03
わたしが本家に泊まったのは確かおよそ一年前、空美さんが亡くなる少し前のことだったと思う。初冬なのに真冬のように寒い日で、山には雪が積もっていた。
空美さんが風邪をひいたというので、夕方ごろに車で食品を届けに行った記憶がある。インターホンを鳴らすと玄関の戸が開いて、元気いっぱいの晴ちゃんが飛び出してきた。
あの無駄に広い家で暮らしていたせいだろうか、晴ちゃんは「お客さん」というものが好きだった。このときもわたしの周りにまとわりついて、「みかちゃん、あそぼー」と誘ってきた。
「ごめん、これ置いたらもう帰らなきゃ。ほかの人と遊んでね。聖ちゃんは?」
「きっちゃん、かぜかも」
どうやら空美さんの風邪をもらった疑いがあり、「晴にうつさないように」と自分の部屋に閉じこもってしまったのだという。だから晴ちゃんをかまってくれそうなのは護さんだけで、その護さんにしたって「子供と遊ぶ」という人ではない。もう彼はその頃ひどく浮世離れしていて、わたしたちの言い方で言えば「お山に連れていかれていた」という感じになっていた。まだ小さい晴ちゃんにも、そういうことはわかるのだ。
この子に同居の祖父母はいない。文坂の長男は短命だし、あとの者は大抵この家自体を忌むものだ。これだけ家が広ければ親類の誰かが一緒に暮らしていたっておかしくないけれど、そういった家族もいない。だからきっと晴ちゃんは寂しいのだ、と思った。
「じゃあ、ちょっとね」
「やった!」
素直に喜んでくれるところもかわいい。当時から髪を伸ばし、女の子の格好をしていたけれど、顔立ちが愛らしいのでよく似合った。いつまでこういう格好をさせておくんだろう、本人がいいならいいけど――などと考えつつ、わたしは晴ちゃんの手をとった。
本家の玄関を潜ると、いきなりホールのような広い廊下が現れる。古いながら床はきれいに磨かれ、天井は見上げるほど高くて太い梁が見える。無理とは知りながら(旅館でも始めればいいのに)と思ってしまうような内観だ。横に居間へと続く襖があり、そこに通されてお絵描きなどをしていると、少しして襖がとんとんと叩かれた。
「だれ? 実花ちゃん?」
掠れた声がした。
「聖くん? わたし」
「やっぱり実花ちゃんか」
という声と共に襖が細く開いて、マスクをつけた聖くんが顔を出した。「早く帰った方がいいよ。今日、日が暮れるの早いって」
「うん、そのつもり」
そう答えたとき、服の裾を引っ張られた。晴ちゃんだった。
「みかちゃんとごはんたべたい……」
泣きそうな声だった。途端にこの子を置いて帰ることがとても悪いことのように思えてきて、わたしは「でもそろそろ帰らなきゃ」と主張しにくい気持ちになってしまう。
家を出る前、夜になる前に本家を出ろ、と親から言われていた。言うまでもなく、山から来る何かと鉢合わせないようにだ。そして、もし遅くなってしまったらいっそ本家に泊めてもらった方がいい、とも。
(ほんとに本家に泊めてもらったらいいんじゃないかな)
晴ちゃんの顔を見ながらそう思った。たぶん、夜になってもこの家から出なければ大丈夫なのだ。外に出て、何かと鉢合わせさえしなければいい。
それに――この頃のわたしはまだ、山から来る何かについて「単なる言い伝えではないか」と疑う気持ちを持っていた。だからこそこの日、本家に泊まることを決めたのだ。正直、好奇心もあった。もしも本当に何かが来るなら、いっそ何かしら見るなり聞くなりしてみたい。そういう気持ちが存在していた。
「聖くん、いきなりで悪いんだけどさ。わたし今日泊っても大丈夫かな?」
そう聞いたとき、聖くんはマスク越しにもわかるくらい「ぎょっ」という顔をした。
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