第6話
安置室では婚約者が押し黙って座っている。
そこに、高槻雛南の母に連れられて、兄と月院清時が入ってくる。
兄は、当然の所作のようにろうそくの灯った祭壇の向こうのストレッチャーの上の妹に手を併せた。
この背後で、清時は初対面の婚約者と挨拶と名刺の交換を済ませる。
その拍子に、清時は気づいた。
安置室に入って祭壇のろうそくを見た時、変わった香りの線香でも焚いているのだと思った。
だが違う、この目の前の婚約者から、明らかにスパイスのような匂いがしていた。
もしやこれは、と思いまじまじと見つめる清時。
これに反して、名刺を凝視して婚約者はぎょっと目を見開いていた。
まあこの反応も無理はなかった。月院清時は中央市北新町を中心とした地域の血飲み鬼籍者の最大手血統団体『月院』の当主である。
婚約者の名を木下虹汰という。名刺は県内では知らぬものの居ない銘菓の和菓子食品メーカーの社員であることを示していた。
「わざわざ、どうも」
「いえいえ、お困りとのことで、お力になれればと馳せ参じたまでです」
「あの、おひとり、ですか」
「ええ、まあ、部下をぞろぞろと連れ歩く
「警察に通報だけじゃ、ダメなんですか」
「んー、警察だけに任せた場合、今回の場合雛南さんを被害者とし、加害者を特定し、逮捕することはできるかもしれません。ただ、相手が鬼籍者である以上、その凶暴性を理由に逮捕ではなく射殺という形で事件が終わる可能性も少なからずあります」
「その場合、ヒナは……雛南さんはどうなるんですか」
「その場で警察の方が血液を確保していただければ一度転化処置をして、安定した互助支援に参加できる血統へ加盟することができます。ただ大抵の場合、現場警官が、血液を採取するキットを携帯していない事も多いです。転化処置を想定した採血キットは交番やパトカーなどには常備していますが、そもそも警官は医者や看護師とは違って、採血の技術は研修で年に一度程度の練度ですので、緊急時には発揮できないことも珍しくありません。採血が間に合わなかった場合、雛南さんの転化は叶いません」
「じゃあ、どうしたら」
「現在、この手の案件に長けた私立探偵に依頼して、地域を管轄する血統者としての私の血統当主権限を使って犯行に及んだ鬼籍当事者を探してもらっています」
「見つかった場合は」
「なんとかして血液を手にいれます」
「それは、警察を……」
そう問われて、清時はなんとも言えないような作り笑いのように目を細くして、マスクの鼻元を引き上げて、天を仰いだ。
「んー、通報はします。ただどのタイミングで通報するか、通報する前に何をするかまでは、臨機応変ということで、ひとつ」
奥歯にものが挟まったようなその返答に、なにか察して婚約者は頭を下げた。
「……あ、その変なことをきいて、すみません。ありがとうございました」
「いえ質問にお応えするのも仕事のうちですので。他に気になる事ございましたら、なんなりとお気兼ねなく」
それを聞いて、横から雛南の母が小さく声をかけた。
「もし、その犯人が無事捕まって、血が手に入って、娘が鬼籍に転化したとして……結婚の方はどうなるんでしょう」
「既にご存知かもしれませんが、国内では難しいです。これはこの国が、戸籍として人間と鬼籍を分けて扱っているためです。もちろん理解ある式場で挙式を上げることも、事実婚として一緒に暮らすことも可能です。しかし入籍だけは……それを認めている国に移住でもしない限りは難しいかと」
そこまで言って、さらに続けようとしたところで、婚約者が割って入る。
「お義母さん、それについては、あとで私から説明します。それより、きいてほしい話が」
そう思い詰めた顔で言う木下に比べ、母親は悩むようにうつむいた。
「先に、奥様の方の話をしましょうか。ほかに気がかりなことでも?」
「鬼籍になったら、その血統というものに所属したら、娘とは会えないのでしょうか」
その質問に、清時はやや励ますように声を明るくした。
「ああ、それは大丈夫ですよ。昔はそういう事もありました。というより、元々鬼籍者を血統ごとに隔離するというのは、江戸時代から戦前まで続く人間保護を建前にした隔離政策として存在していた慣習です。ここ50年くらい前に、全ての個人を解放するという方針で、血統の隔離に関する法律も、人数把握を目的としたもの以外は廃止になりましたし」
「ですが、これから先は……」
「はい、どうなるかは私達にもわかりません。少子化を理由に、再びそうした旧来の隔離政策を求める思想を持つ人というのは存在しますし。他にも『鬼籍者は悪魔だ』と迫害したがる宗教勢力の存在も承知しています。一方で、それ自体が間違いであるとして抗議し、鬼籍者を擁護する人間も大勢います。少なくとも私が把握している雛南さんは、こちらの立場を取る方でした」
それを聞いて、母親は再び涙ぐんで、先ほど清時が貸したハンカチで目鼻を抑えた。
「悩ましい気持ちはお察し致します。……ところで、お兄さんがどうお考えかは聞いていませんでしたね、一綺さん、ここで話しにくいようでしたら場所をかえて
話を変えるように、少し声のトーンを明るくして、振り返った。
兄は手を合わせるのをやめて、青ざめて死んだように眠っている妹の顔を見つめたまま、ぼそりと言った。
「……こいつは、この街で鬼籍になったら、水商売で働くことになるんですか?」
ある意味で、確信をついた質問だった。
その言いように、母の千恵と木下はぎょっとして一綺を見つめた。
「かずき!」
思わずそう叱るように声を発する母に、清時は待ったというように両手を見せた。
「たしかに、北新町が歓楽街である都合、夜型生活を避けられない血飲みの鬼籍者の多くがいわゆるナイトワークで働いています……」
血液の定期経口摂取を必要とする、通称『血飲み』と呼ばれる吸血系鬼籍者。
週に1度、体重の0・1%程度の人血を接種しないと頭痛や情緒不安定が出る。摂取しないまま10日から2週間ほど経過すると被害妄想や加害衝動が発生。半月で冷や汗や強い震えが出る。そして20日以上経過した時、心神喪失状態となり、血を渇望して発作的に人を襲う事もある。
だが、基本的には人間から定期的に血液を得ている限り、無害な特異体質でしかない。
また、ナイトワークを生業としている者も多い。
不老長寿、アルコールの分解抗体の多い体質への変化、一般的な感染症にかかりにくい免疫力の高さ、そして直射日光に対するアレルギー体質があるためだ。また夜間の他の労働手段が少ないことも原因である。
この若見えの鬼籍者の性風俗産業従事は伝統的なもので、文献によっては一部地域の宿場女郎は鬼籍者が担っていたとするものもある。
近代までそうした水商売に就く血飲みの多くは、その犬歯を抜いて客を傷つけないようにしてきた。そして客からは接待の見返りとして指先を刃物などで傷つけ、その血を吸って吸血の飢餓をしのいで生きていた。
また男の血飲み鬼籍者であれば夜間の市中の警邏に従事するものも多い。これらについては地域から輪番で血液提供をする仕組みなどが各地域に古くから根付いている。
その一方で、人数は常に地頭や領主の武家によって厳格に管理されていた。他所から流れてきた者、或いは制限された頭数を過ぎた者が出れば、増えすぎた鶏を潰すが如く働きの悪い者から殺される風習もあった。
現中央市北新町は、県庁所在地への町村合併と大字の改称以前は『朱ノ色』と呼ばれていた。これは酒と血の色を掛けた呼び名だ。
当地はその頃の名残りか、鬼籍者の総量制限への関心やそれに伴う人権を軽視する風潮の名残りがある。
清時の姓である月院も当地の吸血系鬼籍者隔離のための堀の内側にあった昏睡状態の転化者の投げ込み寺にされていた月院寺に由来する。元々は『真祖』と分類される当地の先天性の吸血鬼籍体質のための出家寺だった。
月院清時はその寺が創建された時から月院寺に居る。そして転化者と加害の鬼籍者を引き合わせる、今まさに行っているような仕事を生業としていた。
清時は、高槻一綺に話を続けた。
「ですが、中央市においては、現在は血飲みさんに限らず広く鬼籍者向けの雇用の間口は開いています。体質的に昼間の生活ができないことと、定期的に人血を飲む必要があるだけで、あとは一般人と変わりないものと思ってください。今は、血飲みさんが加齢を迎えるための新薬海外では開発されたと聞きます。それが国内承認されれば、木下さんやご家族と一緒に年を重ねていくことも可能です」
「本当に、水商売で働かずに済むんですね?」
「今あの界隈で働いている方は、元々そうした仕事を好む方、そういう生業を戦前から続けてきて他の生き方を知らない方、或いは他の生き方ができない方です」
そこまで聞いて、納得したように細い声でわかった、と応え、マスクの中で鼻を鳴らした。その目元は真っ赤に涙ぐんでいる。
「……こいつ、元々子供みたいに酒が弱いんだ。吸血鬼になって酒が飲めるようになっても、どうせワイン一本も飲んだら酔い潰れちまう。そんなのが酒を出す店で働けないだろ。だから、だから」
そう話し続ける息子に、母親が歩み寄って抱きすくめた。
嗚咽混じり泣き始める兄を見て、木下は顔を伏せた。
清時は彼の袖をひっぱって扉を指さした。これに促されて、家族だけを残してひとまず廊下に出た。
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