07
――あの夜のことを思い出しているうち、ハンドルに置いたままの手が、いつの間にか冷たくなっていた。
長い一夜がようやく明けた朝、ぼんやりとしながら食卓を囲んでいると、護さんがわたしに「見なかったの?」と尋ねてきた。「どうだった?」とか「何か来た?」とかではなく、「見なかったの?」とピンポイントで聞かれたことに寒気がした。
顔を上げると、笑顔を浮かべた護さんと目が合った。その表情に悪意のようなものは感じられなかった。彼はただ、純粋にわたしがあれを見たがっているのだろうと思い、気を利かせてあの客間に通しただけなのだ。わたしを怖がらせようとしたわけではない。
そのことが怖ろしかった。朝食を済ませると、わたしは逃げるように本家を後にした。晴ちゃんが無邪気に見送ってくれたのが心苦しかった。
あれ以来、本家に泊まったことは一度もない。用事があるときは必ず明るいうちに訪問し、日没前に帰ることにした。もう一度同じ思いをするなんて考えられない。
でも、あれは毎晩山からやってくるのだという。
晴ちゃんは、聖くんは、空美さんはあの家でどんな気持ちで暮らしているのだろう。そう思うと胸がぎゅっと苦しくなった。何もできない自分が歯がゆいけれど、でも、関わるのも怖かった。
悶々としているうち、空美さんが亡くなった。事件でも事故でもない、突然心臓が止まったとしか言えないような死に方だったと聞いた。
訃報を聞いたときは愕然とした。空美さんはまだ若くて、わたしが知る限りは、命に関わるような持病も持っておらず、至って健康だったはずだ。ただ、心労は重かっただろうと思う。文坂家のことを何も知らずに護さんと結婚した彼女は、どんな気持ちで日々を過ごしていたのだろう。
葬儀のとき、晴ちゃんはずっと聖くんにしがみついていた。聖くんは真っ青な顔をしていて、なのに護さんはあの穏やかな笑みをずっと浮かべていた。泣いている晴ちゃんの頭を撫でながら「お母さんはねぇ、とうとうお山に怒られちゃった。しかたないねぇ」と言っているのを聞いた。途端に悲しみとも怒りとも恐怖ともつかない感情がこみ上げてきて、部屋の外に逃げ出したのを覚えている。
空美さんは霊能者を名乗る人たちについて調べたり、晴ちゃんにわざと女の子の格好をさせたりしていた。いずれ晴ちゃんがお山に連れていかれることがないように、彼女なりに心を砕いていたのだ。だから「お山に怒られた」、そのせいで死んでしまったのだと――
わたしは祭壇に飾られた空美さんの遺影を見ることができなかった。文坂家に嫁いでこなければ、彼女はこんなに早く死なずに済んだかもしれない。
(聖くんたち、どこにいるんだろ)
わたしはスマートフォンを取り出し、メッセージアプリで聖くんにメッセージを送った。「今どこ? 心配してるよ」というごく簡単なものだった。それ以外に何と言葉をかけたらいいのかわからなかった。
空美さんが亡くなって以降、護さんはめったに家から出なくなった。それでも十分生活していけるだけの財産が文坂の家にはあるのだが、そのせいで聖くんは迂闊に動けなくなってしまった。だから護さんが死んだ途端に逃げ出したのだ。
実の兄の遺体をほったらかしてどこかに消えた聖くんは、おそらく晴ちゃんの運命を変える方法を大急ぎで探している。そうでなければ、お葬式すら分家に丸投げして失踪した理由が説明できない。
(だとしたら、聖くんも空美さんのように、お山に怒られてしまうかもしれない)
そう考えるといたたまれなかった。わたしが送ったメッセージには、いくら待っても既読がつかなかった。
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