03
(山から何か来るがやちゃ)
おれが知る限り、文坂家について話すときは皆そう言ったものだ。もっともそれだって、めったに口に出されるようなことではなかったが。
なんでも昔山から何かがやってきて、この辺りの住人が何人も死んだ。当時まとめ役だった文坂家が祈祷師だかなんだかを呼んで事態を収めたけれど、その後も山からは夜な夜な何かが訪れ、当主は長男が七歳になると死ぬようになった――という、民話だか実話だかわからないようなそういう話。それっぽっちしかこの辺りには伝わっていない。おそらく今おばさんに聞いたとしても、「聖ちゃんも知ってるでしょ?」と怪訝な顔をしながら同じ話をしてくれるだろう。
「そ……う?」
おれの言葉に、おばさんは返事に困ったような顔をした。それから眉をひそめて「聖ちゃん、あんた本当に大丈夫?」と聞いてきた。
「何がですか」
「何か思い詰めたような顔してるわよ」
おれは「そんなことないっすよ」と言って笑ったが、頬にうまく力が入らなかった。
主に分家のことについて細々と話をした後、おれの体調をしつこいくらい心配しながら、病院のおばさんは帰っていった。
おれの手には本家と分家の鍵が残された。今日からはおれが分家の換気や掃除をしにいくことになる。いずれ病院の方にきちんとお礼をしに行かねばならない――などと考えながら部屋に戻った。廊下を歩きながら笑顔の練習をした。つい数時間前、志朗さんのところでは普通に笑っていたはずなのに、まるで遠い昔の思い出みたいだ。この家に戻ってきてからずいぶん緊張しているらしい。しっかりしなければ。
「きっちゃん」
晴はさっきと同じく、兄の部屋で待っていた。そういえば珍しいな、と思った。晴も病院のおばさんにはお世話になっている。そもそも人懐こい晴のことだから、来客がおばさんだとわかったら出てくるだろうと思っていたのに、予想に反してずっと部屋で大人しくしていたらしい。玄関での声が聞こえなかったのだろうか? それともこの部屋に興味をひかれるようなものがあったのだろうか。
「びょういんのおばちゃん、きてたねぇ」
先手を打つようにそう言われて、とりあえず「うん」と応えるしかない。晴はこの件についてはもう満足したらしく、にっと笑った。
「きっちゃん、今日からここでねていい?」
「うん?」
「ここ、晴のへやにする!」
背中に冷たいものが走った。兄もそうだった。元々父が使っていたこの部屋を、父の死後、何かに導かれるように自分の部屋にした。ここには子供の好きそうなものなんか何もない――と思う。なのになぜ突然そうしたがるのだろう。
「晴、何でこんな部屋がいいんだ?」
「なんでも」
晴はにこにこしながらそう言った。「だめ? だめじゃないよね? 晴のおうちだもんね」
晴の丸い黒目勝ちの眼がおれを見上げた。自分の過ちを責められているような息苦しさを覚えた。
晴のいう通りだ。兄もねえさんも死んだのだから、この家はもう晴のものだ。おれはあれこれ指示するような立場じゃない。でも、素直にいいよと言いたくなかった。
「だめ――じゃないけど、晴……あのさ、今夜おれの部屋で一緒に寝てくんない?」
とっさにそう頼んでみた。
「ひさしぶりに広い家に帰ってきたしさ、兄さんもねえさんもいないし、寂しいじゃん」
「うーん……」
晴は首を傾げ、何か考えているような様子だったが、ややあって「いいよ!」とおれの頼みを聞いてくれることになった。とりあえず少しだけほっとした。ともかく一晩だけ何か――それが何か考えるのも怖ろしいような何かを、遠ざけることができたような気がした。
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