獣人面と化した犬神融もいる。
「大当たりだ。店に入らなくても被害者の血の匂いがわかる」
「こっち来て嗅いだの?」
「違う、若い女の血の匂いだ」
「うわあ、変態っぽい」
これを聞いて、犬神は深くため息をついた。
「おい、俺帰るぞ」
「アハハ、悪い。冗談だって」
既にその耳殻は人のように目の横にはない。犬のように上へと伸びたのが、フードで潰れて垂れ耳のように伏せている。その耳で携帯電話の無線ヘッドセットが青く光っている。
店の引き戸のガラスが割れて、血の跡が生々しくついている。
「匂いの感じからして、現場で暴れたのは独りだな。
「なにそれ」
「エル・デグランのシルバーバレットって香水だよ。はじめは柑橘系、時間が経つと胡椒の匂いがする。どっちも変身中の人狼の鼻にはつらい。人狼や客を選べないキタシンのナイトワークの血飲みの女の子なら、ふつう今夜はつけない」
「ああ、人狼避けの香水で『銀の弾』か。今夜はつけないっていうのは、十六夜だから?」
「そうだ。今夜は満月で人狼の鬼籍は体が変わる。嗅覚も犬並みになる。人狼のボーイやドアマン、客に配慮して店側が今夜はつけないように女の子に指導するんだ」
「エルデグ……私でも匂いわかるかな」
「転化の待機中で霊安室に居るってことは、病院側で体の清拭終わっちゃってるだろ。たぶん血飲みの鼻じゃあわからんと思う」
「そっか……じゃあ今、安置室で寝てる被害者は」
「厄介事に巻き込まれた可能性がある。なにかそれっぽい情報はないか」
「いや、まだ本人とも被害当時一緒にいた婚約者とも会えてない。何かわかったら追って伝える。けど、キタシンのどぶ板通りでしょ。でもって月院の血統じゃない、と……」
「ああ、警察も細かくは特定できてないのかもしれない。俺がここに居るだけで見張りの警察官から漂ってくる警戒臭がどんどん強くなってる。シルバレの匂いで人狼のストーカーにでも追われてたんじゃないかと思われてたら面倒だ。ちょっと場所移すわ」
「はいよ」
その返事をうけて、回れ右して雑踏へと向かう。
「あのさ、キタシン最大の血統の御当主様にこんな話ししたくはないけど、場合によっては鬼籍同士の抗争かもしれんぞ」
「えー、そんな話し最近聞かな……でもないか。10代の不良グループが血統無視した小さなグループを組むようになってきたって報告上がってるから。それが勝手にキタシンのどっかに縄張り意識持って流れ者狩りとかやってる可能性はなくない」
「その話なら、俺も別件で聞いてる。そういうの、セージんとこの血統でシメないのかよ」
そうぼやくと、電話の向こうからむっとした大声があがる。
「そーゆーのは全部警察に通報してますぅ! っていうかそこまで血統でやったらもはや血飲みの互助共同体じゃなくて暴力団だから! だいたいウチは昔から穏健派なの! だから他所の血統や地域の人間社会や行政ともこれまで仲良くやってこれたんだし」
「はいはい、さいですか。とりあえずこっちは、シルバレの匂いを辿れるだけ辿ってみる。グループの方は警察が追ってるだろうから下手に追うと鉢合わせになる」
「血なまぐさいことになりそうだったらきちんと警察呼びなよ」
「わかってる。また連絡する」
「はい、お願いしまーす」
そう言って電話を切ると、犬神はジャケットの襟を立ててすんすんと鼻を鳴らしながらその場を離れた。
電話を切ってため息をつく清時。
振り向くと、コーヒーを飲み交わしていたテーブルで高槻議員は顎マスクのままどこかに電話をかけている。
コンビニの中では、高槻議員の妻で被害者の母親の千恵が、真っ赤に腫らした目元を拭っている。側にはその肩に手を当てる、母親によく似た目元の色黒の青年が立っていた。
なにか励ましの言葉をかけているのか、その口元のマスクがペコペコと膨らんだりしぼんだりしている。
高槻夫妻の息子だ。マスク越しにもそれは明白だった。
雨に濡れたコート姿、ネクタイとシャツのボタンこそ緩んでいるが、きちんとしたスーツ姿。おそらくは職場で、家族の身に起きた凶状を知って慌てて駆けつけたのだろう。
それを見て、清時は懐から白いハンカチを取り出しながらコンビニ店内に入った。
「どうもはじめまして。この度は雛南さんの突然の事、大変なご災難でございましたね。ご心労のほど、お察し申し上げます」
そう言ってまず青年の方に頭を下げる。向こうもやや訝しみつつも頭を下げてくれた。
「こちら、よろしければお使いください」
そういって高槻千恵にハンカチを手渡し、続いて懐から名刺入れを出す。
すると青年も清時の所作を見て、速やかに同じようにカードケースを出した。
「私、このあたりの鬼籍者の互助団体の運営と、月院寺にてこの界隈の血統の当主をしております。月院清時と申します」
「雛南の兄の、高槻一綺です」
「お兄様でしたか。妹さんには、大変お世話になりました」
「というと」
そう問われて、高槻雛南が月院の運営する貧困鬼籍者を主な対象とした炊き出しや必要品配給のボランティアに長らく参加していたことを話した。
それを聞いて、一綺はいくらか息をついたような具合に表情を和らげてこくこくとうなずいた。
「そういうことでしたか。どうも妹がお世話になりました」
「いえ、それは本当に、こちらこそ……この時間の病院は、気持ちを切り替える場所もないですよね」
そういうと、千恵は謙遜するように涙を拭う手を止めてぱたぱたと手を振った。
その足元は、起毛革のショートブーツの上端から、毛玉のついた厚手の短い靴下がはみ出ていた。それなりに上質なコートと併せて、この靴下と化粧をしていない顔やほつれたひっつめ髪が、娘の身に起きたことを知って飛び出してきたことを示していた。
「……よろしければ、雛南さんに会わせていただけますか? あと、もう1人ご紹介して頂きたい方が」
そう言うと、息子のほうが何かを察したように「はい」とうなずいた。
「虹汰さんにはまだ会ってませんか」
「虹汰さん……ご婚約者ですね。ご紹介頂けますか?」
「はい、わかりました。母さん、ひなのいるところ、わかる?」
母親はこくこくとうなずいて、導くように歩きだしてくれた。
2人はこれに続いてロビーに出て、隠し扉のような壁と同化した引き戸を通り、そこにあるエレベーターのボタンを押した。
降りたところは、ややカビのような土のような匂いがした。
暗い廊下の一角、こうこうと天井灯がついた一角に、安置室の鉄扉はあった。
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