15
おれよりも黒木さんが先に踏み込んだ。そのことを理解した瞬間、おれはとっさに晴の目を掌でふさいだ。ガンといったのかパンといったのか、とにかく何やらすごい音がして、振り返ったときにはもう目の前にあったはずのソファが床にひっくり返っていた。
アラームはまだ鳴っている。おれは中腰のまま、晴は座ったまま固まっている。
黒木さんが予想を超えた躊躇のなさで志朗さんを殴った――ということを理解するのに少し時間がかかった。正直、驚いていた。頼まれたからってそうそうためらいなく人を全力で殴れるわけじゃない――と思うし、そうでない人がいるとしても黒木さんはためらう側だと思っていた。志朗さんだってそのことを心配していたじゃないか。
ひっくり返ったソファの向こうで、ようやく志朗さんが体を半分起こした。その直後、「べっ」という声と共に口から赤いものを吐き出し、盛大に咳き込み始めた。まるで、溺れていたところを引っ張り上げられたみたいだった。
「大丈夫ですか」
黒木さんが打って変わって気遣い全開の態度になり、大きな体をかがめて志朗さんの背中をさする。ややあって志朗さんが右手を挙げてオッケーサインを出し、おれはとにかく彼が戻ってきたのだということを知った。全身から力が抜けた。
黒木さんは「アラームが鳴ったら何も考えずに顔を殴る」と硬く決めて、十二分をひたすら覚悟と共に過ごしていたらしい。その理由が、
「聖くんが人を殴るところを見たら、晴くんがショックを受けるんじゃないかと思ったので……」
というものだったので、おれは黒木さんをちょっと拝んだ。
「優しいねぇ、黒木くんは」
ようやく立ち上がってソファに座り直した志朗さんが呟いた。どうやら口の中を切ったらしいが、鼻血はもう止まっている。「負荷がかかると出る」らしい。
「志朗さん、本当に大丈夫ですか?」
黒木さんが心配そうに尋ねる。
「正直けっこう痛い」
「すみません」
「いや、黒木くんは全然悪くないので。むしろいい仕事でした」
と言いつつ志朗さんは首筋を撫でている。拳が当たったらしい右目の下の辺りが腫れてきているし、ソファごと倒れたときに頭を打ったかもしれないので、本当に病院に行った方がよさそうな気がする。
「とにかく巻物を表具師さんとこに持っていかんとなぁ。盛大に汚しちゃった」
「表具師さんって志朗さんの地元の方ですよね?」黒木さんが咎めるような口調で言う。「持っていくなら一日がかりじゃないですか。先に病院行きましょう」
「やだなー、説明がめんどくさい」
「殴った俺が引くほど吹っ飛んでましたよ。行きましょう」
「まぁまぁまぁまぁ、先に縦の結果からでしょ」
何か冷やすもの持ってきます、と黒木さんが部屋を出て行った。おれはあらためて晴と並んで、志朗さんとテーブル越しに向かい合った。
「何かわかりました?」
どきどきしながら尋ねた。志朗さんは首を気にしながら「順番とかなしにどんどん言うので、メモか録音した方がええと思うよ」と言った。
「ボクにも事情がわからなすぎて、わかったことを箇条書きみたいにしゃべってくような伝え方しかできないからね」
録音用のアプリなら、確か元からインストールされていたはずだ。おれは急いでスマートフォンを取り出した。
「シロさんだいじょうぶ?」
晴が話しかけている。「さっきゴンッていったよ! 救急車よぶ?」
「呼ばんよぉ。自分で病院行けるから大丈夫」
「そっか、おとなだもんねー」
ちょっとがっかりしている。あわよくば救急車を近くで見たかったんだろう。
おれがアプリで録音と再生を試している間に、黒木さんがタオルとビニール袋に入った氷を持って戻ってきた。それらを志朗さんに手渡すと「外に出てます」と告げ、ついでに晴を誘って二人で部屋から出ていってくれた。助かる。
「録音大丈夫です。お願いします」
録音開始のアイコンをタップし、画面を確認してからおれは言った。志朗さんがうなずいた。
「よし。それじゃ始めましょう」
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