10
そっと客間に向かった。ほとんど全開になった襖の向こうに、整然と敷かれた布団が見える。言うまでもなく、そこには母が横たわっている。わたしは思わず目を逸らした。まだ直視する勇気が出なかった。
(でも……この部屋にいた方がいいのかもしれない)
母が何かしらわたしに伝えたいというのなら、別の部屋に逃げているよりも、ここにいた方がいい――ような気がする。ひとつ大きな深呼吸をすると、わたしは敷居をまたいで客間に入った。
六畳の座敷で、押入れはない。掛け軸のかかった床の間に天袋と地袋、違い棚、古風な茶箪笥がひとつ、それから畳まれた座卓が壁に立てかけてある。
文坂家は一応旧家ということになっているけれど、分家は本家ほど大きくない。そもそもこの辺りは地価が安くて大きな家が多く、客間のひとつふたつは大抵の家にあるものだ。わたしはふと、上京して間もない頃の兄がアパートの部屋の狭さと家賃の高さを嘆いていたことを思い出す。
兄のことを思い出すと、(早く来てくれればいいのに)と願わずにはいられない。遠く離れていた方が、兄の身の安全のためにはいいことなのかもしれない。そうは思っていても心細くて仕方がなかった。正直「頼りになる」という感じではないけれど、根が明るくて立ち直りの早い性格だ。いてくれるだけで嬉しい。
兄は今どの辺りにいるのだろう。考え事をしつつ、母の方を見ないようにしながら布団の横にそっと座った。思い切って顔を見ようか迷った。父の話では、眠っているように静かに亡くなっていたという。苦しんだわけではなさそうでよかった、と思う。それでも顔を見るのが怖かった。体つきや髪型ではっきりそれが母だとわかるだけに、一人ではとても見られない。
目を閉じて、心の中で(お母さん)と呼んだ。
(お母さん、何か言いたいことがあるんだったらちゃんと言ってよ)
何の声も聞こえなかった。わたしは目を開けた。視線の先に開けっ放しの襖と、何の変哲もない廊下の壁がある。そんなに都合よく何かが現れたりしないか――目線の高さを保って視線を動かすと、今度は床の間が目に入った。
「ひゅっ」
間の抜けた声が、わたしの喉の奥から漏れた。
違い棚の上、天袋がいつのまにか全開になっている。
天袋の中には掛け軸が何本か入っているだけで、普段から滅多に開けることはない。さっき部屋に入ってきたときには閉まっていた。もしも最初から開いていたなら、その時に気づいたはずだ。開けっ放しにするようなところではない。
「……お母さん?」
おそるおそる部屋の中を見渡した。母の仕業だろうか? そうであってほしい。もしもそうだとしたら、母は何がしたいんだろう?
インターホンが鳴り渡ったのはそのときだった。口から心臓が飛び出しそうなほど驚いて、勢いで立ち上がってしまった。
モニターはリビングだ。確認しなければ。
でも、怖い。
いつのまにか掌にじっとりと汗をかいていた。どうしよう。もしもなにか怖ろしいものがモニターに映っていたら。玄関の外にいるのが――晴ちゃんだったら。
たった一人で、どうしたらいいのかわからない。
でも、兄かもしれない。いや、早すぎる。崇叔父さんのところは皆亡くなってしまったはずだ。もしかすると聖ちゃんだろうか? 考えているうちに、インターホンがもう一度鳴った。
(確認しなきゃ)
リビングはすぐそこだ。どきどきする胸を押さえて足早に、でもなるべく足音を殺してモニターがある場所へと向かい、画面を見た。
黒いトンビコートを着た小柄なおじいさんが映っている。檀那寺の元ご住職だ。ほっとして大きなため息を吐いた。父に用事があったのだろうか、とにかく出なくては。
ばたばたと玄関に向かう途中、はっと思い出して母が寝ている客間の襖を閉めた。父は母の死を隠しているはずだ。見つかったら大変なことになってしまう。
一瞬目に入った天袋は、まだ開きっぱなしになっていた。
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