08

「とりあえずですね、文坂さん、ボクが仕事をするのは明日からです。今日はもう何もできません」

 志朗さんがそう言うと、またクローゼットの方でバタンと音がする。志朗さんはそちらを振り返り、また「動くな」と声をかけた。

「大体今日動けなくなったの阿久津さんのせいですよ。文句言われる筋合いないがな……」

「なんかあったんですか?」

「いや、何度か阿久津さんを追い払おうとしたんで今日もう疲れちゃって。ボクも一応お祓い的なことで食ってはいるので、普通だったらとっくにいなくなってるはずなんですが、この人何回やっても戻ってくるんですよね……」

 ひいては、もし阿久津さんが粘ってくれなかったら、黒木さんがおれたちを探しにくることもなかったということだろう。それを考えると阿久津さんには感謝しなきゃならないわけだが、でもやっぱり怖いと思ってしまう。

「とにかく、阿久津さんが騒いでも何でも、もう休まないとグダグダになっちゃうのでダメです。その代わり明日一日空けたので、ちょっと無茶ができるかな――ただ、承知しておいてほしいことがあります」

 まずひとつと言って、志朗さんが右手の人差し指を立てた。長い指がふと生き物の触覚のように見えた。

「タダ働きは致しかねます。これくらいでかい話を無料奉仕でやっちゃうと、同業者の中ですごい肩身が狭くなるんですよね。今でさえ相当狭いのに」

 おれはナップザックの底に入れたままの三百万円のことを思い出した。肩身が狭いというのは謙遜だと思いたい。もうここ以外に頼る心当たりはないのだ。

「お願いします」

 おれはひっくり返ったテーブル越しに頭を下げた。「一応、三百万円までは即金で払えるんすけど」

「三百万かぁ。じゅう……」

 志朗さんは首を傾げ、「……十一、二分やるかぁ」と呟いた。それが何のことかはわからなかった。

「それからもうひとつ」

 志朗さんがそう言うと、指がもう一本増えた。

「申し訳ないんですが、仮に仕事を引き受けたからと言って、ボクにできることはやっぱりほとんどないと思います。まぁ、文坂さんが現時点では知り得ない情報を持ってくることと、何かあったときの応急処置くらいが関の山でしょう。それでもかまいませんか?」

 一度お願いすると言っておきながら、改めて確認されると言葉に詰まる。志朗さんはまるで目が見えているみたいにおれの方に正面顔を向け、少しの間何か考えているようだった。が、突然口を開いて、

「――あとやっぱり、文坂さんに話しておいた方がいいことが、他にもあります」

 と言った。


 諸々の話を終えたあと、この部屋でよければ一晩泊ってもかまわない、と志朗さんは言ってくれた。というかホテルをとろうとしたら、阿久津さんの強硬な反対にあったのだ。ここにいた方が安全、ということらしい。

「一晩くらい大丈夫じゃろうと思うけどなぁ。距離も稼いだし」

 志朗さんはぶつぶつ言っていたが、結局そういうことになった。

 早く晴に会いたかった。おれは居室を出て右手に向かった。突き当りのドアを開けると広々としたリビングダイニングがあり、テーブルの上で晴が算数のドリルをやっていた。対面には黒木さんが座っている。

 勉強か、そういえばそんな日課もあったな――と、ずいぶん遠いことのように思った。晴が「きっちゃん!」と言いながらこっちを向いた。

「はなまるつけてもらった!」

「おお、よかったじゃん」

「おわったらゲームやる!」

「めちゃくちゃ居座る気だな」

 全盲の人の家にゲーム機がある、というのが不思議な感じがするが、そんなことを気にしている場合ではない。

「黒木くん、急だけど布団二組買ってきてくれる?」

 おれの後からやってきた志朗さんが、黒木さんに声をかけた。

「布団ですか?」

「うん。文坂さんたち、ここに泊まるから。文坂さん、応接片付けるの手伝ってもらえます? 危ないからねぇ」

 言われて初めて気がついた。少なくとも、ガラス天板の割れたテーブルを何とかしないと安全に寝ることすらできない。そんな当たり前のことすら忘れていた。

「きっちゃん? どうした?」

 晴がおれの顔色を見てか、さっきより心配そうな顔で話しかけてきた。おれは首を振った。

「何でもないよ」

 おれは何も言わなかった。言えなかったのだ。

 おれたちが初めてここに来るよりも前から、志朗さんはすでにおれたちが抱えている問題について、ある程度のことを知っていた。文坂の分家から調査の依頼を受けていたからだ。

 おれはこの時初めて、分家に何が起きていたのかを知らされた。

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